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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第三部 いざ、この手で悪魔を滅ぼさん
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2-5 焼灼


 緋と黄金の輝きを灰色の雲の帯が隠し、隙間からこぼれた光は天の河となって東へ流れゆく。

「皆、もうノヴァルクに着いた頃かな」

 駒留めにもたれかかってユウェインがつぶやいた。もたれるというより、濡れた雑巾をべちゃりと掛けたようなざまである。


「おまえは本当に体力がないな」

「しょうがないだろ、君とは違うんだ。丸一日、ろくに飲み食いせず歩き通しだったんだからさ……しかも今夜は眠れそうにないし。こういうのは僕の柄じゃないんだけどなぁ」


 ぶつぶつぼやきながら、それでもユウェインはよっこらせと身体を起こした。吐息ひとつ、ぐったりしていた顔を引き締めて南の空を睨む。


「来るぞ」

「ああ」


 その頃にはカスヴァも、うなじの不快感を察知していた。ぞわぞわと何かが蠢く異様な感覚。意識が拡がり、村に張り巡らせた網の全体、『釘』の一本一本を知覚する。その向こう側で不穏に騒ぐ『泡』……


 ゴボリ。深い水底から突如として大きな気泡が盛り上がる。反射的にカスヴァは手をもたげていた。より早く霊力が反応し、泡に最も近い釘が鋭い棘を生やす。

 撃ち抜かれた泡が細かく砕け、周囲の圧に潰されて消えた。残った微小な泡だけが地表に現れ、のどかな草地を丸く抉る。


 安心する暇はない。すぐにまた別の泡が生じる。

 通常の視界には何の変化もない、いつもの村の景色だが、そのすぐ裏側でゴボゴボと世界が沸きつつあるのが別の視覚で捉えられた。


 撃破、粉砕、残滓による消失。水車の軸に穴が空き、亀裂が走った。無人の民家で椅子の脚が一本なくなり、傾いて倒れた。

 空から残照が消え、暗雲が垂れ込める。村全体が紫根色の闇に沈み、風が冷えてゆくのに、反して別の視覚では絶えず霊力が銀の火花を散らし、熱く煮える気配が背骨を炙る。


 もうひとつ、またひとつ。

 カスヴァは次第に焦り始めた。悪魔を通じてほぼ無尽蔵に霊力が供給されるが、矢継ぎ早に消費されていく。釘から遠い泡は網を波打たせ押しやって移動させるが、だんだんそれも追いつかなくなってきた。


 逃れた泡が網の隙間を押し広げ、ボコッと『こちら側』に飛び出す。

 池の沖合、名前の由来になった兎型の岩が、一瞬で蒸発した。南側の森で木の数本がぐらりと揺れ、周囲を巻き込んで倒れる。暗闇の中、音だけが告げる終焉の到来。


「くそっ」

 カスヴァは苛立ち、罵った。これだけ用意したのに、対処しきれないなんて。

 横に立つユウェインの浅い呼吸音が耳につく。彼自身は術を使っていないはずだが、魔道士の術を共有し支えると、相応に消耗するらしい。カスヴァも気付くと額にじっとり汗をかいていた。

 ゴボッ……ゴ……ヴン……

 泡がさらに深いところから生じ始めたか、無音の気配が低く不吉にくぐもってゆく。


「まずい」

 カスヴァは無意識に喘いだ。抑えきれない。このままでは世界が捲れ、引っくり返る。

 嫌だ、死にたくない!

 本能的な恐怖が、走れ、と命じる。逃げろ、今すぐ逃げろ、ここに留まるな!

 戦場でもこれほどの恐怖は感じなかった。外道に襲われた時でさえ、もう少しは冷静だったろう。一瞬でも気を緩めたら、子供のように泣き出してしまいそうだ。


 カスヴァは歯を食いしばり、隣を振り向いた。何も見えない夜の暗中、ユウェインの姿は銀光を帯びて月のように浮かび上がっている。その横顔はひたすら白く、血の気がない。それでいて唇は弧を描いていた。は、と笑いを含んだ吐息が漏れる。


「やっぱり無理か。人間らしく切り抜けたかったけど、仕方ないね」


 自嘲と自棄のまじった声音に、カスヴァは眉を寄せた。直後、これまでとは桁違いの力がどっと流れ込む。すべての感覚が遠のき、自分が『自分』から引き離される。『カスヴァ』は一枚の木の葉になって吹き飛ばされ、存在の縁にへばりついた。

 悪魔に乗っ取られる――そう恐れる余裕さえない。すべての領域、すべての意識が、エトラムのもたらすわざを行うために使われる。


「《偉大なる(ヴァスラ)火の神よ(アータール) 今ここに供儀を捧げん(ヌーラム・フラヴァ・ラーダ)》」


 勝手に口が韻律を紡ぐ。村に張り巡らせた霊力の網が応じて震え、光を放った。星を隠す黒雲が稲光で答える。大地の異変に対抗するように、空もまた唸りだした。

 凄まじい霊力を流された網は瞬く間に灼熱し、『裏側』から浮上する泡は触れた瞬間弾け散る。そこでも、かしこでも。逃れ出る泡はなくなったが、代わりに表裏の境は激しく波打ち、まさしく嵐の海のごとく荒れてゆく。


「《すべてを灼き尽くし(アグラ・エィ・ハルヴァ) 天に還さん(アヴィ・アスマーン)》!」


 カスヴァの声とユウェインの声、エトラムの魂を載せた叫びが響く。同時に数十の雷が地を貫いた。

 もはや音でさえない衝撃が襲いかかる。カスヴァは己が打ち倒されて消し飛んだ、と感じた。だが数拍して我に返ると、彼はちゃんと同じ場所に立っており、横でユウェインが笑っていた。


 目に映るのは一面の炎。

 丘の上、木柵で囲まれた領域だけを残して、チェルニュクは業火に呑まれていた。ただの火事ではない。炎は生き物のように明らかな意志をもって躍り、裏側からの侵食を叩き潰し、焼灼し、浄化している。

 カスヴァは呆然とそれを見ていることしかできなかった。


 消えて行く。何もかも。子供時代の思い出も、緑の牧場も、豊かな実りをもたらしてくれた畑も。川も池も既に干上がり、葦の原も灰になり。

 すべて死んだ。置き去りにされた家畜たち、カスヴァの髪をむしろうとした山羊も。

 感情も思考も麻痺してしまい、彼は瞬きも忘れて立ち尽くしていた。

 悪魔が笑う。狂ったように、いつまでも、いつまでも……




 夜空を焦がす業火はノヴァルクからでも見えた。

 突然の避難民に当惑していた領主と兵士らは、東の空が赤く瞬いているのを発見し、本当に天変地異が起きたのだと悟って慄いた。


 ひとまず大聖堂に収容されていたチェルニュクの村人たちも、騒ぎに気付くと広場に出て行き、故郷の方角を見上げて涙した。手を組み、膝をつき、あるいは平伏までして嘆き祈る。

 どうか我らの殿様と司祭様が無事でありますように、主よお守りください、災厄の手がここまで届きませんように……。


 オドヴァは両足を踏ん張って立ったまま、うつむいて震え、組んだ手を額に押し当てていた。食いしばった歯の間から、父上、と微かな声が漏れる。

 人々のそんな様子を見渡して、エリアスはぐっと顎を引いた。オドヴァの肩に力強く手を置き、驚いて顔を上げた少年に対して告げる。


「私が行ってこよう」

「――っ! でも、司祭様」

「私は浄化特使だ。どんな災厄が待ち受けていようとも、むざむざやられはしない。彼らに加勢できるか、それとも見届けることしかできないかは、主の御心次第だが、いずれにせよ何かしら助けにはなれるだろう」


 それが正しい選択なのか、本当はどうしたいのか、自分でもわからないままエリアスは言った。

 あの『泡』を消す方法など知らないし、チェルニュクまで無事に進めるかどうかも怪しい。だがとにかく、このままここに留まって司祭ユウェインの代役を務めるという選択だけは、間違っているという確信があった。

(私は悪魔を滅ぼすために在る)

 何も知らない村人たちを慰めることは、己の領分ではない。戦いこそが使命なのだ。

 エリアスの表情から何を汲み取ったか、オドヴァはぐっと涙を飲み込んで厳しい面持ちになった。


「……父上を、お願いします」

「任された」


 エリアスは微かに笑みを浮かべて応じると、最後に少年に祝福を授けてから、すぐさま教会の馬を借りて東へと発った。

 ただでさえ夜中、しかもあかあかと燃える空の方へ向かうのを馬は嫌がったが、放免してやるわけにはいかない。無理を強いて先へ進む。


 エリアスにはいわゆる霊感はなかったが、特使として培った勘が、行く手に待つ危険を最大級に警告していた。おまえには何もできないぞ、何の手だても持たないのだから引き返せ、と。

(そんなことはわかっている)

 歯を食いしばり、さらに前へ。炎の気配が近付く。まだ村は遠いにもかかわらず、額に汗がにじみ始めた。


 とうとう馬が動かなくなった。首を振って嫌がり、その場で足踏みばかりする。

「頼む、もう少し行ってくれ。もう少しでいいから」

 なだめ励ましたが、しまいに棹立ちになって前足で空を掻き、乗り手を振り落とそうとする始末。エリアスは舌打ちすると、諦めて鞍から滑り降りた。荷物を外して自分で背負い、馬の首を西へ――元来た方へ向けてやる。すんなり従った馬に苦笑し、仕方ないな、とため息をついた。

「わかった、おまえは家に帰れ。道草を食うなよ」

 言って尻を叩いてやると、馬は未練も迷いもなくさっさと走り出した。


 落胆している時間はない。彼は東に向き直り、自分の足で先を急いだ。

 次第に東の空から赤みが消えてゆく。背後で夜が息を吹き返したのもつかのま、気が付くとぼんやり世界が薄明るくなっていた。

 募る焦燥と裏腹に、道のりははかどらない。

 見覚えのある猟師小屋の前を通過し、ようやく村はずれに着いた時には、夜明けの光が変わり果てた村を照らしていた。


「……なん……だ、これは」

 エリアスは呆然と立ち尽くし、夢でも見ているのかと何度も瞬きする。

 そこには、何もなかった。

 家も畑も石垣も、それらの残骸さえもない。土地の起伏は均されて緩やかになり、灼熱の炎で熔融した地表が蒸気を立てている。その黒い土地へ近付くにつれて草は干からび変色し、数歩手前からはもう、焼けた土と灰しかない。

 遠くに、領主館のある丘だけがぽつんと見えた。


 あそこに悪魔がいる。

 エリアスは直感したが、そこまで辿り着けそうになかった。試みに手近な草をちぎって投げると、黒い地面に触れた端から燃え上がって灰になったのだ。

 じっくり見渡してみたが、歩けそうな場所はない。


「『泡』は防げたようだが……」


 球形に抉れた痕跡がないので、恐らくそういうことだろう。惨状はともかく、この土地がきちんと世界につながって存在しているのだから、成功したのに違いない。

 だが、それを成した者たちは無事なのか。


(ここまで来ておきながら)


 悔しさに歯噛みしながら、丘の影を睨む。

 そちらに気を取られていたせいで、背後の気配に反応するのが遅れた。


「――!」


 とっさに身を捻ってかわしたが、鋭い一撃が背中を掠めた。焼かれたような熱を感じ、遅れて痛みが生じる。

 エリアスは身体の悲鳴を無視して剣を抜き、続く攻撃を跳ね返した。顔を狙って急降下してきた烏がギャアッとひどい声を上げて落ちる。その間にもう、最初の烏が再び舞い上がって襲ってきた。

 神銀の一閃が黒い影を続けてふたつ、斬り捨てる。


「外道が、こんな時に」


 くそ、と口の中で毒づく。恐らく『泡』のおまけのようなものだろう。小さい外道がたくさん出るような場所は危ない、とあの悪魔憑きは言っていた。すなわち外道は、霊力の乱れの指標めいたものなのだ。


 灼熱の土地に背を向けて迎え撃つ。まるでエリアスがこの惨状を引き起こした罪人だと責めるかのように、次々と黒い霧をまとった生き物が集まってきた。ツグミやコマドリのような小鳥、兎、ネズミ……一匹一匹はさしたる脅威でなくとも、きりがない。

 まとめて撃ち落とそうと、エリアスは指を突き出して唱えた。


「《翔けよ隼(アヤ・シャハル)》!」


 刹那、銀環が軋んだ。実際にどうにかなったわけではない――はずだ――が、いつもなら抵抗なく流れる霊力がうまく働かない。

 ぎくりとして集中が途切れ、銀光の矢は藁屑のように力無く四散する。それでも何匹かの外道を落とせたのは幸運だった。


 少しだけ余裕ができて、エリアスは体勢を立て直し、息を整える。だが。

(どれだけ湧いてくるんだ、こいつらは)

 すべてを片付けられるのか、生きて切り抜けられるのか、まるで望みは持てなかった。


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