前編
「今日もお疲れ様」
「ああ、今度は来週な」
「はい会長」
別れ際のキス。
身も蕩けるような快感、こんな気持ちになるのはどうしてだろう...
走り去る車を見つめながらタメ息。
自宅に戻ったらこの夢が終わった事を実感してしまう。
子供と旦那が待っている我が家に...
「...ただいま」
自宅の扉を開ける。
薄暗い玄関、まるで私の気持ちの様。
幸せだった一時が終わり、憂鬱な現実に引き戻される。
「おかえり」
主人は眠そうにリビングでテレビを見ていた。
「まだ起きてたの?」
「ああ、今までPTAの会合だったのか?」
「ええ、霞も受験だからね、色々あるのよ」
「そうか」
言葉少なく話す主人、興味がないなら聞かなければいいのに。
「霞は?」
「さっきまで居たが、自分の部屋に戻ったよ」
「ふーん」
せっかく教えて貰った受験の話をしようと思ったのに。
まあアリバイの為に彼から聞いただけだけど。
「ご飯は?」
「みんなと済ませてきた。お風呂は?」
「沸いてるよ」
「それじゃ入ってきます。
貴方、先に寝てて」
「分かった」
長い会話はしたく無い、身体に染み付いた彼の匂いが主人に気づかれては大変だ。
彼に迷惑は掛けられない。
「ふう」
湯船に浸かり暖まる。
先程までの火照りが振り返す。
なんて素晴らしいの。
私が娘の通う中学校のPTA会長を務める彼と関係を持ち始め1年になる。
最初はただの役員と会長の関係だった。
しかし彼と学校行事や、子供の進学の相談をする内に...
気付けは彼と過ごす時間が私の全てになっていた。
PTAの仕事は結構沢山あり、仕事を抱えた他の役員達は余り熱心では無かった。
しかし専業主婦の私にはうってつけだった。
彼も自営業、お互いに自由な時間があったのだ。
「卒業したら終わっちゃうのか...」
彼との時間が残り僅かになってきた。
この関係は娘がこの学校に通っている間だけ。
それは彼と決めた約束。
寂しさが心を締め付けた。
「おはよう」
翌朝リビングに行くと主人は新聞を読んでいた。
昨日の疲れで少し寝過ごしてしまった。
「おはよう」
新聞から目を離す事無く主人は返事を返す。
私に興味が無いのは調度良い。
しかし来年からは彼が居ない。
また無味乾燥とした時間が始まってしまう、その事が気分を重くさせた。
「霞は?」
「もう学校に行ったよ」
「お弁当も持たないで?」
「今何時だと思ってるんだ?」
「7時30分でしょ?今から直ぐ作れば間に合うのに」
「お前な...」
主人は新聞を置いて私を見る。
なんて冷たい目をしてるんだろう。
「霞にはお金を渡した、コンビニで何か買う様に言ったから」
「そう」
ならそれでいいか。
「行ってくる」
「朝ご飯は?」
「もう食べたよ」
呆れた様な態度で主人は立ち上がる。
テーブルには空の皿が2枚、食パンでも食べたのかな?
主人が出ていき、一人リビングで遅めの朝食を取る。
静かな部屋、煩わしい家族が居なくて助かる。
こうして私の日常が再び始まった。
「久し振り」
「ああ」
一週間後、私は彼と約束のホテルに居た。
今日も家族にはPTAの役員会が有ると行って来た。
主人は今日から出張、時間を気にせずゆっくり過ごせる。
彼も仕事の打ち合わせで泊まりになると言ってきたそうだ。
こうして熱い一夜を過ごした私達。
翌朝ホテルの駐車場に停めた車へと向かう。
「...史織」
「え?」
私を呼ぶ声に慌てて振り返ると。
「ど、どうして...」
静かな目をした主人。
出張じゃ無かったの?
「え、何故?」
「まさか!」
彼は狼狽えながら車のドアを開ける。
凄まじい勢いで発進する車、私は一人取り残されてしまった。
「...馬鹿が」
そう呟くと主人は駐車場を後にした。
呆然と一人佇む、混乱したままタクシーを捕まえ自宅に戻る。
途中、何度も主人の携帯に連絡を入れるが無機質な留守番電話の音声が流れるだけだった。
「...ただいま」
自宅は誰も居る様子が無い。
カーテンが閉まり、薄暗いリビング。
電気を点け、椅子に座る。
何とかしなければ、こんな結末は嫌だ。
言い訳を必死で考えた。
「ん?」
テーブルに一通の封筒が。
「...嘘」
それは娘からの手紙だった。
[不倫した貴女を軽蔑します。
お父さんや、私の事を考えなかったのですか?]
霞は不倫を知っていたの?
一体どうして?
慌てて彼の携帯に連絡をする。
なんとか口裏を合わせなくては!
「もしもし!」
繋がった携帯を握り締め、私は大声で叫んだ。
『伊藤友作の妻です』
「は?」
彼の妻を名乗る女性の声。まさか?
『主人は捕まえました。覚悟してなさい』
「ち、ちょっと待って下さい、誤解です!」
『...つくづく愚かですね、同じ事を言うなんて』
そう言い残して通話は切れる。
全身から血の気が失せ...
私はその場から崩れ落ちた。