7、食事を下さい
実の父とのあこぎな取引きを終えた私は、とりあえずの危機を脱したせいか突然の空腹を感じた。それは今まで経験したこともない死を間近に感じるほどの空腹だった。
よく考えたら、この子はその空腹と寒さで天に召されたのだ。
大急ぎで空腹をなんとかしないと、私まで天に召されてしまう。
「あの……お父様……。ところで今晩の食事は……」
私はお酒をビン飲みする酔っ払い親父におずおずと尋ねた。
「はあっ? 1ルッコラの稼ぎもないお前が食事だと? ふざけるなっ!」
やっぱりすんなり与えられるわけがなかった。
「で、でもネロだってお腹がすいてるだろうし」
「そいつも今日は売上げ無しだ。食いもんが欲しいならちゃんと売ってこい」
「売るって……ネロもマッチを売ってるの?」
私は隅で震えるネロに尋ねた。
「ううん。僕はこのブリキのバケツを売るんだ。でも年の瀬だから、みんな忙しそうで話も聞いてもらえなくて……」
ネロの足元にはブリキのバケツが三つ重なって置いてあった。
うう。ネロ。なんて涙を誘う子供なの?
いや、泣いてる場合じゃなかった。
年の瀬って!
そういえばマッチ売りの少女ってそんな話だっけ。
なに? 年の瀬にこの地獄なの?
大晦日っていえばご馳走を並べて紅白を見て、年越しそばを食べるものじゃない。
神社の初詣に行って屋台で甘酒を飲んで、たこ焼きを食べるもんじゃない。
ううう。年越しそば。甘酒。たこ焼き。
考えただけでよだれが出る。
誰か食べ物プリーズ!!
誰かこの不憫な姉弟を救ってくれる人はいないの?
「そうだわ! 母親は? 母親はいないの?」
マッチ売りの少女の母親はどうしてたんだっけ?
覚えてない。私の昔読んだ絵本には登場してなかったように思う。
「お母ちゃんは夜のお仕事に行ってるよ」
よ、夜のお仕事? 水商売?
そんな原作だっけ? 子供の本では触れられないタブーな設定?
「じ、じゃあ、朝まで帰ってこないの?」
まずい。朝まで何も食べなかったら、きっとこの体は死んでしまう。
「お姉ちゃん、ちょっとこっちに来て」
ネロは飲んだくれる父親に見つからないように、私を部屋の隅に呼び寄せた。
そして服の中からそっとパンを二個取り出した。
「これね、ブリキ職人のスランがくれたんだ。カビがはえてるけどいるなら持っていけって」
「カ、カビ……」
確かに丸くて硬そうなパンにはびっしりと青カビがはえていた。
青カビって、青カビって……食べても死ななかったよね。
「これで削ると綺麗に取れるよ。ほら」
ネロは木の枝でパンのカビをこそげ取ってから齧りついた。
「お姉ちゃんもやってみて」
私は言われるままにパンを受け取り、カビを削った。
それはラスクよりも硬い乾燥しきったパンだ。
全然食べたくない。
でも食べなければ死んでしまう。
私は涙を浮かべながら「はむ」と齧りついた。
か、かたっ。
歯が折れそうだ。
しかもカビくさい。
「思ったより美味しいでしょ? お姉ちゃん」
ううう。これ以上涙を誘うようなことを言わないで、ネロ。
この気の毒な子供たちの姿にも気付かず、ダメ親父は酒をあおっている。
あんたのその酒を買わなければ、パンの一つや二つ買えたでしょうに。
なにやってんのよ。なにやってんのよ。このダメ親父。
「ねえ、どうしてあんな父親の言いなりになってるの? こんな家、飛び出してどこか助けてくれる大人がいる所に行きましょうよ」
「助けてくれる大人がいるところって?」
「それはだから……孤児院とか教会とか……」
「孤児院は親のいない子が行くところだよ。親がいるのに行ったらとても怒られるってお父ちゃんが言ってたよ。それにこの街の教会の牧師さんは貧民の子供に冷たいんだ。日曜礼拝では最後にお菓子を配ってくれるんだけど、貧民の子にはくれないんだよ。寄付しないからだってお母ちゃんが言ってた」
な、なんて非人情な世界観。
誰よ、こんな世界を創り出したのは。
「それに親を大事にしない子供は魔界に連れていかれるんだって。だから子供は親に逆らっちゃダメなんだよ」
誰がそんな都合のいい嘘っぱちを教えてるの。
大事にすべき親と、大事にする必要のない親がいる。
逆らっちゃダメって、それじゃあまるで子供は親の奴隷じゃない。
「ネロ、学校の先生はなんて言ってるの?」
「学校? 学校なんて貧民の子供は行けないよ」
八方塞がりだ。
親の言うことだけを信じるしか生きるすべがないじゃない。
こんなひどい世の中。
どうやって幸せを掴めばいいの?
一瞬絶望に負けそうになった。
ううん。負けないわ。
私にはこの美貌とジュラルミンケースがあるのだもの。
そして二十歳まで生きた知識も。
このカビたパンすらも完食して、絶対生き延びる。
そして幸せをこの手に掴むわ。
次話タイトルは「まずは美白」です