1-4 人間らしさ
館の前ではオドヴァがツィリを相手に剣術稽古をしながら、父の帰りを待っていた。
あまり友好的とは言えない雰囲気で木柵の門をくぐったカスヴァは、息子が顔をこわばらせているのに気付き、思わず失笑した。隣のエリアスに素早くささやく。
「すまない、子供たちの前では休戦してくれ。余計な心配をさせたくない」
自身は既に教会と司祭に不信しかないとしても、子供らにはまだ早すぎる。
彼の配慮に対し、エリアスは困ったように眉をひそめた。瞬き数回の後、いわく。
「あまり……愛想良く振る舞うのは、得意でないのだが」
「……だろうな。にこやかな対応までは求めないさ」
カスヴァは笑うに笑えず曖昧な顔で言い置くと、大股で我が子に歩み寄ってくしゃりと頭を撫でた。
「良い子で待っていたようだな。よし、じゃあ司祭様にきちんと挨拶しなさい。ツィリも」
少年ふたりを手招きし、エリアスの前まで連れて行くと、自慢げに引き合わせる。
「特使殿、これが息子のオドヴァ、こっちは家令の息子ツィリだ」
少年たちが「はじめまして」ときちんと頭を下げたのを確かめてから、カスヴァは司祭を紹介した。
「では二人とも。こちらは特使エリアス殿だ。恐ろしい悪魔や外道をたくさん倒してきた立派な司祭様だから、失礼のないようにな」
途端に二対の目が丸くなり、尊敬と憧れに輝く。エリアスはいたたまれない様子で身じろぎし、取って付けたようにお決まりの「主の祝福がありますように」を唱えた。その聖句が終わるより早く、二人の少年は青年司祭に駆け寄って口々に質問する。
「すごい、どんな悪魔を倒したんですか?」
「格好いい……この剣が浄化特使のしるしなんですね。僕も頑張れば教会に認めてもらえますか?」
父親を殺しに来た悪魔だとか決めつけたのも、どこへやら。怖いと感じたことこそ強さの証だったか、と解釈を修正したらしく、すっかり見る目が変わっている。
たじろいでいたエリアスも面映ゆそうな気配を浮かべ、穏やかに答えてやった。
「司祭の中でも特別な訓練を受けた者だけが、この剣を授けられる。残念ながら、強くなれば手に入るものではないんだ。そうがっかりすることはない、司祭に清められた剣であれば外道と戦うことはできるのだから。だが、出くわさないのが一番だ」
そんな風に子供の相手をしている様子からは、彼もまた普通の人間であると感じられた。無慈悲に冷酷に断罪する浄化特使である以前に、血の通った、情のある人間だと。カスヴァは目を細めた。
初対面から厳しい言動が多かったのは、グラジェフの死を追及しようと“敵地”に乗り込んで来たがゆえなのだろう。そうでなければ彼もこうして、司祭として無垢な信徒に親切な振る舞いができるのだ。
ふと風がそよぎ、館のほうから温かくほの甘い香りが漂ってくる。それを追うように、中からクヴェタが出てきて呼ばわった。
「若様! もうじきお昼の用意が……」
途中で領主も帰っていることに気づき、大声を飲み込む。慌ててぱたぱたとカスヴァの前へ走り出ると、ぺこりとひとつお辞儀をしてから、気恥ずかしそうに普通の声で言った。
「お帰りなさいませ、殿様。あの、じきに昼食が調いますけど、お客様もご一緒ですよね? 司祭様はお戻りじゃないんですか」
「ああ、ユウェインは途中で捕まってな。畑を見に行ってる。じきに戻るだろうから、しばらく待ってやってくれ。先に少し客人に見せたいものもあるし。そうだ、客室は使える状態かな」
「はい、オレク様の指示でご用意しております。あ、お荷物は手を触れず、そのまま」
はきはきとした返事に、カスヴァは「そうか」とやや決まり悪げに顎を掻く。浄化特使相手に何をどう話すか考えるのに必死で、後の指示もせず行ってくるとだけ告げて出かけた自分がいかにも無能に思われた。
普段の昼食は、火にかけっぱなしの大鍋に水と具材を追加する程度だから、できたらすぐに配膳して食べねば、というようなものでもない。待たせておいて問題ないので、カスヴァは子供らをクヴェタに任せ、エリアスを促して館の女主人部屋へと案内した。
「今のうちに手紙を見てくれ。どうせユウェインが戻るまで昼食にできないから」
彼の説明に、エリアスはやや当惑の色を見せた。忙しい昼時なのに全員が必ず揃わなければならないなんて、不合理な習慣だとでも思ったらしい。
「食前の祈りぐらいなら、代行しても良いが」
「ああいや、決まり事というより、単にあいつの食い意地が張っているからで……あいつ抜きで先に食べてしまうと拗ねるんだ」
カスヴァは苦笑いで教えた。用事で帰れない時は仕方がないが、ちょっと姿が見当たらないぐらいで探さず待たずに食事を始めてしまうと、僕も皆と一緒に熱々のを食べたかったなぁ、だとかいじけるのだ。
聞いたエリアスは露骨に呆れ顔をした。無理もない。カスヴァは手紙の束を取り出しながら、弁護だか追い討ちだかわからない言葉を続ける。
「噛みしめて味わって腹を満たせるのは生きている喜び、なんだそうだ。一度、懐かしの平パンが食べたい、とかトチ狂ったことを言い出して、そのために昔の窯を発掘するはめになった。俺は悪魔憑きをほかに知らないが、あいつは万事そんな調子だよ。大層な二つ名を聞いて畏れ入るよりも、笑ってしまうような」
「だから無害だ、と?」
「それは俺が決められることじゃない」
カスヴァは逃げを打ち、手紙をエリアスに渡した。
「モーウェンナはあいつを疑っていた。その……あいつを嫌う別の事情もあったし、前任の司祭とユウェインがあまりにも違いすぎた、というのが大きな理由だと思う。思うが、しかし……何かしら危うい兆候はあるのかもしれない」
簡便な告解、惜しみなく与える知識、新しい見地の提示。それらは皆、悪魔が憑く前からユウェイン自身が考えていたことだ、とエトラムは言う。嘘か真かわからないし、本当だとしても程度の問題があるだろう。
油断召さるな――と警告されるまでもなく、一年この方ずっとカスヴァは自問してきた。果たして見過ごして良いのか、安全なのかと。
(この浄化特使は、一族を悪魔に殺されたと言った。彼のほうが悪魔について詳しいのは間違いない)
手紙を一通一通あらためる厳しい横顔を盗み見て、カスヴァは唇を噛む。
相手の言い分がすべて正しいわけではないだろう。彼の仇の悪魔と同じようにエトラムがこの村を滅ぼすつもりなら、いくらでも機会はあったはずだ。しかし、だから無害で善良だ、と言い切れないのも事実。数々の小さな引っかかりだけでなく、ひとつの鮮明な記憶のせいで。
笑い声が耳によみがえり、カスヴァはぎゅっと目を瞑った。噴き上がる炎、狂気じみた光にぎらつく双眸。
――ああ、素晴らしいね!
縛めがちぎれ飛んだような笑いの正体は何だったのだろう。追い詰められ生死の瀬戸際にいたあの瞬間、カスヴァ自身もいささか正気を失していた自覚がある。だからユウェインが壊れたように笑ったのも、あの場では何ら不自然ではなかった。
時を置いて思い返すほどに、ぞくりと背筋が冷えるのだ。あの時自分は、取り返しのつかないことをしたのではないか、と。
「これを見る限り」
不意にエリアスが声を発し、カスヴァは物思いから醒めた。
「奥方は最後まで司祭ユウェインを名指しで告発はしなかったようだ。貴殿らにとっては幸いしたな。しかし……明らかに悪魔の存在を知らされ、あまつさえ素人の奥方が独断で『悪魔祓い』を実行しかねない状況だったというのに、危機感の欠片もないこの対応。弛んでいるにもほどがある」
憤慨ごもっともだが、カスヴァは別のことに気を取られて口を開いた。
「もしかしてその声、病ではなく悪魔に?」
唐突な問いかけに、エリアスは虚を突かれたか、つかのま表情を消した。そして、ああ、と低く答える。
「毒を飲まされて死にかけた。意識が戻ってもしばらくは息をするのが精一杯で、やっと声が出た時にはこのざまだ。私は復讐のために浄化特使を目指した。特例措置で典礼の補助などの課程を免除され、とにかく悪魔を殺すだけの司祭になった。だから私は礼拝を執り行う資格がない。もっとも、この声で説教したところで恐ろしいばかりで、主と聖御子の威光を翳らせてしまうだろうがな」
自虐的に言って鼻を鳴らす。だがその横顔に遺憾の気配はない。己の役目をきっぱりと割り切って、それで良しと納得している者の強さだろう。彼は皮肉な苦笑を閃かせ、意外な一言を添えた。
「悪魔の説教のほうがよほど魅力的に聞こえるというものだ。あれほどの霊力ではな」
「……えっ? それは、つまり」
カスヴァは戸惑い、中途半端に聞き返す。エリアスは軽く肩を竦めた。
「看破の術をかけていては眩しくて正視できないほどだ。なんら特殊な技能や感覚を持たない一般人でも、彼の礼拝に出れば恍惚とするだろう。……気付いていなかったのか」
自明のこととばかりに言われ、カスヴァは愕然と首を振った。では、礼拝堂で何度もユウェインが美しく見えたのも、神の祝福を感じたのも、司祭の説教に込められた慈愛が胸を打ったのも。何もかも全部、
「まやかしだった……?」
奇蹟でもなく、善性の顕現でもなく。ただ大悪魔であるがゆえに。
カスヴァは衝撃のあまり放心した。そんな今さらの反応を受け、エリアスが眉を上げて呆れる。
「お気楽だな、貴殿は。ああいや、私が責める筋合いではないか。すまない。私も本物の大悪魔に接するのは初めてで、ああまで強烈だとは想像していなかった」
せっかくの気遣いも、カスヴァの耳を素通りしていった。全身から血の気が引いていく。
折々に感じてきたあれらの『美しさ』こそ、彼を信じる拠り所だったのに。彼は優しく善良な心を持っている、教会に不満があろうと神に対する信心は本物で、まっとうな司祭なのだと……敬虔な祈りの姿に心動かされもしたのに。
全部、嘘っぱちだったのか。
カスヴァは堪らず、両手で顔を覆った。深く息を吐き、てのひらで目頭を押さえつける。どこからどこまでが演技なのだろうか。彼が己の魅力を自覚していない、という可能性は? それとも自然な態度に見せかけて、密かにカスヴァや村人たちの心を手に入れ、骨抜きにした?
(いや……いや、落ち着け。確かにあいつが司祭のつとめを果たす時、それを信じて安心する場面は多い。村の皆も欠かさず礼拝に来るようになったが、それはあいつの祝福に実際の効果があったからかもしれない。未だに時々、泣き虫小僧扱いだってされてるじゃないか。あいつ……エトラムが、大悪魔ゆえの影響力を自覚し利用していたら、崇拝者ばかりになっていてもおかしくないが、そうはなっていない)
畜生、と口の中で毒づいて、カスヴァは顔を上げた。信じたり疑ったり、かつての幼馴染みと再会してからというもの、心が定まらなくて疲れるばかりだ。いっそ眼前の浄化特使のように、きっぱり悪魔は邪悪と断じて切り捨ててしまえたら楽だろうに。
「どうして」問いが口をついた。「そんなにも断言できる? 悪魔が元は人間だったのなら、善良な悪魔だっていてもおかしくないだろう。あなたがこれまで遭遇した悪魔がすべて邪悪であったとしても、次は違うかもしれない。実際に善行をなしているものを、邪悪で殺すべきだと決めつけられるのは、どうしてなんだ」
難詰ではなく教えを乞うているのは、相手にも伝わった。エリアスはじっとカスヴァを見つめ、感情の読めない静かな面持ちで、淡々と答えた。
「残忍な人殺しが、自分の気に入った一人だけに対しては慈愛を注ぎ優しくふるまったとして、その化けの皮が一生剥がれなかったとして、ならばその人殺しは善良か? 悪魔とはそのようなものだ。元が人間だったのなら、と貴殿は言うが、だからこそ考えてみるがいい。人の世で生きていくのに付きものの『面倒な義理や損得』に縛られず、もはや死後を恐れぬがゆえに教会の規範も関係なく、肉体の死を本当の死として捉えられない。いっさいの価値基準に、暮らす土地や時間にさえも縛られない、そんな人間が果たしていつまで人間らしくいられるものかを」




