5
その日の夜、私は、父の部屋に呼ばれた。
よい機会だと思って、弥一郎の正体を父に問い詰めると、彼は拍子抜けするほどあっさりと、「なんだ、知っていたのか。そうだよ、松風は弥一郎だよ」と、白状した。
父によれば、弥一郎が松風に化けていたのは身近で私を守るためでもあったし、月のものを口実に松風としての勤めを休むたびに《影》としての鍛錬を積むためでもあったという。幼い私に黙っていたのは、私が誰かにうっかりと影の正体を口走ると困ると思ったから。母も乳母も、弥一郎が《影》だと始めから知っていたそうで、乳母子の千草には、松風から弥一郎に名を変えて屋敷に仕えることになった時に話したという。
つまり、私の最も身近にいる女性の三人が、三人揃って長い間私に隠し事をしていたのである。
悔しいので、私は父に嫌味まじりの質問をした。
「でも、私が気が付いたぐらいです。他の者とて、弥一郎の正体に気が付いているのではありませんか?」
「それはない」
父が自信たっぷりに微笑む。
「姫が弥一郎の正体を暴く事ができたのは、この家に《影》が潜んでいることを予め知っていたからだよ」
松風がこの家にいたのは、三年ほど。その間の松風は、警備の男たちや下働きの者にできるだけ顔をさらさないようにしてきた。また、松風と同様に弥一郎も乳母の縁者として屋敷に入っている。仮に、ふたりが似ていると気がついた者がいたとしても、血の繋がりがあるから似ているだけと思うだけで、男が女に化けていたとまでは考えるはずがないと父は言う。
「それに」
父は、扇で口元を隠すとクツクツと笑い出した。
「今の無骨な弥一郎と、あのなよやかな松風が同じ者だと思う者は、もはやおるまい」
それについては、私にも否定のしようがない。
「ともかく。弥一郎の正体がなんであろうと、これからも、人目のあるなしにかかわらず《影》のことを口にしてはいけないよ。弥一郎と親しく口をきくこともならぬ。そうそう。姫をここに呼んだのは、他でもない。そなたの輿入れ先が、やっと決まったのだよ」
「……は?」
私は、開いたままになった口を扇で隠すことも忘れて、真正面から父を見つめた。
「私の輿入れは、子供の頃から決まっていたのですよね?」
「東国の武家に嫁にやることは決めていた。しかしながら、乱世を生き延びる器量や運がない者に私の大事な姫をやるわけにはいかぬゆえ、吟味に吟味を重ねておった」
そう言いながら楽しげに微笑む父は、老獪な政治家の顔をしていた。武家の勢力に押されるばかり移りゆく時代の波に翻弄されるばかりに見える貴族であるが、その実は存外にしたたかである。なるべく敵を作らず、そして、なるべく犠牲を払わずに世を生き延びる術ならば、貴族のほうが武家よりも遥かに洗練された技と勘とを身につけている。
そして、貴族の姫である私も、おそらく、その術を生まれながらに身に備えている。「わかっていると思うが、幼き頃より《影》をつけたのは、そなたを守るためばかりではない」と、父から言われても、私は驚かなかった。
世の中のことがわかってくるにつれ、私にも、だんだんと父の意図を理解できるようになっていた。
父は、私が可愛いからという理由だけで私に忍び紛いの者をつけたのでも、ただの気まぐれから、幼いうちに私と《影》とを引き合わせ、《影》との付き合い方を実地で私に覚えさせたのでもなかった。
「『弥一郎を我が家との繋ぎとせよ』ということですね?」
「そうだ」
父が重々しくうなずく。
百年近く戦を重ね、国中を混乱させてきた武家ではあるが、現在、幾つかの大大名に勢力がまとまりつつあるという。近いうちに――といっても、あと数十年先という意味だが――そのうちの誰かが全ての侍の頂点に立つであろうと、父たちは予測している。
ゆえに、これから、侍の一番を決めるための戦が始まる。
大きな土地と沢山の家臣を有する大大名同士がぶつかり合えば、地方の小競り合い程度の戦ではすまない。天下を分けるような大戦が全国各地で頻発するであろうというのが、父の考えである。
ちなみに、私の夫となる者の父親も、天下取りを狙う者のひとりであるという。私は、その家に嫁入りする。そして、その家に尽くす傍ら、この家の為に、ひいては帝の御為にも働くことになる。
《影》を通じて、婚家が今後どの勢力に組みするか、あるいは組み入れようとしているのかをいち早く都に伝えるのが私の役目であり、《影》から伝えられた実家の意向を、それとなく夫の考えに反映させることも私の役目である。
そして、我が身をもって婚家に帝の血筋を伝え残すことも、私の使命。母となった私は、帝がいかに尊いお方であるか、また、わずかながらでも帝の血を引くことがどれほど誇らしいことかを、生まれてきた子に繰り返し話して聞かせることになるだろう。
この国は、帝あってこそ。帝なしには、この国は国として成り立たぬ。
そのような想いを心に刻み込んだわが子が家督を継いだ時、その子は、決して帝をないがしろにはしないだろう。
もちろん、我が夫となる者が戦に破れて、婚家が滅びる可能性も大いにある。
だが、それでもいいのだ。私が滅ぶということは、私を滅ぼした家に嫁いだどこかの貴族の姫が生き残るということに他ならない。帝の血は、その姫の子によって後の世に伝えられればよい。最後まで生き残った貴族の姫の息子や娘が、天下を取るなり政治の中枢で揺ぎない力を持つ者の伴侶となることができれば、それでよいのだ。
そうやって、帝の血は、広く深く武家社会の中に浸透していく。
帝は敬い奉るもの。
それを当たり前だと思うものたちを権力の頂点近くに集めれば、帝や朝廷をないがしろにする者はいなくなる。
これが、父を始めとする帝に近い貴族たちが、うんざりするほど気長に武家に対して仕掛けてきた計略である。これから新しく生まれてくるであろう武家の政治の中枢に帝に親近感を覚える者を少しでも多く送り込むことこそが、彼らの真の目的なのだ。
落ちぶれたと見せかけ、どこの馬の骨とわからぬような力だけでのし上がってきた者に嘲笑われる屈辱を味わいながら、父たちは、見込みのありそうな者に近づいては、冠位や名誉を餌にして彼らの妻や側室にするために自分たちの娘を売り込んでいった。多くの姫が戦乱の中で夫に殉じて死んでいくことも、それが自分の娘であるかもしれないことも、父たちは覚悟している。粗末な武力しかもたない自分たちにできることなど僅かなことでしかないから、その僅かな力を総動員して、父たち公家は、帝と朝廷を守り抜こうとしている。
「すまぬな」と、政治家から父親の顔に戻った父が詫びる。
「いいえ」
私は貴族の姫として端然と微笑み返す。
「己の運命を嘆く気はございません。これは貴族の姫として生まれた者の定めであり、私に定められた戦なのです。
そして、弥一郎は……私の《影》は、この戦を戦い抜くために父から与えられた私の大切な相方となる。彼は、婚家で独り戦うことになる私を助けてくれるだろう。
私たちは、ふたりいてこそ、帝のために存分な働きができるのである。