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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第三部 いざ、この手で悪魔を滅ぼさん
85/134

4-3 彼らを罪から守りたまえ


   ※


「いたぞ! あいつも悪魔の手先だ!」

「私じゃない、私は知らない!」

「逃がすな!」


 聖なる祈りの庭は混乱を極めていた。多数の聖職者と兵士が入り乱れ、居合わせた市民までが徒党を組み敵を探して各所を荒らしまわる。


 教皇暗殺の衝撃により、祭典はもはや完全に崩壊していた。

 ヴィフナーレク枢機卿の指揮のもと、夜を徹して“魔道士ハラヴァ”の捜索がおこなわれ、猜疑の目はありとあらゆる人間に向けられた。一夜明けても、伝書鳩の小屋が破壊されただけで魔道士の足跡すら掴めないとなると、事態は悪魔狩りの様相を呈しはじめた。


「何としても見付け出すのだ! 世界を滅ぼす悪魔を自由にさせてはならぬ!」


 ヴィフナーレク枢機卿が叫ぶ。殉教者ラドミール八世の遺体を納めた棺の前に立ち、その遺志の代理人であると主張するごとく両手を広げて。

 巨大な棺は重厚荘厳な浮き彫り装飾が施され、数多の花に囲まれていた。まるで事前に用意していたかのように、急遽しつらえられた祭壇は手抜かりなく見事だ。

 しかし弔いに移るにはまだ、障害が残っていた。聖都と違ってこのコニツカにハラヴァ派の者は少ないが、もしその全員があの“悪魔のわざ”を修めているなら、一瞬の油断もならない。


(まさか、もう聖都にまで逃げ戻ったわけではあるまいな)


 さらなる捜索と容疑者尋問を命じながら、ヴィフナーレクは内心ほぞを噛んだ。生き残っていた伝書鳩を飛ばして、聖都の聖職者省長官バシュタ枢機卿にハラヴァ派の拘禁と司祭ルナークの指名手配・身柄確保を頼んだが、間に合ったろうか。


(悪魔殺しどもめ、結局奴らも悪魔の同類だ)


 浄化と称して悪魔を殺すことを至上の使命とし、そのためなら悪魔と同じ奈落まで堕ちることも厭わぬ危険人物ども。ついには驕り高ぶり、神に代わって“聖御子”を創るなどと――


「ヴィフナーレク様! 大変です、迎賓館が」


 顔面蒼白の男が悲鳴とともに駆けつけ、ヴィフナーレクを物思いから引き戻した。目をやると確か、教皇のための部屋を清めるよう命じた助祭だ。


「何事か」

「お、お部屋が、お部屋を、き、清め、ていたらっ」

 切れ切れに言葉を押し出す合間に、嗚咽が挟まる。足が震えてまともに立っていられず、助祭はがくりと両膝をついた。

「消えた……消えたのです! 床ごと、いきなり」

「何を言っているのだね、もう少し落ち着きなさい」


 たしなめつつ、ヴィフナーレク自身もまた正体不明の不安に襲われた。

 昨日の騒動以来、世界の気配がどことなく不穏であるのは感じていた。ハラヴァが禁忌のわざを用いたせいで霊力が不安定になったのだ、と思っていたのだが。


「人が消えたのです、ヴィフナーレク様!!」

 助祭が絶叫し、周囲の人々がざわめいて注目した。

「消えたとは、どういうことかね。具体的に」

「そうとしか言いようがないのです、本当にいきなり……空気が、いえ、床も壁も、ぶるっと震えたような気がしたと思ったら、床が抉れて。そこを拭いていた者も一緒に、消えてなくなったのです! 何ひとつ、髪の毛一本も残さず……ああ主よ、お助けください」


 すすり泣き、両手を組んで額につけ、うずくまってひたすら聖句を繰り返す。理性も正気も吹き飛ぶ寸前、祈りだけがかろうじてそれをとどめる一本の糸だ。


(何が起きたのだ)


 愕然としながらも、ヴィフナーレクは素早く思案を巡らせた。真実はどうでも良い、とにかくここは不都合な事態をも利用するのだ。

 彼は両腕を大きく広げ、遙か高い穹窿にまで響く大音声を張り上げた。


「間違いなく悪魔の所業、魔道士ハラヴァの罠である! 恐れるな、今こそ我らの信仰が試されている。祈るのだ! 主は守りたもう。まことの光で我らの道を照らし、邪悪の力を挫きたもう!」


 おお、と感動のざわめきが広がり、皆それぞれの場所でひざまずいて祈り始める。

 ヴィフナーレクは厳かにその様子を見回し、ひとまず腕を下ろした。満足の笑みが浮かびかけるのを押しとどめてうなずき、自らも祈るべく、祭壇の奥の円環に向き直る。


 直観的に彼は理解していた。必要なのは聖句による祈り、霊力を帯びた言葉であると。この不穏な気配を鎮めて安定を取り戻すには秘術をおこなわねばならないと。

 おもむろに手をもたげて合わせ、見せつけるように高く掲げて息を吸い込む。


「主よ、照らしたまえ。あなたのしもべが影に覆われようとしています」


 ――だが。祈りは届かない。


「《聖き道》を歩――」


 瞬間の振動。声が途切れ、枢機卿の背中が丸い虚ろに呑まれる。

 なぜ祈りを中断されたかと顔を上げた人々は、空中に取り残された手と頭の先が、赤い筋を引いて落下するさまを目の当たりにした。


 驚愕に見開かれた数多の目が瞬きするよりも早く、棺が穴だらけになり、傾き、崩れる。

 人々の絶叫を、より激しい轟音が圧し潰した。鐘楼が倒れ、巨大な鐘が末期の叫びを上げて墜落したのだ。屋根が砕け梁が折れ壁が崩れ、聖なる砦に集った人々を生き埋めにする。


 昨日ハラヴァが『通廊』を開いた場所を起点に、次々と湧き出た『泡』が地上世界を食い荒らしてゆく。

 第二の聖都、華麗にして荘厳なる信仰のよりどころ、唯一絶対の神に守られた堅き砦――ほんの一瞬前までそう信じられていたものが、脆くも崩れ去った。


 大聖堂内部や近隣にいた者はもちろん、衝撃は全市を襲った。街のどこからでも仰ぎ見られる鐘楼が、輝かしい屋根が、轟音と土煙の中に消えたのだ。教皇暗殺に続く惨劇に、この世の終わりを予感した人々は恐慌をきたした。


 通りに人が溢れる。破滅を恐れ道端で泣き崩れる者、大聖堂に背を向けて走る者、何があったのか見に行こうとする者。混乱に乗じて略奪に走る者、その被害者、知己の安否を案じて逃げ惑う者。


「ヒィ、お助けー!」

「やめろ何をする、貴様らこそ悪魔か!?」

「うるせぇ殺すぞ!!」

「くそっ……おぉい、ここに悪魔の手先がいるぞ!」

「悪魔!?」

「殺せ! 殺せぇ!!」


 もはや昨日までの隣人も知人も、誰もが悪魔になり得た。善悪も真偽も虚実もない。混乱が混乱を呼び、悪意と恐怖に煽られた怒りの黒い炎が街を呑む。

 激しい火は、燃え広がる先を選ばない。大きな栗の木がある地区教会にもそれは届いた。


 昨日の混乱から逃げおおせた司祭オリヴェルは、己の教会から動けずにいた。

 ヴィフナーレク枢機卿の配下には、この教会とその司祭がハラヴァ派だと認識されている。留まっていては危険だとわかってはいたが、ならばどこへ、となると皆目思いつかなかったのだ。

 それだけでなく、司祭が自分の教会を捨てて逃げるというのは神に背くおこないだと感じられたし、何より、教皇崩御の報せを聞いた近隣住民が次々と訪れていたのだ。慰めと励ましを求め、祈りを捧げるためにやって来る人々を放り出すなど、とてもできなかった。

 自分自身の動揺に向き合う暇もなく、信者の相手をしているうちに日が暮れ、夜が明けて。

 ――そして、もはや逃げる猶予はなくなった。


「ここだ! 俺は見たんだ、ここに逃げ込みやがった!」


 興奮のあまり裏返った声が外から響き、礼拝堂にいたオリヴェルは徹夜明けの頭痛を堪えて振り向いた。同時に扉が押し開かれ、六人ほどが踏み込む。若者から初老まで年齢はばらばらの男たち。全員、包丁や火かき棒など凶器を手にしている。煉瓦を掴んだ者もいて、今にもそれを投げてきそうだ。


「手にしたものを置きなさい」

 オリヴェルの言葉は命令形だが、声は静かで柔らかかった。

「今、あなた方が恐れている敵には、刃物や石では立ち向かえません。祈りだけが唯一の武器です」


 司祭の背後では既に祈っていた人々が、暴徒化した隣人に怯えて壁際へ集まっていた。中の一人が勇気を振り絞って声を上げる。


「止すんだ、あんたら。司祭様に罰当たりなことしちゃいかん、この教会まで崩れたらどうするんだ」


 暴徒の先頭にいた男が憎々しげに臆病者を睨み付け、唾を吐いた。火かき棒で司祭を指し示して弾劾する。


「騙されてんだよ! 俺は見たんだ。昨日、教皇様が亡くなられたって大騒ぎになった時、こいつは大聖堂からこそこそ逃げ出してきやがった!」

「その前にも怪しい奴らがここに出入りしてた。こいつが悪魔を引き入れやがったんだ!」


「えっ……」

 そんなまさか、と信徒たちが竦む。

 オリヴェルは背中に突き刺さる恐怖と不信の視線を痛感しながら、暗澹と首を振った。

「まったくの誤解です。正直に申し上げて、私にも今、何が起こっているのかわかりません。教皇聖下が身罷られ、神の家たる聖堂があのようなことになったというのに……」

「黙れ!」


 怒号と共に煉瓦が飛ぶ。オリヴェルはとっさにかわそうとして背後の信徒に思い至り、両腕で防いだ。衝撃によろけ傾いだ身体に、火かき棒が振り下ろされる。肩を打たれて、たまらず膝をついた。

 それでも語りかけようと口を開いた途端、顔を蹴られ倒れ伏す。


「喋らせるな、こいつは悪魔だ!!」

「耳を貸すな! 殺せ!!」


 獣じみた雄叫び、殺意の合唱と共に降り注ぐ暴力。

 身体を丸めて嵐に耐える司祭の胸を満たしたのは、恐怖よりも悲嘆だった。


(なんてことだ。皆、普通の人々だったのに)


 彼らの名前も職業も家族も、みんな知っている。ほんの数日前までこの場所で共に祈り、無邪気に祭典を楽しみにしていた。


(ああ、いけない)

 身体を襲った冷たさに、悟る。

(このままでは、彼らは私を殺してしまう)


 怯えた羊の群れが狂騒して牧羊犬を踏み潰すかのように、牧人を見失い、自分たちが何をしているのかもわからぬまま。


(彼らに、罪を、犯させては)


 いけない。


 ゆえに彼は、赤く染まった指をかろうじてもたげ、聖印を切る。

「主は、あなた方を、……赦されます」

 微笑みと共に、心の中で三度呼ぶ。耐え難き苦痛から解放し、魂を保護すると約束してくれた司祭の名を。


 ――どうか、彼らを罪から守りたまえ……


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― 新着の感想 ―
[一言] 彼は何も悪くないのに、なんでこんなことに… でもその理由が、これまで底抜けに明るく純粋だった彼らしいですね。
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