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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第三部 いざ、この手で悪魔を滅ぼさん
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3-2 呼び戻す声


 ユウェインが出ていって充分に間を置いてから、カスヴァは声を低めてささやいた。


「グラジェフ殿の銀環を見せてくれ」


 意図を察したエリアスは何も言わず、肌身につけたほうの銀鎖を引き出した。手のひらにのせた銀環を見つめ、ぎゅっと握って額に当てると祈りをつぶやく。

 そっと指を開いた時には既に、感傷の影もない。光にかざし、鋭い目で検分する。


「……曇ってはいない。が、少し輝きが鈍くなっているように思える」


 慎重につぶやくと、形見の銀環を差し出した。カスヴァも小さく聖印を切ってから、注意深く受け取ってためつすがめつ眺めた。


「比べてどうとは言えないが、確かに霊力の反応は弱いな。……当然か。俺を介してとは言え、あれは到底『良き司祭』の振る舞いじゃない」


 悪魔そのものだ。霊力酔い、の一言では片付けられない。力に溺れ歓喜し、他人の存在をほとんど乗っ取って。いくら目的が世界の崩壊を防ぐためと言っても、手段が人間の域を超えている。

 人間らしく切り抜けたかったけど、と彼自身がやけくそのように言ったこと自体、悪魔を縛る『願い』を外れるぞ、という宣言ではないか。


 カスヴァが銀環を返すと、エリアスはそれを首にかけてから、悪魔憑きが去った戸口を見やって低く唸った。


「司祭ユウェインの魂も、力を失いつつあるか」


 まなざしは険しく、声には殺気にも近い敵意がある。カスヴァは怯み、後ずさった。

 ユウェインからかいつまんだ事情を聞かされたが、この容赦ない戦士が元は貴族のお嬢様だなどとは、とても信じられない。だが本当に女だというのなら、それなりに対応を変えなければなるまいに、どう変えるのが正解なのか見当がつかず、途方に暮れてしまう。やりにくい。


 彼の困惑にはまったく構わず、エリアスは冷淡な無表情になって当面の問題に立ち戻った。


「安心しろ。仮に奴が完全に悪魔そのものになってしまったとしても、円環の修復がなされるまでは刃を収めておく。不本意だがやむを得まい」

 ため息をひとつこぼしてから、彼は自分の荷物のほうへ歩み寄って鞄を開け、中身の点検と整理を始めた。

「しかし実際問題どうやって、あの月夜の白鳥並に目立つ霊力を隠して聖都の奥まで入り込めばいいのか……もういっそ奴を鎖につないで、大悪魔を捕らえたから教皇聖下の御前に引っ立てるところだ、とでも装うか」

「それはさすがに最後の手段にしてくれ」


 下手をすれば教皇の前で大立ち回りを演じるはめになる。洒落にならない。カスヴァは真面目に制止し、自分も荷造りに取りかかった。


 館の中のめぼしいものは避難の一行が持ち去っていたが、残された貨幣と食料、衣服などを広間に集めて取捨選択する。戦の召集に応じた時の記憶が助けてくれたが、あの時は村の若者が一人ついて来たことを思い出して、胸奥の古傷が痛んだ。


 あらかた必要なものを揃えた後で、彼はなんとなく女主人の部屋に入った。モーウェンナの死後、少しずつ遺品を整理し、なお残っていた細々したものは家令とオドヴァが持ち去って、今やただの抜け殻だ。にもかかわらず、空っぽの部屋にまだ残り香のような気配を感じ、カスヴァは黙って家具のひとつひとつに手を触れた。

 いずれ後妻を迎えるはずだったが、もうここには誰も入らないだろう。無人の館に妻の影だけを残していくような気がして、彼は声に出さず謝罪した。


 その時、いきなりうなじが熱を帯びた。

 カスヴァはぎょっとなって反射的に振り返る。むろん誰もいない。視線は壁を透かして外の動きを追っていた。実際に見えるわけではない、だが霊力の気配を。


「あいつ、また勝手に」


 おちおち故人を偲んでもいられない。彼は罪悪感を振り払い、館の外へ走り出た。どこにいるのかと探す必要もなく、そこと直感した場所へ向かう。後からエリアスも追ってきた。

 領主館の丘から、草一本ない岩の上を駆け降りて南へ。じきにぽつんと小さな人影が見えた。しゃがんでなにやら地面に手を触れ、少し移動してまたしゃがむ、という動作を繰り返している。


「ユウェイン!」

 カスヴァが大声で呼ばわると、青年司祭は腰を伸ばして振り返り、笑顔を見せた。

「やあ、知らせに行く手間を省いてくれたとは嬉しいね。特使殿までお越しとあらば、張り切るしかないな」

「その前に、何をするつもりか説明しろ」

「もちろん」

 ユウェインはにこやかに応じて、エリアスが追いつくのを待った。こほんと咳払いひとつ、おもむろに口を開く。


「南回りでロサルカまで行くなら、街道を歩くより川を船で下る方が楽だと思ったんだよ。以前は東から来たプリア川が兎池に注いで、西に流れ出ていただろう? 下流でメドヴァージ大河に注いで、ロサルカとエルデキアの国境をなし、北へ向かう……」

「待て。確かに以前は川があった、だが村を出たらしばらくして茨森の中に入っていくから危険で船は使えなかったぞ。第一、今はこのありさまだ。川は干上がっただけじゃなく地形が変わってしまって、流れも……、仮に戻せたとしても船がない」


 また思いつきで行動しているのか。カスヴァは無謀な挑戦者の目を覚まさせようと説いたが、今回は相手もさすがにわきまえていた。


「承知の上だよ。全部解決する。ただそのためには、ちょっとだけ『ユウェイン』に目を瞑ってもらわないといけないけどね。ああ、そんなに身構えないで。悪魔らしく詭弁を弄して理屈はこじつけられるから、彼の願いを損なうことにはならないよ」

 悪魔憑きの司祭は、少しの寂しさと皮肉が相まった微笑を浮かべた。銀環の上から胸に手を当て、瞼を伏せる。

「大丈夫。僕はまだユウェインでもある。今からやるのは魔術じゃなくて、どちらかと言うと……そうだね、弔いや供養に近いかな。だから、宗派は違えど聖職者の仕事みたいなものなんだ。教会の禁忌に触れることもない。そもそも教えのなかで言及されていないからね」


 神妙に言って、ユウェインは左右を見渡した。地道に一歩一歩足を運び手を触れてきた跡を。それからゆっくりと深く息を吐くと、その身に纏う空気が一変した。

 静謐で厳かな、典礼に臨む司祭そのもの――否。教会のではない、カスヴァの知らない古い秘儀の空気だ。

 ユウェインは何かに操られるように乱れのない動きで両膝をつき、身を屈めて岩に額をつけた。唇は滅びた国の忘れられた祈りを唱えている。それに応えて白く輝く薄靄が生じ、青年の身体を包んで渦巻きはじめた。


 カスヴァは何が起こっているのか理解できないにもかかわらず、ぞくりと悪寒に震えた。今までの術とは根本的に違うと感じたのだ。止めるべきか、逃げるべきか。判断しかねて立ち竦んでいる間に、祈りが終わり、司祭は大地に口づけした。


 ――刹那。カスヴァは魂まで打ち倒されるほどの“声”を聞いた。

 白銀の輝きが翼のように広がり、一気に東西へ伸びてゆく、その光に乗って音ならぬ声が響く。叫びほど激しくはなく、だが歌でもなく言葉にもならない、ただそこに“在る”と告げる強力な声。


 実際に彼は衝撃を受け、よろめき、膝をついた。五感が狂い、何も見えず平衡感覚も失せ、痛いのか眩しいのか暑いのか寒いのか、何もわからない。

 響く。響きの波が世界の地表を走り抜ける。


 ややあってそれが鎮まり、消えると、ばらばらに吹き飛ばされたカスヴァの自我も元の位置に恐る恐る戻ってきた。身体を知覚し、岩についた膝の感覚や目に映るものの名前、耳に聞こえる音を認識する。


「……これは」


 つぶやいたきり、後が続かなかった。

 川だ。陽光を反射してきらめく水が、涼しげな音を立てて流れている。焼灼される前のチェルニュクにあった、そのままの姿で。水際には柔らかい草が生えてさえいる。土手のすぐ際で黒い岩に切り替わっているのが、過去から取ってきた空間を強引につぎはぎしたようで落ち着かないが、確かにそれは見知った川だった。


 カスヴァは呆然と立ち上がり、下流を眺めやった。無意識に探した景色が見当たらず、彼が困惑していると、かすれた声がささやいた。


「さすがに池までは戻せなかった」


 振り向くと、川縁で座り込んだままのユウェインが、のろのろと重たげに頭をもたげてこちらを見上げたところだった。その顔の蒼白さにぎょっとなり、カスヴァは思わず駆け寄って肩を掴む。


「なんてざまだ。まるで死人だぞ、大丈夫なのか」

「大丈夫、……と言うには、少し堪えたね。まあ、しばらく休めば回復するよ。それより、特使殿と二人で少しあっちを見てきてくれないか。成功していれば、船があるはずだけど、どういう状態になっているかわからない。流されないうちに捕まえて、こっちに運んでどこかにもやっておかないと」


 ユウェインは億劫そうに答え、漠然と下流を指さす。カスヴァがためらっていると、彼は苦笑して続けた。


「大雑把に言うとね、今まで僕が取り込んできた霊魂の一部を“あちら側”に送るのと引き替えに、この“場”の記憶を呼び戻したんだ。爪の先ほどわずかだけど命を削ったようなものだから、さすがに元気いっぱいとはいかないさ。心配ないから、船を取ってきておくれよ。流されてしまったら無駄になる」

「……わかった」


 無茶なことを、そこまでせずとも普通に街道を歩けば済む話だろうに、と説教したくなったが、カスヴァはぐっと飲み込んだ。どうせふざけてごまかすだろうが、その実きっと何か理由を隠しているのだ、この悪魔憑きは。

「すぐ戻る」

 短く言い置いて、彼はエリアスと共に川沿いを走っていった。


 居残ったユウェインはのんきに手を振って見送ると、やれやれと仰向けに寝転がった。ゴツゴツした固い岩が背骨に痛いが、きちんと座っているだけの余力がない。地面を伝ってくる足音の振動が小さくなると、彼は青空を見上げてため息をついた。


「予備実験は成功、か……」

 ほとんど唇を動かさず、口の中でつぶやく。目を瞑ると瞼の裏が赤く暖かい。そのままごそごそ手探りして銀環を取り、握りしめる。

「お望み通りに」

 微かな痛みと淡泊な敬意が、風に吹き散らされる。そうして誰の耳にも届かないまま、せせらぎに運び去られていった。


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