師資相承くものは(後)
次に彼女が向かった先は図書館だった。すぐに必要な資料を参照できるようにと、新聖典の編纂はそこで進められている。この一年ほどは彼女の仕事場でもあった。
あの『復活の日』に辺り構わず生えてきた樹木は、あらかた伐採が済んでいた。景観と通行の妨げにならないものは残され、不思議な調和を醸し出している。いにしえの昔と現在の融合。
石畳で舗装された歩道に、高い梢の落とす繊細な影が模様を描き、木漏れ陽が小さな宝石のように踊る。行き交う人々の表情も、心なしか以前より穏やかに思われる。
行く手から、楽しげにおしゃべりする数人の少女の集団がやってきた。先頭の一人がこちらに気付き、ぱっと笑顔になる。
「エリシュカ様! ご機嫌よう」
「ご機嫌よう。礼拝の帰りですか」
エリシュカも軽く会釈を返した。新しい聖典の編纂中といっても、礼拝を取りやめているわけではない。以前と同じく創造主たる唯一の神を崇め、かつての轍を踏まぬよう《聖き道》へと導くのは教会のつとめだ。
「はい。司祭様のお話が聞けなくて残念でした」
純真そのものの口調で言われ、エリシュカは面映くなって目を伏せた。正式な司祭として礼拝での説教を許されたのは、ついこの前が初めてだったのだ。
それまでも、特例の浄化特使ではなく正式に司祭として認められるため、普通の助祭がするように礼拝の進行を手伝い、時に司祭の説教の添え物的に短い話をすることはあった。
輝く炎を掲げて数多の魂を導く『光焔の聖女』のイメージは、復活者の間で速やかに広まっていき、今や一般の人々の共通認識になっている。そんなところへ鮮やかな赤毛をした女司祭が現れたら、重ね合わせるなと言うほうが無理だ。
おかげで聖都におけるエリシュカの名声と人気は天井知らず。とんだ墓穴を掘ったものである。せいぜい行儀良く謙遜して見せるしかない。
「私などの話を楽しみにして頂けるのは光栄ですが、主の御言葉は等しく尊いものです。説教壇に立つのが誰であっても、しっかり耳を傾けなさい」
「それはそうですけど、エリシュカ様は本当に悪魔と戦って聖女様をお助けしたんでしょう? だからそういう方のお話を聞きたいです」
勘弁してくれ。喉元まで出かかった呻きをかろうじて飲み込み、エリシュカは真顔を取り繕う。そんな努力に気付かず、横から別の少女が目を輝かせて言った。
「わたしたち、女子の入学が認められたら一緒に学院に入ろう、って約束してるんです。エリシュカ様みたいに格好いい司祭になりたいから!」
直後に頬を染め、仲間同士抱き合ってきゃーっと黄色い悲鳴を上げる。言っちゃった言っちゃった、などとはしゃぐ無邪気さに、エリシュカは苦笑を浮かべた。
(格好良かったので、か)
かつて師がそんな理由で浄化特使を志したと言ったことを思い出し、自然と少女たちに対して優しい気持ちになる。
「あなた方のお手本になれるように、私も励まなければなりませんね。しかし司祭の仕事は……いえ、司祭にまでならずとも教会のつとめに己を捧げるというのは、外から見るよりも大変なことです。身体的にも、精神的にもね。憧れだけで決意を貫けるほどたやすくはありません」
少女らは表情を引き締め、真剣にこちらの言葉に聞き入っている。水を差されたと膨れ面をするでもなく、今この時から既に聖職への道を一歩踏み出すのだというかのように。
浮ついたはしゃぎように反して、どうやら聖職を目指そうというのは真面目な決意らしい。エリシュカは若き挑戦者たちにうなずきかけた。
「ですがその志は尊く、挑む価値があります。主があなた方の歩みをお守りくださいますように」
聖印を切り、下げられた頭のひとつひとつに手を置いて祝福する。肯定と後押しをもらった少女たちは礼を言い、誇らしげに顔を上げて歩きだした。
エリシュカも少女らと別れ、本来の目的地に足を向ける。だがふと気になって振り返ると、一団から一人だけが遅れ、立ち止まって動かなくなるのが見えた。
どんどん先へ進んでいく仲間たちを、石になったように見送っている。孤独な後ろ姿に危うい緊張を感じ取り、エリシュカは少しためらった後、踵を返してそちらへ戻った。
「どうしましたか」
声をかけると、少女はびくりと竦んで振り返った。さきほどの騒ぎの間じゅう、ずっと誰かの後ろになっていて一度もしゃべらなかった子だ。
少女は両手でスカートをぎゅっと握りしめ、身をこわばらせたままうつむく。細い肩が震え、かすれ声がこぼれた。
「あたし、無理です。エリシュカ様みたいになんて、なれない。皆はただ、礼拝でのお姿を素敵だって言うけど……あたしは、見たんです。あの日」
「――ああ」
エリシュカが返せたのは、納得と同情の一言だけだった。
あの日。すなわち『復活の日』、その直前に聖都を襲った泡立つ嵐の海に揉まれながら、彼女は偶然、赤毛の司祭が駆け抜けてゆくさまを見たのだろう。秘術を操り剣を振るい、容赦なく人を殺して屍を踏み越えていく姿を。
「恐ろしい思いをしましたね。しかしもう、あんな戦いは起きません。そもそもかつての私のつとめは極めて特殊なもの。普通の司祭を目指すのであれば……」
慰めようとしたエリシュカを、少女は首を振って遮った。
「知ってます。普通の司祭様は、剣なんて持ちません。だけど……それでも、やっぱり無理です。あたしは皆よりずっと、馬鹿で、弱くて、……なんにもできない。皆で一緒に頑張ろう、って言われるけど。あたし、皆みたいに強くない」
言葉尻が嗚咽に飲まれる。少女は歯を食いしばり、涙をこぼした。
ああ、とまたエリシュカは得心する。皆みたいに、ということは彼女の友人たちもまた、多かれ少なかれあの混乱の傷を抱えているのだ。無差別に襲いくる死から逃げ惑い、礼拝堂になだれ込んで祈り、恐怖に震えながら神に縋った記憶。復活の奇蹟がいかに感動的であろうと、深い爪痕をすっかり消して、なかったことにできるわけではない。
(だからこそ聖職に就こうとしているのか)
明るく溌剌とした空気にごまかされて、彼女らもあの災厄をくぐり抜けたのだ、という事実を忘れるところだった。
そうして友達が皆、前を向いて歩きだそうとしている時に、この少女は己の弱さに打ちのめされている。生来の気質ゆえか、あるいは運悪く他の友人よりも凄惨なものを見すぎてしまったからか。
「司祭様、なんで……なんであたし、こんな弱いんでしょう。皆、頑張ろうって言ってるのに。あたしだけ、なんにもできなくて」
理性や気力が剥がれるように、ぽろぽろと言葉が落ちる。エリシュカはどうしたものか途方に暮れ、いつもの癖で師に助けを求めた。
グラジェフならこんな時、何と言って慰め、諭しただろうか。
ほとんど悩む間もなく、懐かしい姿が思い浮かぶ。今も師がそばにいて、ごく自然に手を差し伸べてくれたような気配を感じ、心が暖かくなり余裕が生じる。
エリシュカはゆったりした動きで、かつて見慣れた仕草をなぞるように腕組みした。
「ふむ、そうですか。私はどんな人間も『何もできない』ということはない、と思っていますが――そう言ってもあなたは、他人と引き比べて嘆くのでしょうね。自分にできることがあるとしても、ほんのこれっぽっちだ、と言って」
叱責でなく容認の声音で語り、こちらを見つめる潤んだ瞳に笑みを返す。
「安易に励ましはしません。ですがあなたは焦らなくていいし、それでままならないからと嘆く必要もない。……かつて私が師から授かった言葉を伝えましょう。『すべてが無限のかかわりの中にあり、そのひとつひとつを主はご存じだ』」
重々しく告げ、相手の表情を見て、苦笑しつつ腕組みを解く。
「難しいでしょうね。実を言うと私もまだ、この言葉に納得できたわけではない。しかし今のあなたには必要でしょう――たとえ弱くて何もできなかろうと、あなたがあなたとして生きることに意味がある。そういう言葉です」
「あたしが、あたしとして……?」
「ええ。自分にとってはつらく苦しい出来事も、結果として誰かに救いをもたらすかもしれない。今こうして私とあなたが語らっているのも、様々な出来事が重なった結果です。あなたは自分が弱いと嘆きますが、だからこそ弱い者の心がわかる良い司祭になれるかもしれない。あるいは、弱くて挫けてしまったあなたを見かねた優しい誰かに求婚され、幸せな家庭を築くかもしれない」
弱さが幸運に転じる未来を描かれて、少女の顔から憂いが薄れる。甘い結婚生活を想像したか、恥ずかしそうに目を伏せさえした。ひとまず『私は駄目だ』の思い込みから引っ張り出せたようだ。あとはもう一押し。
「未来はわかりません。つらいことがあるか、喜ばしいことがあるか、それがどんな結果を生むか。あなたがあなたとして生きることで、そうした因果のかかわりが結びついてゆく。他の誰でもない、あなたが」
「……」
いつの間にか少女の涙はすっかり乾いていた。真面目な顔つきで考え込んだ末、慎重に口を開く。
「それならあたしは、無理して皆と一緒に行かなくても、いいんでしょうか」
「さて。それを決めるのはあなたです」
エリシュカは眉を上げて軽くおどけた。主に問うてもいらえがなければ好きに選べ、と言われたのを思い出す。あの時のグラジェフはこんな気分だったのだろうか。
少女はまだ何か言いたそうな素振りを見せたが、じきにこれは独りで熟慮すべきことだと思い直したらしく、ありがとうございました、と頭を下げて背を向けた。
すっかり遠くなった友達を追って、少女が走って行く。エリシュカは小さな影が仲間と合流するまで見送り、ほっと肩の力を抜いた。
(上手く話せたでしょうか、グラジェフ様。私はあなたの言葉をねじ曲げはしませんでしたか?)
思わず聖印を切り、空を仰いで呼びかける。
(あなたに言われた時はただ、出来事の因果は人知で計り知れないものだ、という表面的な意味しか捉えられませんでしたが……)
その後さまざまな出来事を通してまさに“無限のかかわり”を実感するにつれ、背後にあるものが見えてきた気がする。それを踏まえた上での、先ほどの話だ。
自分自身として生きること。その肯定。
(……難しいですね。あの時のあなたの年齢になる頃には、もう少し理解が深まっていると良いのですが)
やれやれと嘆息すると、懐かしい苦笑の気配を感じる。
――エリアス、そなた、いつまで私に教えを乞うつもりだ?
もう一人前だろうに、しっかりしないか。そう叱りつつも厳しくしきれず、声に温情が滲み出ている。
これほど鮮やかに思い浮かぶのに、彼の魂がもう地上にないとは信じられない。楽園の門は一度くぐれば戻れないが、彼のことだから、弟子の行状をこっそり覗き見るぐらいの特権は――何かうまいことやって――得ているのではあるまいか。
(いつまでも、あなたは私の師ですから。そちらに行くまで……行ってからも、私はあなたの背中を追い続けますよ)
祭服の上から、肌身につけている形見の銀環を押さえる。いつもはひんやり冷たい銀の感触が、不思議とほんのり温かいように感じられて、彼女はそっと微笑んだ。
(終)




