15、夫婦喧嘩
ヨハンがアンナの髪を引っ張って振り回している。
「このあばずれの尻軽女がっ!!」
「きゃああっ! やめてっ! 離してっ!!」
壮絶な夫婦喧嘩の現場だ。
前世の二十年間ではこんなの見た事がない。
テーブルがひっくり返り、酒ビンが床に転がってこぼれている。
アンナの服は引っ張られたのか破れてはだけている。
顔には殴られたような痕がいくつもできていた。
前世の両親は仲のいい夫婦だった。
たまに喧嘩もしていたが、軽い言い合いをして、翌日には二人共けろっとしていた。
こんな……こんな……トラウマになって一生許せなくなるような喧嘩はしなかった。
どんなに腹が立っても、やっていいことと悪いことがある。
時には気持ちをぶつけ合うことも必要かもしれないけど、仲直りできることを前提にした喧嘩であるべきだ。仲直りする余地を残さない喧嘩なんて、獣同士の殺し合いと大差ない。
ましてそんな喧嘩を子供に見せるな!
「お姉ちゃん。お母ちゃんが死んじゃうよう。うう……どうしよう……」
ネロが震えながら私のスカートをつかんでいる。
私は恐怖よりも怒りでいっぱいになっていた。
「大丈夫。大丈夫よ、ネロ。あなたはここで待ってて」
私はネロの頭を撫ぜて、外で待つように言った。
その様子を遠巻きに見ている近所の住人が目に入った。
誰も近付いてくる大人はいない。
私が見つめると、あわてて目をそらして家の中に入っていく。
巻き込まれたくないのだ。
当然だ。
貧民の子供を助けたところで、なんの得もない。
幼くても、弱い子供であっても、絶対かなわない相手であっても、自分で戦うしかない。
待っていても、誰もなにもしてくれないのだから。
二十歳の私はこの世界の冷たさを充分に学習した。
出来るか出来ないかじゃない。
やるのだ。
「やめてっ!! ヨハンっ!!」
私はドアをバンッと開いて叫んだ。
ヨハンは突然の大声に驚いたのか、びくりとして動きを止めた。
「なんだレイラか。驚かせやがって」
「いいから掴んでいる髪を離してあげて。アンナが死んでしまうわ」
「けっ! こんなあばずれ、死んでも構わねえ」
「何言ってるのよ! 人殺しになるつもり?」
「ふん! 悪いのはこの女の方だ。レイラ、教えておいてやろう。この女は最近やたらに粧しこんでると思ったら店の客と浮気してやがったんだ」
「な……」
ちらりとアンナを見ると、うつむいたまま反論する気はなさそうだ。
え? 事実なの? 愛着のある親じゃなくてもちょっとショックだけど……。
もしかして私が魔法のメイクをしたから?
私は余計なことをしてしまったの?
いや、それより。
なんてことを子供に言うのよ。
私だからいいけど、本来は十三の無垢な子供なのよ?
「この国では浮気した妻を夫が殺したとしても罪にはならねえんだ。俺がこいつを殺したとしても牢屋に入ることはねえ。分かったら黙って見ていろ!」
な、なんなの? その法律。信じられない。
ヨハンは再び髪を引っ掴み、アンナに殴りかかろうとした。
「やめてっ!!」
私はアンナに駆け寄り、ヨハンの前に両手を広げて立ちふさがった。
「どけ! レイラ! 殴られたいか!」
「私を殴るの? 私を殺したらどうなるの? 私を殺しても罪には問われないの?」
「へっ! 自分の子供をどうしようと俺の勝手だ。わざわざ捕まえにくる暇な自警団はいねえよ」
あながち嘘でもなさそうだ。
それがこの世界のルールだというなら……。
「じゃあ殺せばいいわ。その代わり毎日200ルッコラを渡す子供はいなくなるわね。これからは自分で汗水垂らして働くか、飢えて死んでいくしかないわね」
「……っ!」
ヨハンは酒で澱んだ目をほんの少し開いた。
このクズな男も、それがいかに損なことかぐらいは分かったようだ。
「けっ! 偉そうに言いやがって。言うだけの儲けはあげたんだろうな。今日の分の売上げを出してみろ!」
私はポケットに準備しておいた200ルッコラを差し出した。
ヨハンは奪うようにお金を引っ掴むと、浅ましい目つきで紙幣を確認した。
そしてアンナに嫌な笑顔を向けた。
「おい、アンナ。お前も許して欲しかったら金を持ってこい。その浮気男に慰謝料を払えって言うんだ。分かったな」
捨てゼリフのように言うと、そのまま200ルッコラを手に家から出て行った。
呆れて涙も出ないようなクズ親だった。
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※現在のレイラの所持金
前日残金 2740
ヨハンに渡したお金 - 200
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2540ルッコラ
次話タイトルは「弱い母親」です




