有阿谷 織子という女
待ち合わせは私の家の前になった。化粧をして、反抗的な寝癖が目立つボブをたしなめて、服を選んでみる。今日はブラウンのボアジャケット。これがあったかくて可愛いのである。
身支度を整え終わる頃には一時半近くになっていた。ちょうど、待ち合わせの時間だ。
暖房の効いた室内で待っているのがもちろん一番いいのだが、その時の私は雪に浮かれていた。ふと、外で待とうという気分になったのである。
ベージュのキャップを被り、トートバッグをさながらテーブルクロス引きのように颯爽と手に取って、右の肩にかける。意気揚々と玄関の向こう側へ飛び出してみると、首の隙間から入ってきた白い空気がアウターの中を駆け巡って、ぶるりと身震いをした。ファスナーを顎まできっちり上げて、ポッケに手を突っ込むと、肩をすくめながら、庇を超えていく。織子と電話しながら見たときより、空より舞い落ちる雪は勢いを弱めていたので、傘を持たずに庭へ駆け出した。足踏みをするたびに、ほっ、ほっ、と白い息が顔の周りを踊る。足跡が、大きな歩幅を残して後ろに伸びていく。積雪は、十センチほどだろうか。
家の前に横たわる道路にしゃがみこんで、雪をかき集めてしまう。というのも、この街は、土と水しかない寂れた田舎であり、この道路も、舗装なんかは当然のようにされておらず、でこぼこの砂利がむき出しなのである。車も、一台通るのが精いっぱいだから、この道を通ることはめったにない。通るとしても、その都度避けてやればよかった。
私は気にせず、両手で雪の山を作る。雪がはげると、下の砂利道が見えた。
ベージュのキャップが雪ですっぽり埋まる頃、砂利道の延長線上の真っ白な地平線に、黒い点が見えた。その点はだんだんと大きくなっていく。その正体が、真っ黒の服に身を包んだ人間で、こちらに近づいてきているということをようやく認識する頃には、立ち上がって大声で叫んでいた。
「遅い」
私はその言葉をおそうい! と伸ばして言った。その黒い影は、織子であった。世の中の光を一切受け付けないような、漆黒のダウンジャケットに身を包んでいる。そのふかふかの上半身から、二本の細い、真っ黒な棒が生えて地面を突いている。織子の足である。驚くほど細いのだ。黒色というのは収縮色といい、錯覚で、引き締まっているように見えるらしいから、ただでさえ細い織子の足は、節足動物のように際立って見えた。ちなみに、白は逆に膨張色と言い、膨らんだように見えるらしい。だから、太っていると思われたくなくて、一時期白色の服を一切着なかった期間があるのを覚えている。
雪も当然膨張色である。白飛びするような背景に、真っ黒の人影がくっきり縁取りされていた。だんだん膨張していく白色に追いやられ、真っ黒な織子がいずれ消滅してしまう気さえした。そのコントラストが、織子に異様な迫力を与えていたのは間違いない。
やがて、顔が視認できる距離まで近づくと、ダウンジャケットの上にショルダーバッグをかけていることを発見した。それも当然のように黒であったから、シルエットだけではわからなかった。
肩甲骨あたりまで伸びた、つやつやの茶髪が吹雪かれて暴れている。そんなものを気にも留めずに、
「相変わらず、歩きづらいねえ、この道は」
と、私の目の前に立ち止まった織子が、笑顔でぽつり。笑うとキツネのような細目をする女である。というより、常に笑顔を絶やさないので、常時キツネのような形相をしている。しかも、その笑顔がカンカン照りの太陽のようなさわやかな笑顔ならまだよかったものの、人を喰ったような、陰気な笑いであるから、どうも何を考えているのか、いまいち表情から察することができないのが嫌らしい。
ここで、織子について話しておこう。織子はここから二、三キロほど離れた、駅前地域に住んでいる。少なくとも、私の家の周りよりは建物も生えていて、道路も舗装されている、この街一番の都会である。といっても、そこから百メートルも歩けば、まるで裏切ったかのように、突然広大な田んぼが姿を現す。織子の実家は、そんな田んぼの中に鎮座している。何を隠そう彼女は、この街一帯を占める米農家のご令嬢なのだ。豪農・有阿谷家といえば、この街で知らない者はない。
織子の家に遊びに行ったことがある。まず驚いたのは門構えである。長屋門といって、敷地外と中庭を繋ぐ両開きの大扉が中央に存在し、肉付けされたように瓦屋根の小屋が覆いかぶさっている、日本の伝統的な門形式の一つである。しかし、有阿谷家ではその長屋門に表札がかかっていたものだから「ここが織子の家か。小さいな」と思った記憶がある。逆に考えると、自宅の門だけで小屋程度の大きさがあるのだから、恐ろしい。よく観察してみると、長屋門の両脇からは、これまた瓦屋根を被った塀が、端っこが見えなくなるほど長く伸びている。いわゆる、古い日本家屋によく使われる土塀である。
玄関に着くまでには、およそ三十メートル(!)ある中庭を横切らなければいけない。中庭も、枯山水こそないものの、松の木のよく手入れの行き届いている様や、よく透き通った池泉に錦鯉が優雅に泳いでいる様などは、まるで京都の禅寺をそのまま持ってきたようである。むしろ、私なんかは、玄関へ行くために中庭を通っただけだから、よく探せば実は枯山水もあるのかもしれない。そう思わせるほどには巨大な庭である。
本丸とでもいうべき母屋にお邪魔させてもらったが、訪れた私ですら、その全貌はわからない。広い家にお邪魔した時、私は「探検してもいい?」と聞くようなたちであると、この時までは思っていた。しかし、ここまで圧倒的に広いと、流石の私でも萎縮して、「探索している途中に、廊下の奥の闇の中から偉い人がぬっと現われて、つまみ出されてしまうのではないか」とか「あまりに神聖すぎて、余所者が踏み荒らすと神様に目をつけられ、帰ってからたたられるのではないか」とかを、色々想像してしまい、結局織子に案内されるまま和室に通されて、そこで一日を過ごしたくらいである。その和室も、顎がひしゃげるほど広かった。
二度、お手洗いに席を立った。最初は、家が広すぎるあまり、織子の説明だけではいまいち場所が伝わってこず、仕方なく織子にその場所まで誘導してもらった。トイレの個室が、私の寝室くらい広い事にも驚いたが、用を足して、トイレのドアを開けた瞬間に参ってしまった。和室までの道がわからないのである。帰りが遅くて心配した織子が、右往左往する私を見つけてくれて事なきを得たが、問題は二度目のお手洗いだった。また迷子になっては仕方がないので、私が用を足すまで、織子がトイレのドアの前で待っていてくれたのである。遊びに来た友人が、いわんや金鳳花の花弁のようなうら若き乙女が小便をしているというのに、その扉の前に張り込まざるを得ないような実家とは、何事か。……これも、有阿谷家の大きさを象徴するエピソードであろう。
反面、織子自身は変人である。
大金持ちの一人娘とだけ言われてどんなイメージを持つだろうか。ある人は、高飛車でわがままな性格を想像するだろう。ある人は、礼儀作法に厳しく、品行方正な優等生を想像するかもしれない。だが、織子はそのいずれにも当てはまらない。
織子と友人になってから、初めての定期テストがあった。私の通っている高校では、定期テストの学年順位を大きな紙に印刷して廊下に貼りだすという、優等生にも落第生にも堪らない謎のイベントがあった。田舎で生徒数が少ないからこそできた芸当である。
点数が高い人物ほど、紙の上部に記載されているらしかったから、私は「あれだけ実家が豪華なら、さぞ頭がいいのだろう」と思って織子の名前を探してみた。しかし、いくら目を凝らせども見当たらない。首が疲れてきたところで、織子はそんなに点数が高くないことを悟り、一位から順番に目線を下に落としていったら、忘れもしない。織子のランキングは同学年中、ピタリ真ん中だったのだ。
お昼も、お手伝いさんが豪華な弁当を作ってきてくれているのだろうと勝手に妄想していたら、弁当すらない。いつも購買のパンを適当に二つほど選んで購入する。曰く、好きな食べ物は『カレーパン』。カレーライスじゃないのか、米農家の娘なのに。
私服も、カジュアルを地で行く女であり、その姿だけ見たら、とても実家が大金持ちの大お嬢様だとは思えないだろう。全身真っ黒コーディネートも、今日に始まった話ではなく、遊ぶ時は決まって黒一色なのである。織子の服装に、カラフルという言葉は全くの無縁であった。織子の庶民的なところが、お嬢様ながら憎めなくもあり、私が彼女とつるんでいる一因でもあるのだが、この異常なファッション・センスに関しては変人という烙印を押さざるを得ない。そして、ここまでたどり着いたうえで、もう一度立ち返ってみると、お嬢様なのに成績が良くないのも、米農家の娘なのにパンが好きなのも、庶民的なのではなく変人なだけだということに気が付いた。もはや、厳格すぎる家に生まれると、一周回ってこうなってしまうのかもしれない。
前に一度、織子は、同じように私の家の前の砂利道を通りかかった時、大きな石につまずいて盛大にこけたことがあった。ちゃぶ台返しの如くど派手にやったものだから、私は大地が揺れるほどの大笑いをしてしまった。その時にも織子は、高飛車のようにプライドを傷つけられて怒るでもなく、優等生の汚点を目撃されて取り繕うでもなく、お得意のキツネのような目をさらに細めて、「やっちまったよ」とへらへら笑っていたのである。そんなお嬢様がどこにいる。
──それ以来、この道は嫌いなようなのだけれど、ではなぜこの道を歩いてきたかというと、織子の家から例のうなぎ屋に行くとき、舗装された道路を通っていくよりは、圧倒的にこの砂利道を通る方が近いからである。
「言い訳はいいから、早く行きますよ」
私は、あえて敬語を使って、『あなたはお嬢様。私より格上の人間であり、本来遅刻をしてはいけない身分ですよ』ということをアピールしてみた。
「ごめんって」
その思惑を知ってか知らずか、織子は意に介さず言い放った。謝る気など毛頭ない、へらへらした顔面を横目に歩き始めた。織子は、私の後ろをてくてくついてくる。小さな二本の足跡が、家の前から伸びていった。