後編
「起きろ!」
頬に強い衝撃を受け、目を開けると1組の男女が私を睨んでいた。
「兄さん...義姉さんも」
8歳上の兄さんと奥さん。
私は気を失っていたの?
「馬鹿な事をしやがって...」
「......」
顔を歪ませて兄さんは俯いた。
高校時代に両親を亡くした私。
兄さんは必死で働いて私の生活を支えてくれた。
義姉さんも妹の様に接してくれたのに...
「行くぞ」
「...どこに?」
強引に私の腕を掴み上げ立たせる兄さん。
こんなに乱暴な扱いはされた事が無かった。
「お前の不倫相手の家だ!」
「嫌だ、彼に迷惑が掛かっちゃう!」
激しく身を捩る。
冗談じゃない、彼とまだ何も話が出来てないのに。
お互いの家庭には関係の無い話だ!
「いい加減にしなさい!」
「...義姉さん」
義姉は激しい口調で怒鳴り付けた。
そんなに私は悪い事をしたの?
彼との時間は素晴らしい物だったんだよ?
それで私の家庭も上手く回っていたのに、どうして分かってくれないの?
「あなた1年間何してたの?
部屋は散らかり放題だし、冷蔵庫は空っぽ、旦那さんや霞ちゃんの事考えた?」
「まさか?」
私はちゃんとしていた。
ちゃんと家事は完璧にしていた!
掃除、洗濯、毎日のご飯、
一年前までは...。
「終わりだよ史織、最後は罪を償え」
「そんな」
力が入らない。
頭が真っ白だ、一体私は何をしていたんだろう。
兄に引き摺られて、外に停まっていたタクシーに押し込まれた。
「ここは?」
「早く入れ」
10分後、到着したのは一軒の喫茶店。
近所で有名なお店、奥さんが作る美味しい料理と旦那さんが扱う雑貨品で人気の、彼が奥さんと経営する店...
「失礼します」
「どうぞ」
兄が中に入る。
休業中と札の掛かった店内は薄暗く、店にある一番奥、10人位が座れる大きなテーブル席には既に数人が待機していた。
「...あなた」
視線の先に座っていた主人が私を見る。
悲しそう、どうしてそんな目をしてるの?
「お前は前に座れ」
「は?」
主人の隣に座ろうとしたら兄が腕を引っ張る。
テーブル横には一人の女性が静かな目をして私を見つめていた。
「...奥さん」
彼の奥さん。
面識はあった、彼と知り合った最初の頃、この店に来た事があった。
娘と一緒に...
「着いたか」
「はい、お願いします」
店の奥から声がした。
奥さんが返事をすると二組の夫婦が一人の男性を挟み入って来た。
顔を腫らし、項垂れ、涙を流す男性。
直ぐに分かった。
「お前の席はコイツの隣だ」
「は?」
彼を見て立ち尽くす私に主人が言った。
黙って彼の隣に座った。
逆らえる雰囲気では無い。
「言いたい事が有るんでしょ?
聞いてあげますよ、私と子供の生活を、あなたのご主人と娘さんの人生を滅茶苦茶に壊す位の言い訳をね」
「...そんな美都子」
「貴様は黙れ!」
彼が奥さんに近づこうとした瞬間、一人の男性が彼を殴り付ける。
鼻血を吹き出しながら彼は私の方に倒れこんだ。
「止めて下さい」
主人は尚も殴ろうとした男性を止めた。
暴力は絶対に振るわない人だから、我慢出来なかったのだろう。
「私が帰ってから存分にお願いします」
「...すまない、家のバカが」
呻く男性、彼は涙を流しながら身体を起こした。
頼り甲斐のあるいつもの彼と全く違う。
酷く身体を震わし、私と目を合わそうともしない。
「史織、こちらがお前の不倫した伊藤友作さんのご両親だ」
主人の言葉に、彼を殴った男性と隣にいた女性が頷いた。
「そしてこちらが、お前に不倫された伊藤友作さんの奥さんのご両親だ」
奥さんの隣に座っていたもう一組の夫婦が私を見た。
「では話を続けましょう。
山口史織さん、どんな言い訳をされるんですか?」
「それは...」
奥さんの冷えきった声に言葉が出ない。
「貴女は言いましたよね、誤解だって。
何が誤解なんですか?
一晩中ホテルに居た事?
一年間PTAの会合だと私と貴女のご主人を騙していた事?」
「ち、違います。私はお互いの家庭を壊すまで...」
「ふざけるな!!
お前達は何をしたかまだ分からんのか?
してはならん事をしたと、まだ分からんのか!!」
奥さんのお父さんが叫び、私の言葉は遮られた。
「すみません私達が!」
「止めて下さい、貴方達が謝る事ではありません」
彼の両親が主人と彼の奥さんに頭を下げた。
「史織、お前は謝る事も出来ないのか?
ご両親の姿を見ても、まだ...」
主人の隣に座っていた兄さんが呻いた。
「ごめんな...」
「止めろ!」
主人の大声、久し振りに、いや初めてかもしれない。
「止めろ、お前の謝罪は要らない。
悪いと思ってない奴の謝罪なんか胸糞が悪くなるだけだ」
主人の言葉が胸に突き刺さる。
そんな事無い、私はちゃんと謝りたいのに!
「なんにしても俺達夫婦は終わりだ」
「終わりって?」
「離婚に決まってるだろ」
「嫌よ!」
どうして?これだけの事で!?
「私達もね」
「そんな、美都子!!」
彼も叫んだ。
「私達は実家に引っ越します」
「私達もです、ここにはもう住めません」
「何故だ!」
「どうして引っ越しまで!」
「馬鹿が!」
「史織さん、なんで分からないの?」
彼は父親から再び殴られ、私も義姉からビンタを受ける。
「貴方達の不倫を教えてくれたのはPTAの役員からよ」
「会合の度にベッタリ引っ付いて。
噂だったそうだ」
「そんな...」
主人と彼の奥さんの言葉。
噂になる程なら何故止めてくれなかったの?
そうすれば、私だって。
「学校内でも子供達にまで広がっているんだ。
当然近所にもな、もう此処には住めない」
「...知らなかった」
娘に、霞に私はどうやって謝ればいいの?
「私もです、もうここで店は続けられません。
近所の笑い者になってまで店をしたくありませんから」
奥さんは寂しそうに呟いた。
その目には涙が。
「俺はこの先、店をどうやって...」
「相手が居るでしょ?
一年も私を裏切ってまで繋がってた運命の相手がね」
奥さんが私を睨み付ける。
激しい憎悪が籠った視線に目を逸らした。
「もう行きます」
「行くって?」
立ち上がる主人、一体どこに?
「ホテルだ、霞が待っている」
「私も...」
「まだ分からないのか!」
兄さんが私を叩いた。
「何でよ!霞に...」
ちゃんと謝りたい、きっと分かってくれる筈!
あの子は優しい娘なのに!
「もう止めろ、これ以上霞を傷つけないでくれ」
「そんな」
「義兄さん後はお願いします。
史織、これからは弁護士を通じてだ。
もう家には帰らないからな」
「分かった妹が...本当にすまない」
主人は頭を下げ出ていく。
激しい後悔、こんな筈じゃ...
振り返りもせず、消え行く主人の背中に私は全てが終わった事を知った。
その後、離婚は成立した。
共有財産は分割。
私のお金は奥さんへの慰謝料と主人への慰謝料に殆ど消えた。
娘の親権は主人になった。
15歳の娘が言ったのだ。
『あの人と暮らすなら死んだ方がマシだ』と。
強固な言葉に弁護士から親権は諦める様に言われた。
養育費は請求されなかった。
それ以来娘とも会っていない。
奥さんから彼の店を手伝う様に言われた。
拒否したら慰謝料を上乗せすると言われ私は彼と2人店を始めた。
飲食業の経験は無い、結婚以来働いた事もだ。
当然上手く行く筈もなく、店は1年で潰れた。
加えて周りからの白い目、彼とは喧嘩ばかりで店が潰れると同時に別れた。
一年間で蓄えも底を突いた。
結局不倫はお互いの人生を壊しあっただけだった。
主人と住んでいた家は処分した。
明け渡しには私が立ち会った。
想い出の詰まった家、あんな事さえしなければここで幸せが続いていたのに。
今は最後の情けで子供が成人し、空き部屋となっていた兄さんの自宅に住まわせて貰っている。
新しく仕事も紹介された。
主人と娘の居場所は分からない。
いつか主人と娘に会えたらなら、今度こそ、ちゃんと謝りたい。
謝罪の気持ちを分かってくれたらと信じて...
そんな日は来ない。