終章
終章
後始末には十日ばかりかかった。
グラジェフを聖域に埋葬し、森を捜索してハヴェルとラデクの遺体を村へ運んで葬儀をおこない、ノヴァルクのザヤツに(むろん悪魔の関与を隠したまま)経緯を説明して。
そうして、悲しみと衝撃から人々がどうにか日常に戻る頃には、季節は秋になり、村を囲む森は炎と黄金に彩られていた。
霧のたゆたう早朝、カスヴァは池のほとりに立っていた。北から渡ってきた雁が、時折せつなげに鳴く。ややあって、予期した通り足音が近づいてきた。
「そこは危ないよ」
数歩離れたところで立ち止まり、ユウェインがやんわりと呼びかけた。カスヴァは振り向かず葦の間を睨んだまま、重く冷え冷えする声音で問うた。
「これだけは確かめなければと思っていた。おまえがモーウェンナを殺したのか」
やはりこの話か、というようにユウェインはそっとため息をついた。沈黙の向こうで、鳥が羽ばたき水音を立てる。
「……事故だったんだ」
ぽつりと答えた声は、今にも泣き出しそうだった。
夏の夜明け前、濃藍の空から届くわずかな光を靄が吸い込んでしまう中、モーウェンナは角灯の明かりを頼りに池へ急いでいた。
誰にも見られてはいけない。悪魔の弱みを探していると相手に知られたら、すべてがおしまいだ。
池で溺れた少年を見舞って話を聞き、漁師にも尋ねて、ユウェインが子供時代の品を持ち出したことは確かめていた。ひとまず在処の見当をつけ、回収するのはまた後日、明るい日中におこなえるよう準備を整えて……
計画を練りながら池へ急ぐ。水の気配が強まり、微風にそよぐ葦のささやきが聞こえてきた、その時だった。
《モー、そっちは危ない》
夜の奥底から、くぐもった声に呼ばれた。ぎょっとなって彼女は竦み、角灯を取り落とす。しまった、と悔いた瞬間には遅く、辺りは闇に閉ざされた。
「いよいよ身の危険を感じて、正体を顕したわね」
忌々しい悪魔に向かって、モーウェンナは負けるものかと唸り返す。風もないのに何かが頬をかすめて流れた。
《信じてくれと言っても無駄だろうけど、今、とても危ないところにいるのはわかっているだろう?》
声は後ろから、あるいは上、右から……あらゆる方向から聞こえ、それでいて源はどことも知れない。生温い闇に取り囲まれて足元の感覚すら怪しくなる。モーウェンナは耳を塞ぎ、下手に動くまいとしゃがみこんだ。悪魔の術中にはまってしまった不覚を悔い、主に祈り助けを乞う。
嘲笑うかのように、不意にガサリと大きな物音がした。魚が葦を揺らしたのか、野の獣か、あるいは悪魔のしもべか。
「……っ!」
恐怖に駆られ、彼女はよろけつつまた立ち上がった。うずくまっていたら、食い殺されるかも知れない。しもべを操ってこの身を引き裂き、あの悪魔は何食わぬ顔で狼のせいにして、わたしの葬式を執り行うのだ。
呼吸が浅くなり、冷や汗が額を濡らす。既に服は霧を吸って重く、身にまとわりついていた。思うように動けない。これも悪魔の計算だったのか。
《落ち着いて》
困惑した声音が届く。何を白々しい、とモーウェンナは歯を食いしばった。
《こっちにおいで》
ぽつん、と闇の向こうに仄かな光が灯った。反射的に彼女は後ずさり、遠ざかる。
《駄目だ! そっちじゃない、こっちへ》
声が焦る。同時に、闇がぬるりと動いてモーウェンナの腕を掴んだ。
「いやっ!」
悲鳴を上げ、モーウェンナは得体の知れない感触を振り払った。屈してはいけない、恐怖に囚われたら負ける、そうわかっているのに、あまりにも強烈なおぞましさに耐えきれず、足が勝手に走り出す。
《モー!》
懇願の声と共に闇が追ってくる。モーウェンナは必死でそれを払った。振り回す両腕に触れるのが悪魔の手なのか、岸辺の葦なのか、もう区別がつかない。
「退け、悪魔……っ!」
聖句を唱えた矢先、どぶん、と水に踏み込んだ。地面との落差に体勢を崩し、あっと思う間もなく倒れ込む。右も左も見えず、上下すらもわからなくなる。
《掴まれ! 早く!》
遠くの明かりを受けて、闇の輪郭が浮かび上がる。モーウェンナの傍らに立つ人影は、不完全ながらユウェインの姿をしていた。何か制約でもあるのか、不自由そうな動きで手を差し伸べているが、無理やりにも彼女を引き上げるだけの力はないらしい。
モーウェンナはなんとか岸に這い上がろうともがきながら、悪魔に水を浴びせかけた。案の定、影が怯んで下がる。
「騙されるものですか!」
暗闇の中で手がかり足がかりを探しながら、モーウェンナは挫けず抵抗した。あの手に縋ったら間違いなく、水に沈められる。押さえつけられて溺れ死ぬ。
《騙してない、本当に君を助けたいんだ》
「嘘つき!」
精神の限界に達し、彼女は金切り声で叫んだ。
「知ってるのよ、あなたがカスヴァにどんな目を向けているか! だからユルゲン様も、聖都へ行かせたのに! 戻ってくるなんて、よくも……! しかもカスヴァが駄目なら今度はオドヴァに、っ!」
喚いたせいで水を飲んでしまい、激しくむせる。
影は竦んだが、もはや問答無用とばかり身を乗り出してきた。モーウェンナが吼える。
「触るな、穢らわしい!!」
全力を振り絞った叫びは、強烈な一撃となってユウェインの魂を打ちのめした。人の姿を保てなくなり、崩れて闇に溶けていく。小さな明かりが揺れ、瞬いて消える。
あとはただ水音だけが暗闇に響き……やがて、静かになった。
「……助けようとしたんだ」
涙に揺れる声でつぶやき、ユウェインはうなだれる。カスヴァは愕然としたまま、言葉を失っていた。
ややあって、ユウェインが恐る恐る顔を上げる。そのまなざしを受け止められず、彼は我知らず後ずさっていた。首を振って否定した途端、一挙に怒りが沸騰する。
「嘘をつくな!」
カスヴァは腹の底から叫んだ。泣き顔の司祭に詰め寄り、胸倉を掴み上げる。
「言うに事欠いて、よくもそんな名誉を穢す嘘を!」
「名誉?」
途端、司祭は顔を歪め、カスヴァの手を叩き落とした。穏和な幼馴染みの面影は消え、激しい怒りの表情が取って代わる。
「よりによって君が、穢らわしいと罵るのか! ああ、偏狭な教えに染まって育った君たちを責められる筋合いじゃないだろうさ、だけど君までが! ユウェインがどれほど君を愛し、それゆえに苦しんできたか、少しは理解できるだろうに!」
「やめろ!」
カスヴァは怒鳴って遮った。礼拝堂でうずくまって赦しを乞うていた、脆く壊れそうな姿を思い出す。何を告白したのかと問うた時の、グラジェフの妙な反応も。こちらの思いやりに対してユウェインがたまに見せた、大袈裟なほどの感動と、何かを堪えるような表情……
「まさか、そんな」
カスヴァは呻き、手で顔を覆った。
全部俺のせいなのか。鈍感で、愚かで、仲良し三人の思い出をまったく清らかなものと信じていたから。自分たちの間には、悪意も猜疑も嫉妬も、入り込むはずがないと勝手に決め込んでいたから。だから、すべてが手遅れになるまで気付きもしないで。
悔悟と絶望に襲われて竦む彼に、司祭は鼻を鳴らして容赦なく言った。
「自惚れないでくれよ。ユウェインはとっくに、君への想いに自分なりの決着をつけて、だからこそチェルニュクに戻ってきたんだ。聖都で学んだ知識を故郷で役立てたい、大事な友人である君と、君を幸せにしてくれるモーウェンナと、村の皆を支え助けたいと願ってね。いつまでも君に執着していたわけじゃない。グラジェフ殿の目をごまかすために、昔のユウェインの心と記憶を引っ張り出して纏いはしたけどさ」
冷淡に突き放され、カスヴァは情けない顔になる。それを見て、司祭は哀れむような苦笑を見せた。
「もっとも僕としては、君に未練たらたらのままであってくれたほうが、楽だったんだけどね」
「……どういう意味だ」
カスヴァは心を立て直し、悪魔に対する用心深さを取り戻して相手を睨む。司祭にして悪魔エトラムは、肩を竦めて語った。
「そもそも現在悪魔と呼ばれている僕らはね、ずっと昔……ざっと千五百年かな? 聖御子が生きていた時代の人間だったんだ。様々な技術も知識も素晴らしく豊かで、今で言う魔術も発展の最盛期だった。さて古今、人間がなんとか逃れたいと望み、打ち負かしたいと挑むものといったら、何だと思う? 死、まさにそれだよ。というわけで、諸悪の根源たる肉体を捨てて霊の世界で永遠の平和を生きようじゃないか、って試みがなされた。円環を壊した愚挙とされる出来事だね。教会が自死を禁じるのもその名残だよ。過去に大失敗をやらかした連中と同じ轍は踏むまい、ってわけ。だからって悪魔呼ばわりはひどいよねぇ」
荒唐無稽にも聞こえるエトラムの話は、しかし、カスヴァにはすんなりと理解できた。頭の中に一冊の厚い本があって、エトラムはその該当頁を開いて読み上げている、というような感覚だ。悪魔の知識を得るとはこういうことなのだろう。
「まあともかく、結果はいろいろ予想外の不都合があったにしても、とりあえず、霊の世界で永遠に生きたいっていう願いは部分的に叶った。こうして僕がいまだこの世界に存在しているようにね。ただ、あんまり長らく肉体なしでふらふらしてると、たまにこう……実感が欲しくなるんだよ。生きてる実感」
「もう死んでいるのに、か?」
思わずカスヴァは皮肉な指摘をする。エトラムはおどけて自虐的に笑った。
「そう言わないでよ。半分死人のくせに図々しいと、ちょっと思わなくもないんだ。そんなわけでね、悪魔として契約を交わすのとは別に、誰かの魂を喰らって肉体を頂戴することもままあるんだけど。その際に必要なのが……」
何が起こったのか理解できなかった。滝のような雨に打たれて地面に横たわったまま、彼は荒い息を繰り返す。
一瞬前まで彼にのしかかり、肩に食らいついていた狼は、どこかに消えていた。まばゆく輝く炎の蛇に襲われ、弾き飛ばされて。
ザァザァと絶え間ない雨音が世界を包む。全身を叩きつける滴が痛く重い。この感覚もじきになくなってしまうのだろう。血が止まらない。手足がどんどん冷えてゆく。
仰向いたままの顔に当たる雨粒が急に減った。ぬっ、と視界に影が現れる。かなり漠然とした人の顔、両眼だけが炯々と炎を宿している。
《生きたいか》
声が心に直接聞こえた。
「外道の次は悪魔か」
思わず苦笑する。随分と人気者になったものだ。
《生きたいのなら、願いを示せ。願いがなければ汝はただここで死に、身体は土に還り魂は我が糧となる。願いがあるなら、それを絆として我は汝の身体と魂を貰い受け、生かしてやろう》
「願い……」
ヒュゥ、と息が鳴る。死にたくない、確かにそう願った。だから獲物の匂いだと嗅ぎつけられたのだろう。ここまで来て――まさに故郷を目の前にして、もう一度会いたい人々の顔も見られず死ぬなど、とても受け入れられない。
――だが。
下手な願いを抱けば、悪魔に利用されるだけだ。捻じ曲げた解釈で無理やり願いを成就され、無為に魂を喰われ肉体を乗っ取られるばかり。聖都の書庫には、悪魔の手口を記した書物や巻物が埋もれるほどあったというのに、搦め取られる人間は後を絶たない。聖職者であってさえ。
彼は苦痛に耐えて敵を睨み、強いて深くゆっくり息を続ける。影が身体に覆い被さり、胸に手らしき部分を置いた。ずぶ、とその先が身体に潜る。痛みも感触もないのだが、えも言われぬ不快さが背を這った。
炎の双眼が間近に迫り、細められる。息も声も発しないただの空虚な穴としての口が、生者の唇を覆った。
入り込まれた、と彼は確信した。同時に、最後の願いをひときわ強く意識する。
悪魔の目が驚きに開かれ、炎が困惑に瞬く。だが、深く重なった影はもはや抜け出せない。かろうじて口を離したが、既に全体の半分以上が彼の中に溶け込んでいた。
死にかけていた青年の唇が小さな笑いをこぼす。榛色の瞳に勝利のきらめきが宿った。
「あんまり……聖職者をなめるなよ、悪魔め」
それを最後に、彼の魂は暗闇へと沈んでいった。
「良き司祭でありたい。それがユウェインの願いだったのさ」
「……良き、司祭で……」
呆然と繰り返したカスヴァに、当の司祭は芝居がかったお手上げの仕草をして見せる。
「死にたくないとか、君にもう一度会いたいとかいう程度なら、今頃は魂も完全に糧になって、僕は晴れて自由の身だったんだけどね。君が幸せであるようにとか、故郷を守ってくれとか、そんな類ならお安いご用さ。それが、よりによってねぇ! おかげで契約者なしではろくな力を振るえないこのざまだよ。……グラジェフ殿は、僕の勝ちだと言ったけど、何のことはない。とっくに僕はユウェインに負けていたのさ」
負けたと言いながら、表情は晴れやかだ。カスヴァはまじろぎもせず、その顔を見つめた。かつて馴染んだ、よく知る友の顔。もはや頼りない弱々しさなどまったくない、頼もしい司祭の顔が、不意にぼやけて滲む。
「……っ」
大粒の涙が頬を伝い落ち、カスヴァは嗚咽を堪えて口を覆った。
ユウェイン。泣き虫のちび助、いつもいつも後を追ってきた寂しん坊の、手を引いてやらなければならない弟分。だったのに。
(おまえに助けられたのか。俺も、チェルニュクも、おまえに守られていたんだな、ユウェイン)
もし彼が利己的な望み、小さな願いを抱いていたなら、今頃この村は悪魔の好き放題に侵食されていただろう。人々の心は歪められ踏み荒らされ、《聖き道》から遠く離れて、主の慈愛も聖御子の教えも届かなくなり……穢された魂はいずれ、悪魔あるいは外道の餌となっていただろう。
「まぁ君にしてみたら、僕が現れたせいで、っていう割り切れない気持ちもあるだろうけどさ。ユウェインは自分が『何も願わずに死ねる』ほど強くはないとわきまえていたからこそ、最善と思われる願いを選んだんだよ。……さて、そういうわけだからね、カスヴァ。僕は当分この聖職者の魂を消化しきれないし、この村で司祭を続けたいと思っている。同時に、君の契約悪魔として、君のために知識と力を振るおう。僕を告発しない限り、君はとてつもない未来を手に入れられるってわけさ」
挑発するように言われ、カスヴァは不審げな顔になる。司祭は最高級品を売り込む商人よろしく、上品に滑らかに、滔々と述べた。
「教会の横槍を心配せず、君はいくらでも知識とわざを活用できる。むろん僕は司祭であらねばならないから、制約は受けるけどね。君は魔道士だから自由にできる。ノヴァルクの無理強いも拒絶できるし、この村だけを好きなように発展させられる。なんなら、今まで虐げられ搾取されてきたぶんを取り返しに打って出てもいいね。いかようにも、君のお望みのままに」
言って彼は、主君に対するように恭しく一礼した。
カスヴァは夢から醒めたばかりのような心地で、何度も瞬きした。銀の盆に載せて差し出されたものが、きらめく宝の山なのか、それとも光で幻惑する毒虫の一群なのか、判別がつかない。
力を欲していたのは事実だ。知識も、自由も。一度にすべてが手に入ったのに、喜びはなく、ただ途方に暮れる。
直面した危機を死に物狂いで切り抜けた先に、突如ぽっかりと開けた空間。道はなく、標もなく、少し先で視界はまた霧に遮られている。傍らで支えてくれる伴侶は、もういない。前を歩いていた父の背も消えた。
(どうすればいい。このまま、この悪魔と手を結び領主としてやっていくのか? グラジェフ殿には、悪魔に手綱をつけておけ、と言われたが、力に頼るようになって俺自身が狂ってゆくかもしれない。そうなる前に、こいつと俺自身を始末する方法を探して……いざとなれば聖都に行ってでも、けりをつけるべきでは?)
現実の水辺に立ちこめていた霧は次第に薄れつつあったが、カスヴァの目の前はまるで晴れなかった。
(ああ、主よ。あなたに背いたこの愚かなしもべをお見捨てにならず、どうかお導きください)
両手を組み、額に当てて祈る。それに応えるように、司祭の声が静かに説いた。
「我々は皆、霧の海をゆく孤独な舟である。人生は不確かでままならず、頼りない。立派な船頭の操る大船に乗り、晴れ渡った空の下にいると思う者も、目を閉じ、耳を澄ませてみるが良い。櫂を漕ぐ音も、隣人の声も、行き先を示す船頭の命令も、何も聞こえないとわかるだろう」
聖典からの引用だ。カスヴァが振り向いて見つめると、穏やかで力強い微笑があった。
「主に祈る者は幸いである。霧を越えて届く灯台の光を、既に見出しているがゆえに」
「ユウェ……」
友の名が口をつく。間違いなく、確かに、彼が今そこにいると感じ――だが直後、わからなくなる。
司祭はにこりと笑みを深くし、小さくうなずいた。
「さあ、行こうか」
一瞬の光を見失い、カスヴァは吐息を漏らした。それでも、そう、いつまでも立ち尽くしてはいられない。生き残った者は前に進まねばならないのだ。たとえ霧の中を彷徨うことになろうとも。
足元を確かめ、彼はゆっくりと慎重に歩きだした。
人影がなくなった池のほとりに、嘆きの吐息のごとく風が吹く。陽射しを避けて葦の間に隠れていた靄が、さざめく葉の音と共に流れ去ってゆく。
――うっすらと白く佇む、微かな影だけを残して。
(了)




