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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第一部 主の御手が届かないなら
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3-2 イスクリの悪魔憑き

   ※ ※ ※


 悠々たるクラヴァ川を左手に見ながら街道を北へ向かうと、やがて山並みが姿をあらわす。川は山の西側をまっすぐ北へ流れてゆくが、道はそこで東に折れてロサルカ中央へ向かう。ちょうどその角、山の麓に、イスクリの町はあった。


 牧草地になっている緑の斜面を背にした、小規模ながらも賑わいのある町。周囲には石垣がぐるりと築かれている。その手前で細いヴォネ川が東から西へと走ってクラヴァ川に注いでおり、南からの旅人たちは橋を渡って町へ入った。

 曲がりくねって起伏の多い街路は石畳で舗装されており、所狭しと建ち並ぶ家は漆喰壁に薄石板や素焼き瓦の屋根を載せている。どの建物も古びているが、常に新しい住人が手入れしている様子が見て取れた。


「活気のある町ですね」


 エリアスがさりげなく周囲を観察しながら感想を述べた。そこかしこの家から機織りの音が聞こえる。染色工房もあれば、香ばしい熱気の漂うパン屋もあり、いかにもまともな町らしい。リブニ村を早朝に発ったので太陽はほぼ真上にあり、明るい陽射しに照らされた街並みはことさらに楽しげな印象だ。グラジェフはうむとうなずいた。


「聖都ほどの大都会でなくとも、せめてこのぐらい賑やかな町が増えれば良いのだが。魔のものに怯え縮こまる必要もなく、皆が衣食足りて豊かに暮らせたなら、主を敬い、互いを思いやる心も育まれように」

「豊かに暮らして堕落した結果が、いにしえの大罪なのでは?」

 エリアスが素っ気なく指摘した。グラジェフは苦笑し、どう諭すかと思案する。


(大きな館で使用人にかしずかれ、食うに困ることもなく育ったものだから、貧しくとも心を清く保てると信じているのだろうがな。そう甘くはないぞ)


 彼自身、田舎村で過ごしたのは子供時代だけだから、生々しい大人の事情まで理解していたわけではない。それでも、人の悪意というものを感じ取るには充分だった。

 隣人が幸運に恵まれたら憎々しげに陰口を叩き妬む。自分の畑が豊作の年に、憎い相手の畑が病害虫にやられたら笑いが止まらないし、我が身に不幸があったなら隣家の祝い事も台無しになれと呪う。貧しく惨めだからこそ、他人をより底辺に貶めようとするのだ。


「……豊かでも貧しくても、変わらず清廉である者は少ない。常によこしまである者がわずかであるのと同様にな。多くの者は、状況と必要に応じて他人を蹴落としもすれば、助け合いもする。ならば大勢が行儀よく振る舞える環境であるほうが、邪悪に付け入られる隙も少なくなるというものではないかね」


 そもそも、貧しく素朴で善良な民、というのは富める者に都合の良い幻想、欺瞞だ。境遇の不満を自覚し暴徒となり、持てる者を引きずり下ろし汚泥に沈める、それだけの知恵も力も彼らにはない、と思い込んでいたいから。社会の構造は変わらず上と下が入れ替わることなどないのだと。

 だがそんな彼の思索も経験論も、若い心には響かぬものらしい。


「どうあれ、我々のつとめは変わりません。魔を滅するのみです」

 関係ない、とばかりにエリアスは切り捨ててくれた。グラジェフはそれを危ぶみ、かつ羨みもした。

「そうだな」

 ふ、と笑みをこぼして同意する。かつては彼自身もこの若者のように迷いなく一途であったのだ。使命感と意志は研ぎ澄まされ鋭かった。

(切れるうちにせいぜい働いてもらわねば)

 自嘲と皮肉を込めて考え、グラジェフは口をつぐんだ。浄化の役目にはよく切れる刃が必要だ。使い古されてなまくらになった者が余計なことを言うものではない。


 黙って歩みを進め、ほどなく二人は町の中心に出た。子供たちの楽しげな声が響く広場に面して、目指す教会が建っていた。

 礼拝堂と司祭館が別棟になっている立派な構えだが、随分古びて手入れも行き届いていないようだ。漆喰塗りの壁は風雨に晒されて黒ずみ、礼拝堂の扉にはささやかな花飾りが架けられていたが、乾ききって色褪せ崩れたまま放置されている。敷地にも雑草が伸び放題。


(どうやらあまり勤勉な司祭ではないらしい)

 グラジェフは評定を下しつつ、まずは礼拝堂で円環と聖御子に祈りを捧げた。会衆席で祈りを捧げていた数人の住民が、物珍しげな目をちらちらと向けてくる。外套の下の銀環は見えずとも剣はわかるから、何者かと不審がっているのだろう。

 グラジェフは彼らと目を合わせることもせず、無言のまま礼拝堂を後にして司祭館に向かった。


 出迎えた中年の司祭は、穏和そうな物腰でしきりに恐縮しながら二人を中へ案内した。黒い髪と髭は見苦しくないよう整え、規定の簡素な長衣姿ながら、帯紐にやや贅沢なものを使ってささやかなお洒落をしている。

 礼拝堂まわりの様子と同じくぼさぼさで薄汚い司祭だったらどうしようかと思っていたグラジェフは、内心ほっとした。飾り立てろとは言わないが、土地の司祭は住民の敬意を受けられる程度に整容を保つべきだ。


「ああ失礼、まさかお二人もおいで下さるとは。ひとまずこちらに」

 一応いつでも特使を応接できるよう準備はしていたようだが、二人連れとは予想外だったのだろう。椅子二脚では足りず、壁際にあった腰掛けからごちゃごちゃした物をどかして取ってくると、質素なテーブルに杯を並べて葡萄酒を注いだ。

 三人はそれぞれ主を称え飲み干し、挨拶に入る。


「司祭ジアラスにございます。この度は要請に応じてかほど迅速にお越し下さり、感謝に堪えません」

 銀環に手を添えて恭しく頭を下げたジアラスに、グラジェフとエリアスも同様の礼を返す。

「私はグラジェフ。こちらの若者はエリアス、一月余り前に叙階されたばかりです。今は見極めの期間でしてな」

「ああ、さようでしたか! ずいぶんお若い方だとお見受けしましたが……さぞや優秀でいらっしゃるのでしょうね」


 ジアラスが愛想良く世辞を言ったが、エリアスは黙って目礼しただけだった。下手に会話をつなげて今おいくつですかと年齢を訊かれたりすれば、普通より五年は早い叙階に驚かれ、さらに事情を詮索されかねない。

 素っ気ない反応にジアラスが鼻白む。グラジェフはごほんと咳払いした。


「早速ですが、詳しい話をお聞かせ願えますかな。悪魔憑きの疑いありとの報でしたが」

「あ、ええ、はい。とんだ失礼を」

 ジアラスは機嫌を損ねたかとあたふたする。ひとまず整理しようと宙に目をやり、しばし黙考したのち、ためらいながら切り出した。


「悪魔憑きではないかと疑われるのは、山手に住んでいる女性です。名前はダンカ。半年ほど前に、幼い一人娘を亡くしましてね。以来ちょっと、その……ええ……」

「ふさぎこんでいる? それとも、理性を欠く言動が?」

 口ごもったきり続きが出てこないのを見かね、グラジェフは助け船を出す。婉曲な表現を得て安堵したように、町の司祭はうなずいた。


「後者です。葬儀の時もあまりに悲嘆が激しすぎたもので、まともに式を進められないほどでした。その後もしばらく泣き暮らしていたらしく、母親のほうがひどくやつれた様子で、しばしば相談に来ましてね。なんとかしてやりたいとは思ったのですが、とても他人が近付けるさまではありませんでした。深い傷を癒やせるのは時だけですな。さすがに二月もする頃にはやや落ち着いてきましたが、得意の機織りも家事もしないという話で。一度だけダンカ一人で教会を訪ねてきて、少し話をしましたが……それきりです。山を下りず、礼拝にも出ず」


 ジアラスは嘆息して首を振った。ふむ、とグラジェフは腕組みし、続きを待った。

 単に教会に寄りつこうとしない、というだけなら不信心なだけで悪魔憑きとまでは言えない。無言の催促を受けて、ジアラスはやや後ろめたそうな表情になって続けた。口調もいまいち歯切れが悪くなる。


「母親のほうはずっと頻繁に祈りに来ていたのですが、次第にその回数が減って、年が明けてからは普通に礼拝に出るだけになりました。やっとおさまったのだろうと安心したのですが、やはりダンカ本人は礼拝に来ませんでね。そうこうする内に、様子が変わってきました。その……お恥ずかしい話なのですが、私の与り知らぬところで、彼女が『おまじない』を一部の者に教えていたようなのです」

「ほう」


 グラジェフは腕組みを解いて身を乗り出し、エリアスもぴりっと緊張した。浄化特使二人を前に、ジアラスは自分こそが断罪される身であるかのように、視線を泳がせる。


「私もその、一人で町の全員に目配りできるわけではありませんので、誰も知らせに来なければさすがに気付きようがなくて」

「まじないとは、どんなものですかな。他の誰か、たとえば産婆などから聞いたものではないと?」

 グラジェフは言い訳を遮り、本筋に引き戻した。


 今の世には、教会が認めない、ただし悪魔のわざとして禁じているわけでもない『まじない』も細々と存在している。その担い手は女たちだ。女は司祭になれないが、出産は男の立ち入れぬ領分である。よって独自の知識を受け継いだ産婆たちが、村や町のまじない師として力をふるうのだ。

 幅広く豊富な知識を常に検証しつつ守り伝えているのは、現状ほぼ教会だけなのだが、一般人にしてみれば、効きさえすれば正しいか正しくないかはさほど問題ではない。ちょっとした傷薬や軽いまじないを処方してもらうだけなら、おおむね産婆のほうを頼る。なにしろ教会は《聖き道》を逸れた人間には手厳しいのだ。説教されてはかなわない。


「産婆のまじないではありません。いや、一部はそうかもしれませんが……聞いたところダンカは、消化不良に効く薬草だとか、子供の癇癪を鎮めるまじないだとかも、同じ山手の住民に教えたらしいので。しかし私が疑いを抱いたのは、街の子供が意味も知らず口ずさんでいた言葉を耳にしたからです」

 ジアラスはそこまで言い、気を落ち着かせるようにひとつ深呼吸した。首にかけた細鎖を外して銀環をテーブルに置くと、舌で唇を湿してささやく。


「ニフル、ラウタ」

 無意味な音の連なりが、銀環を震わせる。グラジェフは息を飲んだ。ジアラスは暗い目つきで特使の理解を肯定し、銀環を取って身に着けた。

「我々司祭しか知らないはずの、《力のことば》です。冷えよ、流れよ、とね。その子はこの二語だけを繰り返していました。なぜ知っているかと質してみれば、熱冷ましのまじないに親が唱えていたと言うのですよ。枕元で繰り返されるのをずっと聞いていたから耳に残っているのだと。もろんすぐその子の親を捕まえて、誰から教わったのかと尋ねました」

「ダンカだった」

「そうです。その言葉をみだりに唱えてはならぬ、何の効果もないどころか悪魔に目をつけられるぞ、ときつく戒めておきましたが……」


 地元司祭は日常言語で記された聖典中の聖句を唱えて銀環を巡らせ、祝福や清めの効果を得る。禁忌の知識である《力のことば》を、一般人になるべく聞かせないためだ。触媒がなければ唱えても効果は現れないとはいえ、覚えられてしまうといささか不穏である。

 だが聖句では決まった型しかなく、臨機応変に術を組み立てることは出来ない。よって特使は《力のことば》を頻繁かつ自在に用い、地元司祭もやむを得ない場合は使用する。


「私はもう何年も、聖句だけでつとめをこなして来ました。ダンカが聞いて覚える機会はなかったはずです」

 はあ、とジアラスはため息をついて眉間を揉んだ。グラジェフも険しい面持ちになり、低く唸る。偶然ではあり得ない。間違いなく悪魔のしわざだ。

 女の家を訪ねると約束し、道を教わってから、二人の浄化特使は教会を後にした。


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