約束の鰻
「節操がない」という言葉がある。「節操」が、信念を固く守って変えないことという意味であるのは、かの広辞苑も言っている。節操がないというのはつまり、節義を貫こうとする意志が薄弱であるということだ。
日本人が、とりわけ年末にかけて、節操が無くなるというのはよく聞く話だ。十月三十一日、ケルト人の伝統にルーツをもち、古代ローマおよびキリスト教からの影響を受ける《ハロウィン》なる催し物が開催されて、立て続けに十二月二十五日、《クリスマス》が訪れる。キリスト教に傾倒し始めたのかと思えば、わずか一週間後には《お正月》である。これでは、節操がないと言われても仕方がない。
だが、私が思うに、この一連の流れは、もはや『あらゆるイベントごとを満遍なく楽しみたい』という日本人特有の《節操》なのではないだろうか。だとしたら、日本人には節操が有り余ることになる。
テレビも、そんな年末の様相を呈していた。つい先日まで赤と緑だった液晶が、今では赤と白と餅とみかんのコントラストと来ている。
私はソファに横たわりながら、見るともなくテレビを見ていた。ホームセンターで芸人が、よくわからない棒切れを指さしながら「わあ、すごいですねえ」なんて言っている。あれも、きっと何かしらのお掃除グッズなのだろう。
いざ寝ようと静かな空間にいると、かえって眠れない。逆に、テレビやラジオからわずかに声が聞こえていると、横になるだけで寝そうになる。周りがうるさかったなら、眠れなさそうなものなのだが、それが逆に、人がいるという安心感を付与しているのだろうか。子守歌と同じ原理だろうか? とにかく、寝そうになる。これが私の体質なのか、はたまた人間全体の本能なのかはわからないが、今、まさにその状況である。
控えめな白い光がレースのカーテンの隙間から降り注ぐ。その光は、部屋の奥まで照らす実力は無く、真っ昼間だというのにリビングはどこか薄暗い。そんな空気に中てられて、まぶたがゆっくり降りてくる。現実には流れていないオルゴールの音色が、脳内で奏で始められた頃、目が覚める出来事が起きた。電話である。
その無神経にして無機質なる音色に飛び起きた。プルル、プルルと鳴きだして、まったく私の心の平穏を乱すのは誰だ、と親機まで確認しに行くと、ディスプレイには《アリアダニ オリコ》の文字。友人の有阿谷 織子である。
「寝てたね」
と、女の割には低い声で言ったのは織子。受話器を取った瞬間、声の出し方をなぜか忘れてしまい、掠れた「はい、もしもし」を第一声に選んでしまったから、どうやら寝起きであることを見抜かれたらしい。睡眠を阻害されたこともあって、その織子のすべてを見透かしていますよと言わんばかりの態度に、少し腹を立てながらも「何の用」とぶっきらぼうに聞き返した。
「ゴハン」
意味の分からない三文字だった。それが、〈お昼ご飯〉であることに、三秒経ってから気づいた。なにしろ、頭が働いていないのである。
「お昼、食べに行こうってこと?」
「ん」
うん、である。
そして、私としては、その織子の提案には賛同しがたかった。起きたばかりで、空腹とは無縁の状態だったし、リビングの壁掛け時計に目をやると、針は十二時三十分ちょうどを指していたから、今から着替えて、化粧をして、食事処に着くころには、もうお昼ご飯と呼ぶにはいささか遅すぎる時間になっているだろうことは、容易に想像できたからである。遅めのお昼ご飯を頂いて、晩御飯が胃に入らなくなるのは、嫌というほど経験してきたし、その都度、母上に嫌というほど怒られた。それが外食ならなおさらだ。
私に拒否されそうな雰囲気を察知したのか、織子はすかさず、
「うなぎだよ」
耳がぴくりとしてしまったのが悔しい。畳みかけるように織子は、
「奢るよ」
……つくづく人間の心を弄ぶのが上手い女だ、と思ってしまった。さっきまでの気分はどこへやら、私の脳内にうなぎが泳ぎ始めた。
「でも、またどうしてよ」
「年末だから」
必要最低限の言葉しか話そうとしないのは、織子の悪い癖である。
「年末はうなぎなんて定番があったかしら」
「ないけど、めでたいし。豪華なもの食べたい」
「土曜の丑の日は夏よ」
「でもうなぎの旬は冬だよ」
知らなかった。後で調べたら、本当らしい。
「どうして奢る気分になったの。高いでしょう、うなぎは」
「近くに、おいしいうなぎのお店があるらしくてねえ、うちも知らなかったんだけどさ。県外からも、お客が来るんだって。行ってみたくなったけど、一人じゃ入りにくいから。誰か、連れて行きたかったのさ」
「でも、混んでいるんじゃないの?」
「だから、遅めのお昼だろう」
なんということだ。想定内だったらしい。
「なら、もっと早く電話しなさいよ。急すぎる」
「電話したけどさ」
と織子が言って、私はハッとした。その後に続く言葉がなんなのか、思い浮かぶくらいのあいだ、沈黙をためて、私が何も言わないのを認識してから、
「寝てたじゃないか」
「ごめん」
完敗した。最初の「寝てたね」は、第一声だけが原因じゃなかったようだ。
「あとさ」
織子が続ける。
「雪、降ってるよ」
え! と思った。半分、口に出したかもしれない。子機を耳に当てたままレースのカーテンに駆け寄り、一思いにシャッとやる。
田舎の一軒家であるから、土地だけは余っている。窓越しに見るその広い庭は、元の若草色の上に、真白色の雪が覆いかぶさっている。わずかな濃淡があるばかりで、一面、白銀であった。天空の遥か彼方からは、牡丹雪が舞い落ちてきている。壁を一枚隔てた向こうに、別世界が広がっていたことに、気がつかなかったのが恥ずかしい。
「どうりで」
部屋が薄暗いわけだ。
「ね、今日なら、お客も少ないと思わないかい」
いよいよ、断る理由がなくなってしまった。私は、窓越しの空を見上げ、受話器から聞こえてくる低い声を聞き流しながら、今はスーパーマーケットで働いているであろう母上に向かって、心の中で呟いた。
──おかあさん、今日も、晩御飯が入りそうにありません。
人間は、かくも同じ過ちを繰り返してしまう生き物である。