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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第一部 主の御手が届かないなら
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4-1 先達の諭し

   四章



 街を離れて山手へ向かうと、すぐに人家がまばらになる。緩やかな坂を上るうち、まわりは畑と牧草地だけになり、冬季用の厩舎が並ぶ間を抜けて山道に入ると、見渡す限り緑の野が広がっていた。


 件のダンカの家は、幸い、さほど登らずとも着くという話だった。酪農家ではなく、もっぱら糸紡ぎと機織りを生業としており、冬でも街に下りずに暮らせる辺りに畑と家を持っているのだ。

 吹く風はしっとりと湿り、土と草、遠くの森の匂いを運んでくる。エリアスはゆっくり足を動かしながら、町中では訊けなかった質問を投げかけた。


「グラジェフ様。この悪魔憑きは、魔道士だと思われますか。それとも、乗っ取りでしょうか」

「さて、まだなんとも言えぬな」

 当たり前だが返事は曖昧だった。エリアスは唇を噛み、足下に目を落とす。


 一般人はもとより、浄化特使でない聖職者の間でも、このふたつは悪魔憑きとして混同されている。区別が難しいのだから仕方ないのだが、どちらの場合かによって対応も変わってくるのだ。


 魔道士は自らの意志で悪魔と契約し、少なくともしばらくは人間としての理性をもって悪魔の力を借り、魔術をおこなう。反して乗っ取りは、悪魔が人間の魂を食らって肉体を奪うことだ。外見は変わらないが中身はもはや人間でなく、魔道士と同じように魔術をおこなっているとしても、その意志や目的は悪魔のものである。

 乗っ取られた者は殺すしかないが、魔道士であれば、悪魔を引き剥がして人間を救える希望が残っている。契約からあまり経っておらず、悪魔の力が弱ければ、浄化特使一人でもそれは可能だ――幸運に恵まれたなら、だが。


(たいていは手遅れだ)

 親戚の青年の姿が脳裏をよぎり、エリアスは無意識に拳を握りしめた。異様な熱を帯びたまなざし。根拠のない自信に満ち、むやみに活動的で、接した者をたじろがせるほど。魔術に溺れ自制心を失い、善悪の基準もどこかに消え去って、すべてを決めるのは欲と望みと妄執のみ。


 ――エリシュカ、見るがいい! なんて滑稽で愚かな人たちだろう、ああ愉快だ……


 笑い声がこだまする。エリアスは頭を振ってそれを追い払い、顔を上げた。少し先でグラジェフが立ち止まり、連れが追いつくのを待っている。彼は歯を食いしばって足を速めた。

 エリアスが横に並んでも、グラジェフは歩きだそうとしない。気遣われているのが悔しかったが、息切れしているのはごまかせなかった。背に負った鞄の紐が肩に食い込んで痛い。呼吸を整えながら、時間稼ぎにもうひとつ質問する。


「なぜ悪魔は人に憑くのでしょう。理由をご存じですか」

「ふむ。そうか、そなたはまだ黄金樹の書庫に入る許可を得ていないのだな」

 グラジェフはやや戸惑った風に目をしばたたき、独り合点してうなずいた。エリアスが疑問を顔に浮かべると、彼はふいと顔を背けて景色を眺めるかのように目蔭を差した。

「悪魔とは奈落に棲む邪悪の化身。ゆえに《聖き道》を歩む人の子を憎み妨げ、道を踏み外すように仕向ける。……この説明では納得いかんかね」


 なされた説明は、何の疑問もなくほとんどすべての人が信じている『事実』だ。しかしこの言い方からして、それは真実ではない、少なくともすべてを説明してはいないのだろう。そして秘密は『黄金樹の書庫』に隠されており、今のエリアスにはそれを知る資格がない……そこまで推察し、彼は深く息をついた。


「納得いかないわけではありません。ただ、その説明が真実だとしても、私は不思議なのです。わざわざ人に憑かずとも、悪魔みずからが力を振るうことは可能ではないのか。幻影を見せ、水を毒に変え、人を快楽の虜にし……人間を滅ぼすにせよ堕落させるにせよ、もっと効率よくできるのではないか、と思うのです。そうでなくて幸いですが」

「恐ろしい事を言う」

 グラジェフは失笑し、少し考えてから慎重に語りだした。

「そうだな……そなたは特定の悪魔を追っていると枢機卿から聞いたが、悪魔自身と対峙したことはあるかね。魔道士ではなく、あるいは乗っ取られた人間でもなく、悪魔そのものの姿を見て、声を聞いたことが?」


 問いかけられた途端、エリアスの脳裏にあの日の光景が鮮やかによみがえった。

 窓を叩く雨の音。薄暗い広間を照らすのは食卓に並んだ燭台。飛び散った料理、転がる食器。血を吐いて白目を剥いたまま動かない老人。椅子ごと引っくり返り、喉を掻きむしりながら事切れた女。

 離れたところに倒れているのは、剣を抜いたままの男が二人。刺し違え、血溜まりをつくって。立ちこめる腥い湿気がむっと鼻をつく。

 窒息するほど死が充満した部屋で、笑っている。青年がただ一人、笑っている――


 エリアスはぎゅっと目を瞑って、両手でこめかみを揉んだ。囚われるな、凍っていろ。必要なのは悪魔の記憶だけだ。

「姿……は、見ていません。見えなかった。声が聞こえた……と思いますが、あれは魔道士の口を借りていたのか……」

 激痛のあまり失神しかけ、朦朧としていたため、あまり定かでない。だが姿は見えなかったはずだ。ぼんやり影のようなものが現れたようだったが、単に視界が暗くなったせいかもしれない。


 ああ愉快、ああ愉快。笑い続ける青年に、影が寄り添う。

 ――手に入れたな。望みをすべて。

 そんな言葉が聞き取れただろうか。くぐもった声のやりとりは、耳から頭に届く途中でわぁんと歪んで吐き気を催させた。はっきりわかったのは、青年の声が次第に尖って甲高くなり、悲鳴となってゆく過程だ。

 ――話が違う! やめろツェファム、待て!

 懇願、むせび泣き。最後に凄まじい叫びが響き渡る。ツェファム。その名だけは決して忘れまいと心に刻み込んだ……


「悪魔どもは実体を持たない」

 グラジェフの声が堤防となり、押し寄せる過去を堰き止めた。はっ、とエリアスは我に返って顔を上げる。彼はまだ彼方の空を眺める姿勢のままだった。

「彼らは本来この世界に属さぬものだ。……言うなれば死者の影と同様、この世界のものになんら作用を及ぼせないはずなのだよ。円環のひび割れがそれを可能にしたのだ」

 そこまで言い、グラジェフはこちらに向き直った。屈んで足下の草をぷちんとちぎり、道端の岩にそっと置く。

「悪魔も外道も、肉体を得ぬ限りは霧で出来ているようなものだ。この草の葉を岩からどけるぐらいは……」

 言いながら手を振って風を起こし、葉を飛ばして見せる。

「まあ、直に触れられずともなんとかなる。だがそこの小石は? この岩は? 嵐でも起こさぬ限り動かせないだろう。霧の体で弾き飛ばそうとすれば、石が動くより先に手が風に巻かれて消えるであろうな」


「ああ……なるほど」霧のたとえで納得し、エリアスはうなずいた。「ぼんやりした姿や声を見聞きさせるぐらいは可能でも、それ以上のことをするには存在が不安定すぎる、ということですか」

「そうだ。霧の手では物は掴めない。人を殴ろうとしても自分が文字通り散じ消えてしまう。直の接触に限らず、魔術をおこなう場合にしても同じだ。こちらの世界のものに働きかけるには、ある程度以上の“強度”が必要になる。だから悪魔は人間に憑くのだよ」

「では悪魔が人間を介さず力をふるうことはないのですね」

「ほとんどはな。例外もいる」

 グラジェフは肩を竦めた。険しい顔になったエリアスに、彼は淡々と他人事のように告げた。

「悪魔は悪魔同士で共食いをし、力を奪い合う。そうして大悪魔となったものは、相変わらず霧で出来ているとしても充分な密度と強度を有するがゆえに、人間と契約したり肉体を乗っ取ったりせずとも力をふるうことができるらしい。そのような悪魔に出くわしたら、浄化特使と言えども逃げるしかないと覚えておけ。単身で立ち向かおうなどとせぬことだ」


 予期せぬ忠告に、エリアスは愕然とした。悪魔の中にも力の強弱があり、大悪魔だの魔王だのと呼ばれるものから、蛇やムカデ程度の脅威でしかない雑魚までいる、ということは学院で学んだ。だが、大物悪魔が人に依らず力を振るうものだとは……。


「では我々は結局、悪魔には勝てないのですか。殺せるのはせいぜい小物ばかり、大物が人の世を踏みにじるのは止められないと?」

「なに、周到な準備のもと我らの力を結集させたなら、大悪魔とて滅ぼせるであろうよ。過去にはそうした戦いの記録もある。だが不思議と幸いなことに、強大な悪魔になるほど人間への関心を失う傾向があるようでな」

「さりとて危険には変わりないでしょう!」


 エリアスは反射的に激高した。たまたま悪魔がその気にならないのを良いことに、やれありがたいと放っておくなど、何の解決にもならない。のみならず、さらにその悪魔を強め、人類に限らずこの世界全体に対する最悪の脅威に育ててしまうではないか。せめてもまだ弱いうちに叩かなくてどうするのだ。


「関心を失い永遠に一切干渉しなくなるというならともかく、いえ、それでもこの地上世界に奴らの存在を許すべきではありませんが、いつ気が変わって人の世を滅ぼすやもしれぬものを……」

「エリアス、落ち着け」


 グラジェフの叱声が、吠え猛る炎に水を浴びせた。若者は竦み、青ざめて口をつぐむ。見極め期間が終わっていないのに、むきになって噛みついてしまった。精神的に不安定で危うい、と判定されたら資格を取り消されてしまう。

 彼がぎゅっと銀環を握り締めると、グラジェフは目元を和らげて穏やかな口調になった。


「悪魔を恐れ憎むそなたの感情は正しい。だが彼我の力の差をわきまえて相応の対処ができぬようでは、無駄死にするぞ。……何も悪魔に地上を明け渡すと言うのではない。聖都の深奥では今も、まったき円環の世を取り戻し悪魔を駆逐する方法について研究が続けられている。強大な悪魔がそれを邪魔せずにいてくれるというのなら、わざわざこちらからつつきに行って注意を引くのは愚策だと言うのだ」


「それは……」

 正論だ。が、納得するには喉につかえる。うつむいたエリアスに、先達は辛抱強く続けた。

「いずれそなたも学ぶだろう。事例の記録や伝聞ではない、実際の悪魔がどのようなものであるか。そして我々がどう立ち向かうべきか。敵をよく知るまでは、勇み足にならぬよう自制を忘れるな」

「……はい」

 諸々の思いを飲み込み、しおらしく答える。そのご褒美に、グラジェフは微笑んで言い足した。

「次に聖都に帰った時には、黄金樹の書庫に入る許可が下りるよう、申請してみよう。さて、そろそろ看破の術をかけておこうか。話を聞く限りでは、そう強い悪魔ではなさそうだ。わずかな兆候を見逃さぬようにな」

「はい」

 今度は即答し、エリアスは聖句を唱えて瞼に触れた。視界にちらちらと薄く銀の光がたゆたう。自分たちが使った術の残滓だ。大気に溶け消えるそれをなんとなく追った続きで、彼は初めて眺望に目をみはった。


 そんなに登ったように思っていなかったのに、いつの間にか街はずっと下に去っている。

 薄石板の黒っぽい屋根と素焼き瓦の明るい茶色がモザイク模様をなし、鍋の縁のような石垣がぐるりと弧を描く。その外に広がる畑は、柔らかな緑や掘り起こされた土の黒。深く暗い森もここから見下ろすと、ささやかな苔のようだ。右手にはクラヴァ川が、きらめく長躯を堂々と横たえている。


 思わず惚けていたエリアスは、風に吹かれて我に返った。置いて行かれたのでは、と慌てて連れを探すと、彼は同じ場所で待っていた。黙って、ただ優しく目を細めて。

「たまには足を止めて、周りを眺めてみるのも良いものだろう」

 行く道は険しく高くとも、足下ばかり見つめ歯を食いしばってひたすら登るのでなく、今いる場所を確かめてみろ――そう諭しているのだろうが、声音には押しつけがましさもなく、あるのはただ穏やかな慈しみばかり。

 エリアスは気恥ずかしくなり、目を伏せて素直にうなずいた。


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