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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第一部 主の御手が届かないなら
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3-1 夢

   三章



 ――ほら、ご覧。きれいだろう……


 青年がそっと手を開くと、美しい色とりどりの蝶がふわりと舞い上がった。光に透ける羽は薄く儚く、息を吹きかけただけでふるりと揺れて溶け消える。

 光のいたずら、まぼろしの花。なんて素敵な。

 見惚れている少女に、青年がささやく。秘密だよ。ふたりだけの秘密……


 始まりはそんなささやかでたわいないことだったのだ。

 歳の離れた親類の青年が見せてくれる、美しいもの。内緒でこっそり教えてくれる星の名前、星座にあらわれた季節の秘密。思えばあれらはすべて、教会で禁忌とされている事柄だった。一般に知らされている暦の範疇を越えた、高度な天文学と神秘の霊力にかかわる知識。


 ――エリシュカ。おいで、もっと見せてあげるよ。だから……




 差し招く手が闇の中へ消え、代わりに鈍い光が意識を照らした。唸って目を開けたエリアスは、みしみし軋む身体を慎重に動かして起き上がる。

 左右の脚をベンチの両側に下ろしてまたがり、はあ、とため息をついた。以前ならば決して許されなかった、はしたない座り方。ぼんやりと宙を見上げたまま、彼は夢の余韻が消えていくのを待った。


 親戚の青年アレシュは、取り立てて意地悪でも強欲でもない、ごく普通の人物だった。

 危険な遊びが好きだとか、陰にこもった性格でいかにも禁忌を犯しそうというならともかく、いったい何がきっかけで悪魔に囚われたのか今もって腑に落ちない。

 本家の娘の前で秘密の知識やわざを披露し、優位を示したかったのか。単純に気を惹きたかったのか。あちらの両親に何か吹き込まれたのか。


 最初、エリシュカは彼が秘伝の書物でも手に入れて、その内容を修めたのかと思っていた。あるいはこっそり司祭のわざを手ほどきされたのかと。悪魔と契約し魔道に手を染めたなど、考えもしなかった。

 なぜなら彼は邪悪どころか、まるで『より良い人間』になろうと決意したかのように親切になり、与えてくれるものはどれも素晴らしく美しかったのだから。


 エリシュカは格別敬虔な信徒というわけではなかったし、礼拝の度に聞かされる説教も、悪魔の手口について詳しく教えたりしなかった。

 《聖き道》を歩め、傲慢や怠惰に屈するな、嫉妬や欲に目をくらまされるな……そうした道徳は幼少時から刷り込まれていたが、ならば具体的にどうすべきなのか、何が危険なのか、そうした話は曖昧でしかなく、悪魔に騙された村人の昔話も他人事でしかなかった。

 もし、もっと早くに気付けていたなら。甘く美しい秘密の虜になる前に、教会へ知らせていたなら。


(もう遅い。何もかも灰になった)


 重い身体を叱咤して立ち上がり、外の井戸へ顔を洗いに行く。朝靄が漂う広場を猫が一匹、悠然と歩いていた。エリアスの胸がずきりと痛む。

 館が焼け落ちたあの日、可愛がっていた飼い猫も死んだ。父母や弟、使用人たちの死に対しては感情を凍らせておけるようになったが、猫だけはどうしても駄目だ。

 彼はぐっと歯を食いしばって釣瓶を引き上げ、清澄な水で顔を洗った。


 腹立たしいのは、夢に見るアレシュがいつも、一番優しかった頃の姿をしていることだ。次第に常軌を逸した振る舞いを始め、親族の間に不和の火の粉を飛ばして火勢を煽り、さあどうぞと毒や呪いを差し出した、邪悪な魔道士の姿ではない。

 束の間でも甘い幸福の残滓を味わいたい、という未練が見せる夢なのだろうか。今はもうはっきりと理解しているのに――邪悪さをあらわにして近付く悪魔などいない、と。優しい魅力で人を籠絡するのが悪魔のやり口なのだから、あの記憶も忌まわしいものであるはずだと、心底わかっているはずなのに。


(殺してやる。一匹残らず)

 悪魔という悪魔をこの世から消し去ってやる。


 彼は己の弱さを握り潰すように拳を固めた。そのはずみに、腕にかけたままだった飾り紐のことを思い出し、外して気休め程度に洗った。

 リブニ村の住民で行方知れずの者はいないことは、昨日のうちにヴィレム司祭に確かめてある。この村よりもイスクリの方が毛織物産業に力を入れているので、こうした組み紐も作られているかもしれない。


(不運なのか幸運なのかわからないな)


 行き倒れた男について、エリアスは皮肉なことを考えた。

 何が原因か知らないが路上で頓死したのは不運にほかならないが、それが主街道のほうであったなら、今頃はあの狐の外道に魂を食われていただろう。安らかな眠りを与えられたと言うのはいささか強引だが、少なくとも、飢えと狂気の餌食にならず霊界に行けたのだから、まだしも幸いだ。


 紐を元通り腕にかけ、うんと伸びをすると、彼は教会に戻って円環と聖御子に祈りを捧げた。

「主よ守りたまえ。この手に力を与えたまえ、邪悪を滅ぼし地上を浄化せしめたまえ」

 つぶやく言葉は謙虚だが、心は硬く冷え、こいねがうのでなくただ要求する。祈る相手が何の助けも与えてくれないと知っているからだ。神がすべてをみそなわすなら、なぜアレシュが悪魔にそそのかされるがままにされたのか。なぜ一族が殺し合うにまかせ、館が焼け落ちるまで放っておかれたのか。

 だから彼は、神に祈りながらも救いは期待していない。ただ神に仕える司祭になれば、魔を滅する力を得られるから……それだけだ。


 背後で扉の開く音がして、耳に馴染んだ足音が近付く。隣にグラジェフが並び、同じくひざまずいて祈りを捧げた。

 静かなひとときが過ぎ、やがて二人はどちらからともなく立ち上がった。


「ヴィレム殿から出発前に村の清めを頼まれた。朝食が済んだら私の分も荷造りをしておいてくれ」

「はい」

 エリアスはいつものように淡泊に答えた。荷造りと言ってもほとんどすることはない。グラジェフは経験ゆえか性分なのか、いつでも鞄ひとつ掴んで出発できるように整えている。せいぜい水筒の中身を入れ替え、新しい堅パンや干し肉などの携帯食を調達する程度だ。

 エリアスが浄化以外の司祭のつとめをおこなえないとしても、魔除けの清めぐらいはできる。それを命じないのは、少しでも休んでいろという心遣いなのだろう。

 とはいえ。


「ほかに私が手伝えるご用はありませんか。お疲れのように見えます」

 つい言わずにはおれなかった。思いがけず昨日は昔話など聞いてしまい、揺るがぬ城塞のように仰いでいた先達にも数多(あまた)の傷があって、それだけ歳ふりているのだと気付いたものだから。

 だが当然グラジェフは、何を言うかとばかり眉を上げ、鼻を鳴らした。


「石鹸じみた顔色のそなたに案じられるとはな。それほど余裕があるなら結構、道行きもはかどるだろう」


 皮肉に言って、さっさと礼拝堂を出ていく。置き去りにされたエリアスは、石鹸、と不機嫌につぶやいてから、頭を振って後を追った。



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