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それから数日後に、私たちは御国入りした。私たちにあてがわれた居室は、二の丸にある御殿の奥のほうにあった。
「あのような高い場所に住むことにならなくてようございました」
庭の向こう。夕日に映える天守を見上げながら、恐々と乳母が言う。
「本当に」
私も乳母と同じ方向に顔を上げて微笑んだ。都にある数階建ての高い建物といえば、寺にある塔がほとんどだ。武家に嫁に行ったら、天守に住まわされて地面を彼方に見下ろしながら生活しなければならないのかと、内心恐々としていたのだ。
しかしながら、この部屋に案内してくれた女の説明によれば、殿も私の夫になる若殿も、天守で寝起きしているわけではないそうだ。殿の住まいは本丸の御殿で側室や子供たちと共に、若殿は、私と同じ二の丸の御殿の、ここよりも表に近い場所を中心にして生活しているのだという。
「それと、この二の丸のお屋敷には、もうおひとかた、女性がおられるようでして……」
乳母が言いづらそうな顔で打ち明けた。
「とはいえ、あちらにも、まだ子はおりませぬゆえ」
慰めのようなことを口にする乳母に、「よいではないですか」と、私は鷹揚に微笑んだ。夫になる者に側室がいることも、そういった女性がこれからも増えるだろうことも、覚悟のうえだ。このようなことに、いちいち気を病んでいては、我が心がもたない。
他に誰がいようと、北の方が生んだ男子が嫡子。私は、母の言葉を思い出していた。
「要は、『私が男子を産めばよいだけのこと』なのでしょう?」
微笑みながら庭先に目をやると、手が届くほど近くに、人の丈の倍ほどある譲葉の樹があった。枝先に若葉が揃ったあと後を譲るように古い葉が落ちる譲葉は、親が子につつがなく身代を引き渡していく様になぞられ、大変縁起のよい樹だとされている。
私は、こちらを向いている譲葉の若い葉に指先で触れると、「どうか力を貸しておくれ」と語りかけた。
私が無事に嫡子に恵まれ、私が育てたその子が家督を継ぎ、立派な領主となってくれるように。そして、その子が家を繁栄させてくれることを疑うこともなく、また戦に巻き込まれて命を落とすこともなく、私がこの国で穏やかに天寿を全うできるように。
「どうかそうなりますように」
私は、自分の未来を託すように、その樹に願いを込めた。
せっかくだから、私のことは『ゆずりは』とでも呼んでいただこうかと思ったものの、翌日対面した舅殿は、そのような戯言をいうのもはばかられるような恐ろしげな偉丈夫だった。夫となるものも同じ。こちらは、父親に比べれは幾分物柔らかな感じがしたが、その分だけ神経質そうに見えた。
結局、私は、あちらに呼ばれるまま、私の実家の通り名に『方』をつけて呼ばれることになった。
婚儀は、それから十日ほど後に行われた。
その晩、私は、宴に興ずる家臣たちの声を遠くに聞きながら、夫となった若殿と床を共にした。なにもかも初めての私とは反対に、側室のいる夫は、こういうことに慣れているようだった。
口を吸われて呆然としている間に、私の夜着が彼の手によって肌蹴られる。恥ずかしさに身を竦ませる暇もなく横たえられた私の上に圧し掛かるようにして、夫が覆いかぶさってくる。
(こういうものなのだから……)
恥ずかしさと心地よさと痛みが入り混じった奇妙な感覚から逃げまいと歯を食いしばりながら、私は、諦めにも似た失望を味わっていた。
夫が、妻となった者の名前すらたずねようとしなくても、ほとんど言葉を交わさないまま床を共にしようと、女の扱いに慣れきっていようと、それは、そういうものなのであって、私が文句を言うべきことではない。
『このご時世、たった一人の女を愛する武将のほうが珍しいのだから』
『家を存続させるために、彼には沢山の子供が必要なのだから』
『他に何人の女性を愛していようとかまわない。わたしのことも大切にしてくだされば、それでいいのだから』
夫の愛撫を受けながら、いくつもの慰めの言葉が私の脳裏をよぎる。
目を開けても、見えるのは夜の闇だけ。
だけど、幼い頃から私を見守ってくれていた《影》は、ここには居ない。
私が、これだけ心細い思いをしているのに、彼が近くにいる気配を感じない。
わかっている。彼は、ここにはいない。
《影》との連絡は、あちらが必要な時にはあちらから、こちらから必要な時には乳母か千草を介して呼び出すことにしようと、あらかじめ決めてある。これからは昼間に彰昌として様子を見に来ると言ってくれてはいたが、今は夜。彼は、城の外堀に近い場所にある綾瀬の屋敷にいるはずである。
それとも、彼もまた、本丸御殿の大広間で、私の婚姻を祝う酒宴に加わっているのだろうか?
「い……や……」
途切れ途切れに声を上げても、誰も助けてくれない。
弥一郎も彰昌も来ない。私の声が聞こえたとしても、彼は、きっと来てくれない。
なぜなら、これは望まれた婚姻だから。
若殿と私の結びつきを守るのも、彼の使命だから。
拒否するのは、私の我がまま。
夫を受け入れるのは、私の義務だ。
それでも、私は闇に向かって虚しく手を伸ばさずにはいられなかった。
彼が助けに来てくれないことを知っていながら、彼がここにいないことに、私の今の姿を見ていないことに安堵しながらも、私は助けを求めて手を伸ばさずにはいられなかった。
夜の闇に向かって見開かれた私の目から零れた涙を、夫が甘いものであるかのように音を立てて啜り、伸ばした手に指を強く絡める。
「怖がらなくてもいいよ。可愛い人」
拒否の言葉を恥じらいの言葉として受けとめた夫が、私の耳元でささやく。
違う。けれど、違わない。
ここから逃げ出してしまいたい。でも、逃げるわけにはいかない。
(助けて。でも、見ないで)
気持ちの定まらぬまま、夜が更けていく。