7-2 凶報
翌日、カスヴァは明け方から短い仮眠を取っただけで目を覚ました。身体は眠りたがっていたが、神経が昂って休まらなかった。窓から街道の様子を見るグラジェフも厳しい表情だ。
堅パンと水だけの質素な朝食を済ませ、二人は外の気配に注意を凝らした。
ノヴァルクからの兵と一緒に戻って来るのなら、早くても今日の午後だ。ひょっとしたら明日かもしれない。頭ではわかっているのに、とても落ち着けない。
じりじりと太陽が高くなっていく。そして――不意に、異変が訪れた。
「これは……っ」
カスヴァは身震いし、思わず呻いた。いきなり全身の肌が粟立つほどの恐怖に襲われたのだ。真冬の川に突き落とされたような凍てつく悪寒に震え、剣の柄を握る。手は白く骨が浮き出るほど力が入ってしまい、意のままに動かせない。
グラジェフも一段と険しい顔になり、待ち伏せがばれるのも構わず外に出た。カスヴァはよろけ気味に後を追う。肌身に迫るおぞましい気配、不吉な風が、西からやって来る。
「禁忌のわざの気配ではありません。これは外道の……しかし、こんな凄まじいのは」
外道に堕ちた狼の群れに囲まれた時でも、これほどではなかった。いったい何があったと言うのか。
「父上……」
唇が震える。父は、猟師の親子は、無事なのか。ユウェインは。
案じる心とは裏腹に、身体は動かなかった。助けに向かうべきだという考えさえ浮かばないまま、ただその場に根を生やして呆然とする。
どのぐらい放心していただろう。遙か街道の先に小さな人影が現れ、やっとカスヴァは我に返った。反射的にそちらへ踏み出したが、グラジェフに肩を掴んで止められた。
「まだ正体がわからん。迂闊に近付くな」
冷厳に禁じ、特使はゆっくり剣を抜いた。何かを唱えながら、切っ先で地面に円を描いてゆく。二人を取り囲むように。円環が閉じると、彼はカスヴァを庇うようにして半歩前に出た。
「私が良いと言うまで、決してこの円から出るな」
「……はい」
ごくりと固唾を飲み、かすれ声で承諾する。ひりつくような焦燥に苛まれながら、カスヴァはひたすら待った。
やがて誰なのか判別がつくと、カスヴァは危うく飛び出しかけた。予期していたグラジェフが乱暴に遮ったもので、肘にぶつかった彼は後ろに転びそうになった。
「グラジェフ殿! ぐずぐず待っている場合ではないでしょう!」
よろめきながら街道をやって来たのは、ユウェインと猟師の息子だった。正確には、ユウェイン一人が若者を背負っているのだ。足取りはふらふらで、それでも可能な限り急いでいるのがわかる。助けに行かなくてどうするのだ。
しかしグラジェフは動じなかった。相手に届かぬよう、小声でささやく。
「悪魔が最も好んで付け込むのは、そういう善良な利他心なのだよ、カスヴァ殿。自分のことなら騙されなくとも、気にかける誰かのためとなると、人はたやすく引っかかる」
「ですが、あれは」
「既に死体となったものを担いできて、貴殿が駆け付けずにおれぬよう見せかけているのかもしれん」
やりとりする間にも彼我の距離は縮まり、ようやくユウェインもこちらに気付いた。苦痛に喘ぎながら顔を上げ、愕然と立ち竦む。肩で息をしながら、彼はその場で絶望的な叫びを上げた。
「よりによってこんな時に!」
悲痛な声は明らかに助けを求めていた。カスヴァは身じろぎし、なんとかグラジェフの前に出ようとする。ユウェインは気力が尽きたようにくずおれ、両膝をついた。背負っていた若者を地面に横たえ、大きく喘ぐ。
グラジェフがあくまでも冷ややかに言った。
「予想が外れて欲しかったが、残念だ。そなたは司祭ユウェインではないな、悪魔よ」
「――っ!?」
カスヴァはぎょっとなって特使の顔を凝視した。次いで幼馴染みに目を転ずる。間違いなく昔の面影を残す、ユウェイン本人にしか見えない何者かに。
彼の視線を受け、ユウェインは泣きそうな顔をした。座り込んだまま、天を仰いで罵詈を吐く。
「ああ、くそっ、くそぉっ! 何もこんな時でなくたっていいだろう!? 神よ!」
両手を拳にして地面を打ち、突っ伏す。慟哭のように吠えてから、彼は顔を上げて特使を睨みつけた。その頬も、髪も、血に汚れている。
「浄化特使なら知っているだろう。この身体は確かにユウェインのものだ。魂だって、ああそうとも、喰らって我が物にした、すなわちユウェインのままでもある! そんな話は後にしてくれ、ろくでなしのクソ司祭のせいで……っ」
彼は両手で頭を抱えて唸ると、次いではったとカスヴァに目を据えた。
「カスヴァ、ハヴェル様が外道にやられた! ラデクさんもだ。ノヴァルクの司祭と兵は皆、……呑まれた!」
これにはさすがにグラジェフも息を詰めた。
呑まれた。すなわち、多数の人や獣がまとめて外道に憑かれ、堕ちた――最も恐るべき事態。脅威の規模は単体の外道とは比較にならない。呑まれた集団は飢えに猛り狂いながら、人の集まるところへ次々と襲いかかるのだ。
「熊一頭の外道ではなかったのか?」
グラジェフが質す。ユウェインはどうにか立ち直り、猟師の若者を担いでよろよろ近付いてきた。地面の円環を見ると忌々しげに顔をしかめたが、何も言わず、若者をそばに下ろす。
「なんとか彼だけは助け出せた。生かす気があるなら小屋に運んで手当てをしてくれ。応急処置はしたが、本当にほんの間に合わせだ」
挑むように言って、自ら正体を暴露した『悪魔』は己の敵を睨みつける。グラジェフは険しい目を返し、油断なく抜き身の剣を手にしたまま、振り返らずカスヴァに言った。
「その若者を運んでくれ」
「グラジェフ殿、ユウェインは」
カスヴァはほっとすると同時に、眼前の状況を懸念する。彼の声音にまだ好意と信頼が残っているのを察知し、ユウェインが泣き笑いになりかけたが、
「構うな!」
雷撃のごとき怒号がそれを打ち消した。ユウェインが表情を消し、カスヴァも顔をこわばらせて指示に従う。
浄化特使と『悪魔』はなおも睨み合っていたが、ややあって特使が譲歩した。聖句を唱えつつ円環を一部消して切り、カスヴァの後から小屋に入る。ユウェインはため息をついて、戸口の外にどさりと腰を下ろした。
カスヴァは苦心しながら泥と血に塗れた服を剥がし取り、小屋のあちこちをひっくり返して清潔そうな手拭いを見付けると、汲み置きの水で濡らして身体の汚れを拭いた。
途端に、無残な傷が姿をあらわす。かろうじて塞がったばかりというような状態で、血と体液がまだじくじく滲み出ている。熊の爪ではなく、剣や槍にやられたものだ。
「代わろう」
グラジェフが言ってベッドの傍らに屈み、手早く処置していく。開け放しの戸口からユウェインが疲れた声で説明した。
「昨日の午後にハヴェル様たちと別れて、僕だけで外道を始末しようとしたんだ。ねえカスヴァ、あんまりだと思わないかい。暗い森の中で夜通し主と聖御子に祈りながら、地道に真面目に外道退治の罠を仕込んでさ、奴の狙いが僕だってわかってたから責任も感じてるし、まぁ色々制約があって簡単にはいかないだろうけどせめて相手を弱らせようと、健気に頑張ったんだよ。苦労の甲斐あって奴が見事にかかって、やった! ……って思った直後に、ノヴァルクの司祭が頭から湯気立てて突撃してきて全部台無し。本当もう勘弁してほしいよ……あんまりだろ」
哀れっぽく言って、両手に顔を埋める。カスヴァは複雑な思いでそれを眺めた。これは『悪魔』だ。ユウェインの身体を乗っ取り、魂を喰らったと言い放った、すなわち幼馴染みの仇なのだ。それなのに。
「どうして、おまえはそんなにユウェインらしいんだ」
「その話、今しなきゃ駄目かい? 呑まれた兵士およそ十人と司祭一人、あと熊も健在、そっちに対処するほうが重要じゃないかな!」
「だから訊いているんだ。おまえがユウェインなら、外道に狙われる理由は何だ」
「ああ、それね……うん。僕がこの身体を頂戴した時、そもそも彼は死にかけていたんだよ。外道に襲われて。平たく言えば僕が獲物を横取りしたってこと」
「おい」
「その場の外道は全部始末したつもりだったんだけど、実際は取り逃がしたのがいた。しくじった、って言ったのはそういうわけさ」
「ちょっと待て、つまり……おまえがユウェインを殺したわけじゃないんだな?」
思わずカスヴァは念を押して確かめた。『悪魔』がちらりと皮肉っぽいまなざしをくれて微笑む。直後、奥からグラジェフが唸った。
「カスヴァ殿、ほだされるな。そ奴は本来ならば主の御許に行くはずであった司祭を地上に無理やりつなぎとめ、魂を喰らったのだぞ」
水を差されてカスヴァは我に返り、『悪魔』はつまらなさそうに肩を竦めた。
「はぁ……疲れたよ。こんなことになるのなら、欲をかくんじゃなかった。カスヴァ、それに特使殿も、ご存じないかもしれないから言っておくよ。今の僕は、君たちが思うほどの力を振るえない。しがない司祭としての能力が限界だ。もちろん知識はあるから、本来のユウェインが知らないわざも使えるけど、そこに載せられる力は……まぁ、主の御心次第ってところだね。だから、呑まれた奴らがこっちに向かってるけど、僕の助けはあんまり当てにしないでおくれよ。ああなったらもう、諸悪の根源を生贄にくれてやるから鎮まりたまえー、ってやっても無意味だからね」
素っ気なく告げられた内容に、カスヴァは怯んだ。やって来る。ここへ。
その時、森を揺るがす咆哮が響き、背筋を凍らす悪寒が一段と強まった。カスヴァは歯を食いしばって耐え、手の震えを止めようと手近な壁に押しつける。小屋の奥から、か細い声が聞こえた。
「親父、たすけ……いやだ、死に……ない」
助けて。
しばらく遠ざかっていたヴェセリの声が舞い戻り、落雷のようにカスヴァを打った。
若様、助けて。助けて、助けて……
壁に手をついていなければ倒れていただろう。彼はよろけ、うつむいてぎゅっと目を瞑った。ユウェインがため息をつく。
「可哀想に。ここまで連れて来たけど、無駄になりそうだね」
「無駄ではない」素早くグラジェフが応酬した。「少なくともこの若者の魂は、外道に呑まれはしない」
「肉体は滅び命は散っても、か。まぁ君たちがそれを望むなら、止めはしないさ。結局死ぬと承知で、やるだけやってみよう。大元の熊は倒せなくても呑まれた人間の数を減らしておけば、ひょっとしたらチェルニュクの誰か一人ぐらいは生き残るかもしれないし。お墓は作ってもらえるだろうさ」
よいしょ、とユウェインは億劫げに腰を上げる。いかにも捨て鉢な物言いに、カスヴァは顔をしかめた。そこへ、昔の面影を残す微苦笑が向けられる。
「君ぐらいは逃がしてあげたいんだけどね。もう無理だ。小細工しておいたのも効果が切れたし、じきに追いつかれる。そもそも君は、村を見捨てて逃げやしないだろうし」
と、その喉元にいきなり剣の切っ先が突きつけられた。グラジェフだ。カスヴァがぎょっとなって振り向くと、特使はかつてない厳しい顔をしていた。
「挑発するな、悪魔よ。まだすべてが終わったわけではない。主がお護りくださる」
刃の先端で銀色の光がチリチリと震える。司祭の身体を乗っ取った悪魔に反応しているのだろうか。
当人は命の危険など存在しないかのように落ち着いた態度で、皮肉めかして眉を上げたが、余計なことは言わなかった。ただその目元は妙に優しく悲しげで、瀕死の我が子の強がりを受け止める慈母の趣きすら感じさせた。
グラジェフが剣を引き、ユウェインを押し退けて外に出る。カスヴァは剣の柄を上にして握り、額を押し当てて主に加護を祈った。
(主よ、お助けください。どうか私の勇気が挫けませんように。最後まで剣が折れませんように、チェルニュクの皆が生き延びますように。この身と命に代えても)
心身は緊張し、鼓動は速まっていたが、恐怖は薄らいだ。手の震えが止まり、視界がすっきりと晴れる。彼は落ち着いて特使の後を追った。
ユウェインが横に並び、ふっと小さく笑いをこぼす。
「遙かな昔から、祈って救われるなら苦労しない、と無神論者たちが言ってきたけれど、それでも人は祈るんだよね」
「滑稽か?」
いつまでも無駄な行為を繰り返す人間が、悪魔の目には滑稽に映るのか。カスヴァの問いに、直接の答えはなかった。
「祈りに応えがないから神はいない、と彼らは言う。でも問題はそこじゃない。実際に救われるかどうか、奇跡が起きるかどうかじゃなく……人はただ、祈らずにおれないから祈るんだ。どれだけ時代が経っても変わらない、人が人であるがゆえの『願い』を込めて。神ならぬ身でそれに応えようとするのは、悪いことかな」
静かに語る口調は懐古の情と愛しさを秘めている。カスヴァは思わずまじまじと相手の横顔を見つめた。まるで内からの輝きがこぼれ出るかのようにまぶしく美しく、正体を知っていてなお、今まさに神がこの司祭を祝福なされたのだと感じてしまう。
(まずい)
とっさに彼は顔を背け、行く手を睨んだ。
これがグラジェフの言っていた、悪魔も正義や善を示す、ということか。こんな美しさを目にし、知性と優しさを示す言葉を耳にして、なお邪悪であると断じて滅するのは、どれほどの困難だろう。
カスヴァは首を振って駆け足になり、グラジェフに追いついた。




