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《影》と引き合わされた翌日の私は、とても落ち着かない気持ちで過ごした
『ずっと守ってくれる』と、父は言っていた。
ということは、影は、今も私の近くにいるのだろうか?
だが、夜とは違って、昼間の明るさの中に影の潜む場所はない。ならば、彼が自分を守ってくれるのは、夜だけなのだろうか。それとも、側仕えの誰かに化けているのだろうか。もしかして、床下や天井裏に隠れているのだろうか。
「どうかなさいましたか?」
手習いの手を止めて熱心に天井を見上げる私に、松風と呼ばれている者が声を掛けた。
松風は、私の乳母子の千草の従姉であるという。彼女は、行儀見習いを兼ねて二月ほど前から我が家に仕えてくれているのだが、八つばかりの歳の差が私の遊び相手兼子守りとして打ってつけだと思われたらしく、私と千草の相手ばかりさせられていた。
「ううん」
私は首を振りながら顔を戻すと、まじまじと松風を見つめた。
「姫さま?」
松風が小首をかしげる。頭の動きに合わせてたわむ艶やかな黒髪が、妙に艶かしい。
「松風ではないわよね?」
「なにが、わたくしなのでございましょう?」
松風の顔が、更に横に傾いた。
「姫、こちらへおいでなさい」
部屋を訪れていた母が、召使に面食らった顔をさせている私を見かねて、人払いをさせた。
「なりませぬ。《影》は、いないものとして扱いなさいませ」
ふたりきりになったところで、母が声を潜めて私をたしなめた。
姿を持たず、名も声も持たない。夜の闇に紛れ、暗がりにのみ潜むもの。それが《影》である。昼間は別の人物として存在しているかもしれない。でも、それを《影》と思ってはいけない。自分の《影》だと気安く思って、その者と馴れ合うこともしてはならない。必ず別人として扱うこと。それが《影》のためである。そう、母は私を諭した。
「どうして、仲良くしてはいけないの?」
「私たちが甘えてしまうからです。馴れ合いと甘えは、疑いと危険を招きます。私たちではなく、影に。あなたは、自分を守ってくれている者を命の危険にさらしたいのですか?」
母に問われて、私は千切れるほど首を横に振った。
「ならば、本当に必要な時以外は、始めからいないものだと思って振る舞いなさい。それが互いの為ですよ」
私がうなずくと、母は私の頭を撫でながら、「大丈夫。姿は見えなくても、姫は、いつでも守られています。心安くお過ごしなさい」と微笑んだ。
母と固く約束したものの、私には、どうしても心残りがあった。
その晩、皆が寝静まった後に寝床を抜け出した私は、月の光が入らない塗り籠めの中でも更に暗い場所を求めて、手探りで部屋の隅へと這っていった。
「いるの?」
ささやくように闇に向かって問うてみる。
返事はない。だが、三つ数えるほどの間があった後、自分の背後に昨夜の気配を感じた。あの少年だ。全く見えないのに、私は、なぜか、そう確信した。私は振り返ると、「昨日、言えなかったから」と、私は言い訳するように呟いた。
「あのね。守ってくれて、ありがとう。これから、よろしく頼みます」
自分の手の甲さえ見えない闇の中で、私は両手をついて頭を下げた。
こんなことをする必要はないのかもしれない。だが、私としては、命をかけて守ってくれるという者に、お礼の気持ちだけでも自分の口から伝えておきたかったのだ。
私が頭を下げても、《影》からの返事はなかった。もしかしたら、自分は、彼にとって酷く迷惑なことをしているか、または、彼をひどく怒らせてしまったのかもしれない。不安になった私は、闇に向かって、「すまぬ。これから先は、呼ばないようにします。おやすみなさい」と告げると、そそくさと寝床に潜って目をきつく閉じた。
翌朝。
私が目を覚ますと、部屋の隅に可憐な黄色い野の花が一輪置かれていた。
これはきっと、《影》が置いたものに違いない。昨日の《影》は何も言わなかったけれども、きれいな花を置いていってくれたくらいだから、私に怒っているわけではないのだろうと、私は勝手に解釈した。
そして、声無き《影》が、「私は、いつも、傍にいるよ」と言ってくれているかのように感じた。