第五十八話 親知らず子知らず②
『若松先生に任せるのはいいですけど……。』
不満なわけじゃないけど……言いかけて黙り込んでしまった私を雨守先生は見つめた。
「縁は手伝いたいんだろ?」
『はいっ!』
「そうだな……。
若松先生も高野先生に相談しなければならないが、
二人とも小原から直接聞きだすのは流石に難しいだろうからな。」
『高野先生は担任を引き継いだばかりだし、
若松先生も直接教えてはいないから、ということかしら?』
顎に手を当てて考え込んだ雨守先生の顔を、立花先生は覗き込んだ。
「ええ。
二人とも小原との信頼関係はまだ築けていない、とみるべきでしょう。
その点、縁なら小原に近づけます。
確か生徒の写真が……あった、これだ。」
言いながら先生は戸棚の中から一冊の薄いアルバムを取り出した。
『集合写真?』
尋ねる立花先生にも見えるように、雨守先生はページをめくっていく。
「ええ、たいていの学校では教科や研究室ごとに
こんな各クラスの集合写真が置いてあるものなんです。
私みたいな講師には、生徒の名前と顔を一致させるのも大変ですからね。」
『この子ですね!』
私が指し示した小原さんは、ショートヘアーを真ん中で分けた子だった。そして、みんなと違ってカメラから目をそらしていた。
「顔、覚えた?
次の時間、ちょうど彼女のクラスは芸術だ。音楽室だな。
俺も授業だからしばらく別行動だが、
縁、一つだけ気をつけてもらいたいことがある。」
『なんですか?』
「一昨日昨日と立て続けに親が動いた、なんてのが気になる。
縁には小原を見ていてほしいが、
なるべく積極的に関るようなことはしないほうがいい。」
憑依したり、姿を見せるようなことはしないでってこと?
雨守先生なりに考えるところがあるんだろうけど、どういうことなんだろう? 立花先生と二人で雨守先生を見つめる。
「学校はリストカットが疑われる時は医療機関への相談を親に勧める。
カウンセリング、思春期外来と杓子定規の対応でな。
それがいい時もあれば、うまくいかないことも多い。
いずれ小原もそうなった時、
幽霊と関わっただなんて言葉が小原の口から出たら……。」
先生は私と立花先生を交互に見て言い淀んだけど、私にはすぐにわかった。
『小原さんが、おかしくなったって思われちゃうってことですね?』
「そういうことだ。
それじゃなんの解決にもならない。
本当は小原が思ってることを、受け止められる人間がいればいいんだが。」
『でも、もし、突発的に小原さんが……?』
そんなことないって信じたいけど、もし! もし……自殺しようなんてしたら?
「その時は立花先生を倣ってくれ。」
『そうね!
花瓶でもなんでも、
身近なものを派手に壊して注意をそらせることだわ。
いいわね? 後代さん!』
『はい!』
「その時は俺もすぐに行く。」
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始業のチャイムが鳴った。でも音楽室に小原さんはまだ来ていなかった。今日休んではいないみたいだし、ホームルーム教室まで戻ってみようかな?
それでも見つからなかったら空から……。
そんなこと考えながら渡り廊下から本校舎に入ると、すぐそこの女子トイレに人の気配を感じた。
女同士だもん、いいよね。
壁を通り抜け、まずは全体を見渡す。誰の姿もないけれど一番奥の戸だけが閉まっていて、中からカギが。でも、中の人はどうやら立ったままだわ?壁と同化してその個室の中を伺う。
いた!
小原さんだ!!
チャラ松さんが心配したとおりだった。
小原さんの右手にはカッターナイフが。
そしてブラウスの袖が捲りあげられた左腕は、手首から腕にかけていくつものためらい傷の痕が。
それに今しがた付けたんだろう、新しい傷からは血が滲んでいた。
でも、まだ腕に当てたカッターの刃をじっと見つめる小原さんの目には涙が溢れている。その腕にだんだん力が込められていくのがわかった。
こっ、これ、もう全然普通じゃないですよね?
止めなきゃ!
すぐに私は小原さんの背後に回って自分の腕だけを憑依させた。
「?!」
小原さんは、自分の両腕が突然動かなくなったことにびっくりしている。お互いの意志がそれぞれ正反対の方向に動かそうとして、腕はブルブルと震えてるもの。
「あ……れ?」
彼女が握っているつもりの右手、その強張った指を一本一本引きはがすように、ゆっくりと開かせていく。カッターナイフが便器の中の溜水にぽちゃんと音を立てて落ちた。
「あ……。」
小原さんは、なんのためらいもなく、そのカッターを拾おうとする。だめだよ、そんな汚な……とっさに私はドアを叩いた。
うわっ。
叩きすぎちゃったッ。ノックなんて感じじゃなく、ドアの上から下まで、ばばばばんっ と凄まじい勢いで叩いてしまっていた。
びっくりした小原さんは立ちすくんだまま、ドアに向かって恐る恐る声をかけた。
「だ……誰か、いるの?」
うわ、まずいよ。
後ろにいるけどまずいよまずいよ!
先生に言われてたのに、このままじゃどうしたって怪奇現象じゃない?
もし、小原さんが誰かに相談できたとしても、このこと話したら小原さんがどこかおかしいって、きっと思われちゃう。
でもそうならもういっそ!
ガチャっ バンっ
もう、声をかけちゃおうと決心したその時、小原さんはドアを勢い良く開けると、トイレから飛び出してしまった。
そしてそのまま渡り廊下に出て、音楽室には向かわず上履きのまま駐車場を回って校外へ。どこに行こうというの?
ごめんなさい、先生! 私、追いかけますっ!!
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学校からそれほど遠くない二階建てのアパートまで、小原さんは息を切らせながらほとんど立ち止まることもなく走ってきた。
外の階段を駆け上がると一つのドアをあけ、靴を脱ぎ散らかして奥へと駆け込んだ。ここは小原さんの家なんだ。
でも私は入るなり、ぎょっとしてしまった。ダイニングキッチンの隅に、二、三人の幽霊が互いを認識してる風もなく、ただぼーっとしゃがみこんでいる。
なんなの? この人達が原因なの? でも、今は気にしていられないわ!
小原さんは飛び込んだ奥の部屋で、勉強机の引き出しという引き出しをあけ、その中のものを部屋に巻き散らかしながら叫んだ。
「ない! ない!! ないッ!!! なんでなのっ!!!」
な、なにを探してるの……??
そして再びキッチンに戻ると、狂ったようにその棚の戸を開けまくっていく。
その時、私は気がついた。
この家の台所には、包丁がない!
ハサミというものも、およそ刃物というものがまったく見当たらない!
きっと小原さんが探していたのはカッターナイフ。
それを隠した?
それってつまり、小原さんのお母さんはリストカットのこと、知っていたっていうこと?
突然小原さんは大きなお皿を一枚、床に叩きつけた。大きな音を立て、小さな破片が四方に飛び散った。
するとさっきの幽霊たちは、怖れるように声になっていない悲鳴を上げながら壁へと消えていった。なんなの? いったい。
いや、今はあんな人達より小原さんだわ! 小原さんはお皿の破片を一つ握りしめると、それを使ってまた手首を切ろうとした。
『やめてっ!!』
私の声と同時に小原さんの手に握られていた破片は砂のようになって砕け散った。小原さんの体は、まるで強い風に煽られたように後ろの壁にぶつかった。
破片を握っていた指がじんじんするのか、小原さんは左手で震える右腕を抑えながら起き上がる。小原さんは片目をうっすら開けたとき、硬直した。
「だ……誰?」
もう、私が見えているはず。
私はきっと鬼のような形相をしていただろう。
「幽霊……なんでしょ?
お願い……死なせて。
私を連れて行って!」
私にあんなことされても、私を幽霊と知っても、小原さんは怖がりもしない。それどころか、まるで希望を見出したような眼を向けてくるなんて。
自殺なんてだめって、止めたくてここまで来たけど、こんなんじゃ小原さんは私にほんとの気持ちを話してくれるかどうかなんてわからない。
……それなら、いっそ。
一度目をつぶると、私は小原さんを睨みつけた。
『この家には、下等な霊が何匹も住みついていたわ。
あんな幽霊などと一緒にしないで。
死にたいというのなら、それにふさわしい理由を話しなさい。』