失ったものの代わりに
完結1年後と1ヶ月後ぐらいのカスヴァとルナーク。
落ち穂拾いのような中途半端な内容のSSです。
ヒュッ、と切っ先が鳴く。右、左と打ち合わせながら間合いを整え、隙を逃さず踏み込んで一突き。驚いて避けようとした少年の足がもつれた。踏ん張りきれず体勢を崩して膝をつく。
「ああ、ここまでか。ありがとうございました」
少しだけ悔しそうに言い、少年が降参のしるしに手を挙げる。カスヴァはそれを握って立たせながら、相手の全身にざっと目を走らせた。
「怪我はないな。この一年で随分、上達した。そろそろ別の指導者が必要では?」
「あなたは充分すぐれた教師だし、私の目的は武芸の上達ではありません」
真面目に応じて、少年すなわちルナークは剣を収めると、向かい合って一礼した。
かつて『聖御子』たるべく仕込まれていた少年は、その身に蓄えていた膨大な霊力を失い、引き換えに感情を取り戻した今、どこか不可解な雰囲気をまとっていた。
出会った時のような典礼用の祭服ではなく、簡素な動きやすい格好で、艶やかな金茶の髪もひとつに括っているため、一見すると年齢相応に活発な普通の少年だ。しかし整った顔立ちの中からまっすぐに人を捉える透き通った双眸は、神秘を湛えて底知れない。
カスヴァがじっと見つめ返すと、不意にその瞳が心細げに揺れた。ルナークは瞼を閉ざし、ゆっくりひとつ深呼吸してから胸に手を当てて言った。
「あなたのおかげで、かなり落ち着きやすくなりました。瞑想も効果はありますが、こうして自らの意志で鍛練するようになって……生まれて初めて、自分自身がひとつになったという感覚がします。心と身体と魂とが」
「効果があるのは結構だが、礼を言う相手は俺じゃない」
カスヴァは平静を装って答え、顔を背けた。感謝を向けられる筋合いがあるとは思えなかった。この少年が一番苦しんでいた時、そばで支えていたのは己ではないのだから――
いつまでも続くかすれた嗚咽が、石壁に染み込んでいくようだ。瀕死の病人が命を振り絞るような、か細く切羽詰まった声を漏らし、ルナークは部屋の隅でうずくまって震えている。その背に毛布をかけて寄り添うのは、オリヴェルだった。
「大丈夫です、大丈夫ですよ、ルナーク様」
くつろいだ声音で、優しく穏やかにささやく。繰り返される醜態にも倦み疲れた様子など一切なく、この世には悲しみも苦しみも存在しないと信じさせるほど、落ち着き払っている。
離れた場所から見守るしかないカスヴァは、身の置き所がない気分だった。
聖都の東南、かつて砂漠だった方面へ『復活』の影響を調べに出て、帰ってきたばかりのことだ。荷物を下ろす間もなくオリヴェルに捕まり、ルナーク様に会ってほしいと頼まれた。不可解ながらも図書館まで出向いた彼を待っていたのが、この光景だ。
「う……く、うぅっ!」
歯を食いしばり、なんとか感情の波を鎮めようとしているのが目に見える。だがカスヴァには、どうしてやることもできない。
役立たずのまま待つことしばし、どうにかルナークは泣き止み、よろめきながら立ち上がった。オリヴェルが差し出した手巾で顔を拭き、赤く腫れた目をカスヴァに向ける。
「すみません」
唇を震わせ、かすれ声で謝罪すると、少年は危なっかしい足取りでやって来て、カスヴァの肩に軽く寄りかかった。
目を閉じて、ほっと一息。実在を確かめて気が済んだかのように、彼は作業机のほうへカスヴァをいざない、椅子をすすめた。
いきなり生えた樹木のせいで天井に穴が開いた図書館は、明るくはあったが雨も吹き込むため、蔵書はすべて、かろうじて無事だった部屋に避難させてある。作業机も、元々窓際にあったものだが、できるだけ雨のかからない場所に移された。
そんな机のひとつで、ルナークは聖典の編纂作業に取り組んでいる――カスヴァはそう聞かされていた。むろん独りではなく、エリアスやオリヴェルほか、長年研究を続けてきた人々と討論に審議を重ねながらだ。
しかし今、部屋にいるのは三人だけ。
落ち着かない気分で腰を下ろしたカスヴァの向かいにルナークが座り、積み上げられた書物を脇へ寄せた。
「……人が、どのような場面状況で、どのように反応し、どう振る舞うか……それがどういう感情を意味するのか。知っているつもりでした。うんと幼い頃には、泣いたり笑ったりした記憶もある。何も感じなくなってからも、ずっと観察し、学んでいました。ですが……これほどままならないとは」
独り言なのか、何か意見を求められているのか判別がつかず、カスヴァは無言のまま続きを待つ。だがルナークはまた何やら胸を詰まらせた様子で、なかなか言葉を紡げずにいた。やむを得ず、暗闇の中で手探りするように問いかける。
「何か、俺に出来ることが?」
会ってくれと頼まれたからには、何かの役に立つと思われているはずだ。
するとルナークは、弱々しく微笑んだ。
「わかりません。ただ、久しぶりにあなたに会えて……これは、安心、でしょうか。穏やかな心地になったのは確かです。不思議ですね」
横からオリヴェルが満足そうにうなずいた。
「あの波乱に満ちた最後の数日間を共に駆け抜けたことで、仲間意識を持たれたのではないかと推測していたのですが、どうやら間違いなかったようですね」
笑みを広げ、カスヴァに向けて説明を続ける。
「ご自身の感情に動揺されている時でも、エリアスが一緒に作業をしていると明らかに落ち着きが違うので、そうだろうと思ったんです」
「エリアスが?」
「慰めるのが上手なんじゃありませんよ。あいつは相変わらずです。それでもルナーク様は安心されるようだから……ずっとまわりにいた人々とは異なる何かを、あなたとエリアスに対して感じておいでなのだろうと。ただエリアスも忙しくて、ここでの作業ばかりしているわけにいかないんです。ルナーク様の代わりに様々な会議に出ていますし、あいつ自身も正式な司祭になるための聖務をこなさないといけなくて。だから、あなたも手が空いた時には、なるべく顔を見せに来ていただければありがたいのですが」
「そういうことか」
カスヴァは納得したものの、少々困ってしまった。ただ顔を出すだけというのも芸が無い、というか間が持たない。まさか「こんにちは、ご機嫌いかが、では失礼」とはいくまいし、と言ってじっと見守るだけというのもいたたまれない。
何か、と考えてふと彼は思い出した。
「そういえばルナーク……様、は」
「どうぞ呼び捨てに。私はもう『聖御子』ではありませんし、あの道中と同様に接して下さい」
声は静かながらも、痛いほど真剣なまなざしで頼まれてしまい、カスヴァは口ごもった。確かにもう『聖御子』ではないが、だからこそ、ただの人柱ではなく生身の少年、しかもこの若さで司祭という秀才と接しては、遠慮がはたらくのが人情だろう。
(……が、それでは突き放すことになるようだ)
こちらの見方を変えるしかない。この少年は頭は良いが情緒の発達が遅れており、オドヴァやツィリがもう少し成長すれば差しかかる年齢の――そう、子供だ。であるなら、己がしてやれることはひとつ。
ふっとひとつ息を吐いて腹を括ると、カスヴァは話の続きを口にした。
「秘術で人の霊魂を奪う腕前は大したものだったが、あれ以外に武芸の類は何か鍛練していたのか? もし望むなら、剣術の稽古ぐらいはつけてやれる。日がな一日ここに籠もっていないで、身体を動かせば気分も晴れるだろうと思うが」
「剣、ですか」
ルナークは瞬きし、今までそんなことは考えたこともなかった、というようにカスヴァの腰へ視線をやった。ややあって唇がほころび、表情が和む。
「……ああ、思い出しました。そういえば私は、剣士に憧れたこともあったのです。素早い身のこなしだけは、もしもの時のために教え込まれましたが。武器の使い方までは」
独り言のように訥々とそこまで言い、彼は初めて、確かな喜びのこもった本物の笑顔になった。
「どうぞご教授ください、カスヴァ殿」
「お安いご用だ」
つられてカスヴァも目元を緩めた。オドヴァに初めて剣を持たせてやった日のことが思い出され、微笑ましくなる。
今、そのオドヴァはどこでどうしているかもわからない。我が子に何もしてやれない代わりに、せめてここで己を頼りにする者がいるなら力を貸そう。
(それで少しでも早く教会が仕事を進めて、混乱を収拾してくれるのなら、遠回りでもあいつのためになるはずだ)
現実的に考えて、故郷に帰ろうと試みるよりもましだろう。今回の調査に先駆けて近隣の様子を調べに出たが、どこもかなり混乱していた。突然の地形変化やそれにともなう住民の権利の問題、教会の変容を受けての都市政治の仕切り直し。復活者の話を信じる者と信じない者の対立。旅人の身の安全は、外道が出なくともきわめて危うい。
だから――この選択は最善ではないかもしれないが、少なくとも間違いではないのだ。
自分を騙していると薄々気付きながらも、彼は微力を尽くそうと心に決めたのだった。
その結果が今、目の前にある。
すっきりした表情で汗を拭い、そよぐ風を受けて心地よさげに目を細める少年。かつての無感情な人形じみた姿が、もう思い出せなくなりそうだ。
剣の鍛錬だけが変貌の理由でもなかろうし、そもそもすべてはオリヴェルの献身があってこそだ。それでも自分が教えたことが役に立ち、成果を上げているのは嬉しい。
翻ってカスヴァ自身はというと、この一年、日を追うごとに、これで良いのかと自問することが増えていた。
彼は今、領地経営の経験を買われ、教会領の農地管理に引っ張り出されている。教理や教会組織の込み入った事情などわからないから、世俗の実務が向いているのは事実だが、作付けがどうの羊がどうのという話を毎日していると、ここでいったい何をしているのかという気分にもなる。同じ農地管理なら、故郷のほうがよほど必要とされるだろうに。
思わずカスヴァがため息をつくと、ルナークが振り返り、思いやる表情になった。
「あなたにとっては、もっと気にかかることが他におありでしょうね。引き留めて申し訳ないと思っています。ですが、今の聖都には一人でも多くの手が必要だし、それに……理解し難いかもしれませんが、本当に、あなたは私の支えです。オリヴェルやエリシュカとは別の……聖職者ではないからこその」
曖昧に言葉を切り、少年は恥ずかしそうに目を伏せた。カスヴァはむず痒くなり、意味もなく空を仰ぐ。お父さんの面目躍如だね、と懐かしい声に冷やかされた気がして苦笑いになった。
「まあ、俺でも役に立っているなら幸いだ。北の情勢がどうなっているか、特使を通じて少しは情報が入って来る。是非にも俺が行くべきだと判断したら、その時は何がどうでも出て行くさ。それまでは付き合うから、遠慮するな」
あの『復活の日』に炎の御子エトラムを守って重要な役割を果たしたとされる人物については、ありがたいことに赤毛の女司祭ばかりが噂になっている。エリュデ王国の一地方領主など関与しなかったかのようだ。
これなら村に帰れるのではないか――近頃はそんな風にさえ考え始めている。チェルニュクの人々と別れた後の出来事について、主役を彼女におしつけて自分は端役を演じただけと白を切り、ユウェインは聖都でエトラムと共に楽園へ向かったと言って。
不可能ではない。そう思うのに帰郷へ踏み切れないのは、独りでここを去ると何か大事なものをあれもこれも失ってしまうような気がするからだ。ルナークやエリシュカ、オリヴェルとのつながり。ユウェインでありエトラムであった人物の思い出を含めて。
(しかも、そうまでして戻って、俺に居場所があるのかどうか)
苦い自嘲が口の端をかすめる。オレク叔父との関係は良好だったが、すっかり死んだもの扱いの元領主が出戻ったら、喜んでくれるかどうかは怪しい。
あれこれ考えながら首を巡らすと、赤毛の司祭がこちらへやってくるのが見えた。会議に出ていたはずだが、上手くいったのか晴れ晴れした顔つきだ。何がなし眩しくて目を細める。
ルナークに気付いたエリシュカは銀環に手を添えて挨拶し、調子はどうですか、と尋ねた。まずまずだという返事を聞いてふむと一考し、挑むような笑みを広げる。
「久しぶりに私も、どの程度まで動けるか確かめてみたくなったな。カスヴァ殿、剣を貸してくれ」
「それはいいが、あまり俺の教え子をいじめないでくれよ」
「人聞きの悪い。心配せずとも、私も相当、鈍っているさ。神銀の剣も返上してしまったし、悪魔がいようといまいと、もう浄化特使はつとまらん。ただ、せっかくグラジェフ様に仕込まれた技を錆びつくがままにするのも惜しいからな。貴殿の指導力の確認も兼ねて、少し相手をしてもらうだけだ」
楽しそうに言う彼女は相変わらずきびきびして、迷いや停滞とは無縁の活力を感じさせる。カスヴァはそれを羨んだ。
「君は強いな」
声に出すつもりのなかった言葉が転がり出る。いささか脈絡を欠く発言に、エリシュカは一瞬きょとんとし、次いで呆れたように眉を上げた。思わずカスヴァは失笑する。
「わかるぞ。それは『貴様が軟弱なだけだ』の顔だろう」
「自覚があるなら皆まで言うまい」
エリシュカは肩を竦め、借りた剣を軽く振って久しぶりの重みを確かめると、素っ気なく付け足した。
「だが私は、貴殿を弱いとは思わないぞ」
意外な一言にカスヴァが面食らっている間に、元浄化特使はルナークと手合わせを始める。最初はゆっくり軽く動いていたが、次第に勘を取り戻してくると、どんどん速く厳しくなっていった。鋭く的確な叱声が次々に飛ぶ。恐らくは、彼女がかつて受けた指導そのままに。
(ああ、そうか。彼女が強いのは、今もグラジェフ殿が共に在るからだ)
心の支えにして、守り伝えるべきもの。行動の指針。――人生という航海を導く不動の星があるからこそ。
思えば彼自身は、あのひどい戦で信仰を失い、君主への忠誠も消え、帰郷した後は幼い日の素朴な思い出と信頼が崩れ去って、自ら村を灼き……
(根無し草になってしまったようなものだな)
故郷への愛着や我が子への想いはまだあれど、魂の拠り所は失われたままだ。
――君はもう教会を信じていないだろうし、救いについて話したくても司祭はこれだし、だからさ、君の支えになれる相手が見付かるように心底願っているよ――
ユウェインに言われたことを思い出す。支えか、とカスヴァは複雑な気分でエリシュカを見やった。当面、そうした事柄を話せそうな相手は彼女だけだ。ユウェインのことを知り、悪魔について詳しく、『聖御子の座』で何があったかを理解している、ただ一人。
しかし。
「ちょっ……と、待って下さい! 私は、戦に出る、わけでは」
「言い返せるなら良し! ならばあなたの目的は何です。必要なわざは?」
「ですから、待っ……わあぁ!」
息切れしているルナークを追い詰めて足をかけて転ばせ、まださらに、そらどうしたもう終わりか、とけしかける容赦なさときたら。交わすのが剣ではなく言葉であっても、ユウェインのようにやんわり優しく教え諭すだとか、ぬるい対応はとても期待できまい。
カスヴァは諦めと共に天を仰いだ。
(せいぜい俺も気合いを入れるしかないか)
ともあれ、今はルナークだ。やれやれと頭を振り、彼は教え子を救出しに向かったのだった。
(終)




