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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第一部 主の御手が届かないなら
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3-3 世知に長けたるは


 山に向かえば商店はない。グラジェフとエリアスは、先に街で腹ごしらえをすることにした。

 織物産業が盛んな土地柄、女たちも立派な職人であり、各家庭で手料理をつくるよりは店で済ませるのが主流であるらしい。おかげで食堂はすぐに何軒も見付かった。


 昼時のこととて混雑していたが、忙しい職人らが客なだけあって入れ替わりも早い。二人は風通しの良い明るい席を確保した。注文を聞きに来た娘は相手が聖職者だと見ると、ぱっと笑顔になって挨拶した。 

「主のお恵みがありますように。今日は豆とキャベツの煮込み、それにパンがつきます。二人前でよろしいですか? 飲み物は水か麦酒、あと林檎酒があります」


 何種類もの品書きから選べるような店ではないが、分量と飲み物ぐらいは指定できる。グラジェフは連れの了承を得て、二人前に水と麦酒を頼んだ。

 常連たちは店の常備菜を心得ており、燻製をつけてくれ、あれはないのか、だのとやりとりしている。二人の司祭に気付くと、さっと目を逸らしてひそひそささやき合ったり、曖昧に会釈したりと様々な反応が返ってきた。


 じきに先ほどの娘が料理を運んで来て、テーブルに並べた。グラジェフは礼を言い、値段を聞いてから銀貨を一枚渡してやる。

「釣りは結構。この店とそなたに主のお恵みがあるように」

「ありがとうございます、ごゆっくりどうぞ!」

 途端に娘はさらに笑みを大きくし、朗らかに言って銀貨を握り締めた。苦笑したグラジェフの前で、彼女はそっと手のひらを開いて確かめる。上機嫌の理由は、心付けを得られたというだけではなかった。


「本物の聖銀貨ですね。きれい」

「飾っておくものではないよ。さあ、仕事に戻りなさい」


 たしなめられ、娘は恥ずかしそうに「はぁい」と答えて厨房に戻っていく。エリアスは、あまり感心しないと言いたげな顔で見送った。


 教会が発行する貨幣は信用が高く歓迎される。品質が良いし、意匠も美しいからだ。他にも各国が独自に鋳造しているものが多種あるが、聖都の貨幣ほど質が安定しておらず、流通量も少ない。そもそも、ちょっと鄙びた土地へ行けば物々交換でしか取引できなかったりするのだ。

 そんな状況だから、聖都の貨幣、中でも銀貨は、経済的な価値よりも美しいお守りとして喜ばれている。魔除けとしてだけでなく、水差しや牛乳壺の底に沈めておけば中身が腐りにくい、というご利益――実のところ何の神秘でもないのだが――が目に見えるとあって、ことに田舎では額面以上の価値を持つのだ。


 もっとも、貴族のお嬢様にしてみれば、あまりわからない感覚ではあろう。グラジェフはエリアスの表情をそっと観察して笑みを押し殺し、咳払いした。慌てて向き直った若者と共に、手を合わせて主に感謝の祈りを捧げる。

 匙を取って、まず煮込みの汁を一口飲むと、滋味が全身に染み渡った。豆と野菜のほのかな甘みが溶け込んだまろやかな味、これが欲しかったのだと身体が喜んでいる。

 思わずほっと息をついてから向かいの若者を見ると、こちらも明らかにいつもの無表情とは違っていた。これまで何を食べても大して反応がなかったのに、はっきり『美味しい』と顔に出ている。連れの視線に気付くと、ばつが悪そうにうつむいた。


「この店にして正解だったな。主のお導きだ」

 グラジェフが真面目ぶって言うと、エリアスはうつむいたまま「はい」ともぐもぐ答えた。その様子が微笑ましくて、グラジェフはつい目元を緩めてしまう。

「たっぷり食べると良い。空腹では山を登る力も出ぬからな。そもそもそなたは平生、食事の楽しみに関心が薄すぎる」

 言いながら、見せつけるように麦酒をぐいと飲む。途端にエリアスは胡散臭げな目つきをくれた。

「食道楽は身を損なうのではありませんか。それこそ悪魔に付け入られますよ」

「程度の問題だ、極論に走るな」

 グラジェフは苦笑し、杯を置いて煮込みをじっくり味わった。

「うむ、やはり美味い。……前にも言ったが、空腹と睡眠不足は大敵だ。思考を曇らせ判断力を鈍らせ、身体を重くする。つとめを果たすためには、まず身体を健やかに保たねばならぬ。その上で、心にもゆとりが必要だ」

「気の緩み、の間違いでは?」

「言うようになったな。だがきつく締め付けてばかりいたら、ほんのわずか緩められた途端に弾け飛ぶか、切れてほどけ落ちてしまうぞ。喜び楽しむことを忘れた心は、存外脆い。悪魔に誘惑されて手を結ぶ人間が皆、享楽的だとは限らんのだ」


 硬いばかりではわずかなひびにも砕けてしまう。しなやかな打たれ強さが必要なのだ……そう説きたかったのだが、相手の顔色を見てやめた。グラジェフは悪くなった空気を払うように手で扇ぎ、軽い調子で詫びた。


「いや、すまぬ。説教などしては料理が不味くなるな。気にせず食べてくれ」

 エリアスは小さくうなずくだけにとどめ、無言で食事に集中した。珍しく皮肉な軽口をよこしたと思ったが、単に美味い煮込みのおかげで一瞬、(たが)が緩んだだけらしい。

(気を許したわけではない、か)

 やれやれ。グラジェフはそれとわからないほどに肩を竦め、パンをちぎった。


 ほどなく、客をさばく合間を縫って店主らしき男が二人の席にやって来た。難しそうな顔で「失礼」と詫び、聖銀貨を卓上に置いて言ったことには。

「司祭様、こりゃ二人前には多すぎます。主のお恵みを祈ってくださるのはありがてえですが、施しなら間に合ってますんで」

 言わんこっちゃない、とばかりエリアスが眉を上げてこちらを見たが、予想していたグラジェフは鷹揚に答えた。

「施しなものか。料理も麦酒も大層美味い、銀貨一枚の価値がある。だが受け取れないと言うなら、その正直さを見込んで力を貸してもらいたい」

「……何がお望みで?」

 店主が不審げに眉を寄せる。グラジェフは手招きして店主を屈ませ、ささやいた。

「この二、三ヶ月、町で奇妙な出来事がなかったか、今まで聞いたことのないまじないや言説が広まったことはないか、教えてもらいたい。それと、同じぐらいの時期に行方不明になった男がいないかどうか」


 不穏な依頼を受け、店主はしかめっ面に畏怖の色をまじえた。この客が単なる旅の司祭ではなく、悪魔祓い専門の浄化特使だと気付いたのだ。他の客に聞かれないよう、うんと声をひそめてささやく。


「まさか、この町に悪魔がいるってんですかい」

「それを調べている。今すぐに思い当たることがないなら、さりげなく噂を集めておいてくれぬか。日を改めて聞きに来よう。もちろん食事もいただくよ」

 グラジェフはにこやかに言い添える。店主は渋々ながら、置いた銀貨をふたたび手に取った。

「わかりました。やってみましょう」

「頼んだぞ。それはそうとして、あそこの客が食べている燻製が実に美味そうで、先ほどから気になっているのだがね」

「ああもう、負けました、持ってきましょう。本当は常連さんにしか出さないんですよ」

 店主は周囲に聞こえるように言うと、わざとらしく大袈裟に降参の仕草をし、厨房に戻っていく。グラジェフはおどけて適当な祝福の手つきを送った。


 一連のやりとりを、エリアスはただぽかんとして見ていた。素知らぬふりでグラジェフが食事を再開すると、彼はがくりと肩を落として嘆息した。

「噂を仕入れるのに、こんな方法が……」

「そなたに同じやり方をしろとは言わんよ。だがこういう手もあると知っておけば、役に立つ時があるかもしれん」

 グラジェフはにやりとして麦酒を飲んだ。


 多すぎる支払いをこれ幸いと懐に入れず、律儀に返そうとするか礼を言いに来るようであれば、それなりの信用は置ける。そうした“慎重なお人好し”に対しては、金をちらつかせて情報をせびるよりも、先に報酬を渡してしまえば拒否されにくい。


「我々司祭はどこに行っても概ね歓迎されるし、協力も得やすいが、さりとて誰もが友好的とは限らぬ。司祭だからこそ隠し事をされる、という面もあることだし。もっとも、そなたのように気難しそうな若者には、懐柔策は似合わぬがな」


 グラジェフは言葉尻で揶揄して、相手がますますむっつりしたのを見て意地悪くにんまりしてやった。

 ゆくゆくはこの若者も、したたかさを身に着けるだろうか。硬く鋭いばかりでなく、臨機応変な柔軟さや狡猾さまで使いこなせるようになるだろうか。それとも……そうなる前に折れるか、倦み疲れてしまうだろうか?

(いずれにしても、そこまで見届けることはあるまい)

 独り立ちさせてしまえば恐らく、こうして共に行動する機会もなくなる。何より己自身が……


「はいお待ちどうさま!」


 薄暗い未来の影が落ちかけたのを、朗らかな声が吹き飛ばした。給仕の娘が燻製の小皿を運んできて、仰々しく畏まった動作でテーブルに置く。

「特製、鹿肉の燻製でございまぁす! お酒によく合いますよ、お代わりはいかがです?」

 愛想良く勧められ、グラジェフは思わず笑みを浮かべたものの、向かいから咳払いに牽制されて首を竦めた。

「心惹かれるが、この後、もうひと働きせねばならんのでね。またの機会の楽しみにしよう」

「あら残念。じゃあまた次、ゆっくりできる時にいらしてくださいね」

 娘はにこにこしながら会釈して、お下げ髪とスカートを翻し、踊るように去っていく。それを見送ったエリアスが、ぽつりと意外な言葉をつぶやいた。


「可愛い子ですね」

 声に滲むのは微かな痛み。グラジェフは気付かないふりでとぼけた。

「そなたの好みかね」

 途端にエリアスは渋面になり、生真面目に言い返す。

「私は司祭ですよ」

「そうか奇遇だな、私もだ」

 あくまでもふざける先達に、若者は苦虫を嚙み潰して首を振り、黙って食事の残りを片付けたのだった。


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