1
幼い頃の私の記憶は、彼との出会いから始まっている。
数えで五つか六つであった当時の私は、父に抱き上げられて庭にいた。
涼やかに乾いた秋風。薄雲をまとった十六夜の月。そして、父の衣にたき染められた香の芳しさ。日が落ちれば寝床に入るのが当然とされていた幼い頃の私にとって、初秋の夜の景色は、殊更に静かで美しいものに思えた。
しかしながら、父は、月や風の音を愛でるために私を庭に連れ出したのではなかったようだ。彼は、遣り水に掛かる小さな石の橋をいくつか渡ると、庭の奥にある大きな樹と向かい合うようにして立った。
昼間であれば、明るく柔らかな色をした青葉が心地の良い緑陰を作り出してくれるそこは、月の光さえ頭上の樹に遮られて、ひときわ暗い闇色に染まっていた。
その闇に向かって、「ごらん」と、父が言う。だが、見ろと言われたところで、暗すぎて何も見えない。「こんなに暗くては、なにも見えませぬ」と、私が父に訴えると、「そなたに言ったのではないよ」と笑われた。
「ここにいる者に、私のかわいい姫を見せてやろうと思ったのだよ」
「ここにいる?」
私の声が震えた。父と私以外に、ここには誰もいない。
父は、誰に私を見せようというのだろう。物の怪だろうか。それとも別の怪異だろうか。恐ろしくなった私は、父の首にしがみついた。
「そのように、怖がらなくてもよい」
父は、私の腕を優しく解くと、目をつぶるようにと言った。
「心と耳をすましてごらん」
怖いながらも、私は、父に言われるままに目を閉じた。周囲の気配に気持ちを集中させ、まぶたの裏に映る闇の、そのまた向こうの闇に手を伸ばすように意識を広げていく。すると、何もないとばかり思っていた闇の中に、息を潜めるようにして、なにかが潜んでいるのを感じた。
「あ」
「わかったようだね」
目を開けた私に、父が嬉しそうに頬ずりする。
「彼らは《影》だ。私やそなたを守ってくれる者だよ」
「《影》?」
「ああ。忍びとか草の者と呼ぶ者もいるね。彼らは常に我らの側にいる。そして、我らを助け、我らを守る」
「私も?」
「そう。そなたも」
父は微笑むと、「これへ」と命じながら、自分は一歩後ろに退き、樹の下の闇から少し外れた場所に私の視線を導いた。
いつのまにか。いや、もしかしたら、ずっとそこにいたのかもしれない。そこには、樹が作る影よりも更に黒々しい影がニ体、地面にうずくまるようにしてひざまずいていた。
影の形からして、ひとりは大人の男である。
もうひとりの小さな影は、当時の私よりもずっと大きくはあったが、まだ少年だと思われた。
「彼が、そうか?」
父が、大きい影に小さい影のことをたずねた。
「幼すぎやしないか?」
「逸材でございます」
大きな《影》が低く短く答えた。
「しかしながら、まだまだ若輩。これから厳しく鍛えていく所存」
「そうだな。時間もまだある。姫の成長に合わせて、そなたも強く大きゅうなってくれればよい」
父が小さいほうの影に笑いかけると、彼は、体を更に縮こませて頭を下げた。その彼に見せるように、父が私を抱え直した。
「この姫は、東国への嫁入りが内々に決まっておる。そなたは姫に従い、いつまでも姫をお守りするように」
『東国への嫁入り』という言葉の意味するところを当時の私は全く理解していなかったものの、目の前の少年が私を守ってくれる者だということは理解できた。それから、いつまでも、どこまでも彼が私と共にいてくれるのだろうということも。
「命に代えましても。必ず」
大人の《影》の声に合わせて、少年の《影》が静かに深く低頭した。
これが、私と私の《影》との出会いだった。