5-3 軋む心、深まる亀裂
無邪気な信頼が裏切られたのは、それからほどなくのことだった。
カスヴァはいつもと同じく早朝に起き出し、食事の前に厩舎に向かった。村でまともに乗馬をするのは領主の一族だけなので、馬の世話は使用人任せにしない伝統なのだ。
感心なことに、家令の息子ツィリは先に仕事にかかっていた。が、もう一人の姿がない。
「おはよう、ツィリ。オドヴァはまだ来ていないのか」
カスヴァ自身もそうだったが、幼いうちから馬に親しむため、飼い葉を桶に入れたり水を汲んだり、馬房の外を掃除したりといった安全な作業は、子供の分担である。
「はい。お声はかけたんですが、なんだか怠そうでした」
背丈ほどもある箒を動かしながら、ツィリは心配そうに小首を傾げた。オドヴァより一歳半ほど年長だが、主従の別を既にわきまえている辺り、聡い子だ。
「そう言えば、昨夜も食事の時からぼんやりしていたな。とりあえず今朝は我々だけで片付けて、オドヴァはゆっくり寝させてやろう」
ふむと考えつつカスヴァが言うと、ツィリは不満の欠片も見せず「はい」と気持ちの良い返事をして、またせっせと掃除に取り組んだ。
具合が良くないのなら、ユウェインに診せようか――そう考えながらふと外を見やった時、人影がちょうど視界を横切っていった。
「姉さん?」
驚いてツィリが呼びかけたが、立ち止まりもしない。一目散に門へと向かい、そのまま駆け抜けてゆく。何か急用を言いつけられたのだろうか。
カスヴァは落ち着かなくなり、日課を手早く片付けて館へ戻った。
靴の泥を落とすのももどかしく扉をくぐる。いつもならもうじき朝食の用意が調う頃だというのに、広間の食卓には器のひとつも載っていない。
「若様! 申し訳ございません、すぐに用意いたしますので」
炉の大鍋でスープを煮ていたクヴェタがうろたえる。カスヴァは軽く手を挙げて制し、落ち着かせた。
「慌てなくていい。それより、何かあったのか」
「あ、はい、あの……坊ちゃまが熱を出されたようで」
やはりか、とカスヴァは眉を寄せ、子供部屋に急いだ。近付くとすぐに、空気の微かな変化が感じられる。熱がこもって淀んだような気配。
モーウェンナが枕元に座り、洗面器で手拭いを絞って息子の額に載せていた。彼女はカスヴァに気付くと、おしとどめる仕草をしてささやいた。
「外にいて。そばに寄る人数は少ないほうがいいわ」
「ゆうべから様子がおかしかったからな。どんな具合だ」
「かなり熱が高いみたい。婆様を呼びに行かせたから、あなたは皆と食事にして」
「なん……」
カスヴァは抗議しかけて、声を詰まらせた。こちらを見つめる妻の瞳は、言葉以上に雄弁に、手出し口出しを断固として拒んでいる。
司祭がすぐそこにいるではないか。なぜ呼ばない。父親がちょっと様子を見るのさえ拒否するのか。オドヴァはおまえ一人のものじゃないぞ――
様々な文句と疑惑と怒りが胸中に渦を巻いたが、彼はそれを苦心して抑え込んだ。苦しげに荒い息をしている我が子の頭上で、怒声が飛び交う事態は避けねばならない。
くるりと背を向け、一言告げる。
「ユウェインを呼んでくる」
「やめて!」
案の定、鋭く険しいささやきが飛んだ。だがカスヴァは無視し、大股に歩み去る。そちらが勝手に最善を判断するのなら、こちらも打つべき手を打つまでだ。
(イトゥカ婆を追い返しはしないさ。必要な薬がユウェインの手元にないかもしれないからな。それなら文句はないだろう)
苦々しい思いで奥歯を噛みしめる。いつから妻は、あんなに幼馴染みを毛嫌いするようになったのだ。嵐の中の帰還に怯え、次は魔道に堕ちたと謗り、今度は病床の子に近付けまいとして。あんなに仲の良い三人だったのが、嘘のようだ。
(魔道に手を染めている、という疑いは……的外れでもないが)
池での一件を思い出した途端、妻に対する怒りが萎んだ。悪魔と契約してなどいない、との誓いを信ずるにしても、やはり禁忌のわざを用いたのは事実だ。
――次に誰かの子供が死にかけた時は、見殺しにすればいいんだね……
売り言葉に買い言葉の応酬が脳裏をよぎり、カスヴァは内心ぎくりとした。まさかオドヴァの病を予見していたわけではあるまいに。
(大袈裟な。死にかけるだとか)
ちょっと具合が悪いだけだ。彼は不吉な考えを払うように頭を振り、教会に急いだ。
話を聞いたユウェインは、すぐに戸棚から数本の薬瓶を取って鞄に詰め、カスヴァと共に急いで館にやってきた。しかし子供部屋の戸口にはモーウェンナが立ちはだかり、頑として入れようとしなかった。
「じきに婆様が来るから、あなたの手は必要ないわ。帰ってオドヴァのために祈っていてちょうだい」
呼ばれて来たのに拒まれて、ユウェインは困惑し、モーウェンナとカスヴァの顔を見比べる。夫婦の諍いを察し、彼は懇願の口調になった。
「モー、まだ僕に疑いを抱いているのかい? 頼むよ、君たち二人は僕の大事な友達だ。その子供が病気なのに、何もさせてもらえないなんて」
「近寄らないで」
一歩踏み出した司祭を、モーウェンナは厳しくはねつけた。怯んだ相手を容赦なく睨み据え、ぎゅっと唇を噛む。それから彼女は苦渋に満ちた唸りを漏らした。
「婆様にも、あなたの知識は授けてあるんでしょう。教えて構わない知識は。なら、それでオドヴァの看病はできるはずだわ。それ以上の何かが必要なら、それは主の御心次第ということ。祈ってくれるほうが効き目があるでしょうよ。それとも、あなたの祈りは主に届かないと?」
司祭に対して、あんまりな侮辱だった。ユウェインは蒼白になって表情を消す。カスヴァは仲裁しようと口を開きかけたが、ユウェインのほうが状況判断は早かった。
「……わかった。オドヴァの快癒を願う祈りを捧げよう。でも、もし婆様が手に負えないと言ったなら、その時は必ず僕に知らせると約束してくれ」
感情を強く抑制した声は、微かに震えている。彼はそこで一呼吸置いて、頼りない昔の面影を完全に払拭した、厳然たる司祭の顔になった。
「オドヴァは君とカスヴァの子だが、神の愛し子の一人でもあり、私が守るべき信徒でもある。何よりもまず、彼の運命は彼自身のものだ。いかに母親であろうとも、彼の命を左右する勝手は許されない。良いね」
強いまなざしに射竦められて、モーウェンナは声もなくうなずく。それを確かめ、ユウェインはカスヴァに「後は頼んだよ」とささやいてから、何もせず立ち去った。
暗い沈黙に、病床からの喘ぎが息苦しさを加える。
「あなたも行ってちょうだい。食事をとって、仕事をして。皆がここに留まっていたらオドヴァも休まらないわ」
モーウェンナが静かに指図し、息子の枕元へ戻ろうとする。カスヴァは衝動的にその腕を掴んだ。
「どうしてそこまであいつを敵視するんだ。あいつを連れてきた俺も、君の敵になったのか。まるで仔連れの母熊だな」
辛辣な嫌味にも反論はない。彼はやるせない怒りに駆られ、胸にしまっていた秘密を妻にぶつけた。
「あいつは君の敵じゃない。確かに、司祭として適格なのかどうか怪しいところはある。だがあいつは俺と同じように、ひょっとしたら俺よりも強く、君を助けたいと願っているんだぞ!」
「……何を言っているの?」
モーウェンナは困惑と失笑のあいまった、妙な表情をした。カスヴァは嫉妬と屈辱を堪え、友人のために公正であろうと努力した。
「あいつは、今でも君を慕っている。昔の憧れそのままに」
絞り出した言葉がどんな反応を引き起こすか、恐ろしいと同時に目を離せず、瞬きもしないで妻を凝視する。
モーウェンナはつかのま、純粋に驚いた表情をしていた。が、じきにその顔が奇妙に歪む。あらわれた兆しをどう理解していいのか、カスヴァにはまるでわからなかった。
安堵と皮肉と憐憫、そしてわずかな嘲笑。
複雑な気配を口元に漂わせ、彼女はうつむきがちに小さく首を振り、ほとんど唇を動かさずつぶやいた。きのどくに、と言ったようだが聞き違いだろうか。眉を寄せたカスヴァに、彼女は顔を上げて、優しい慈しみを見せた。
「あり得ないわ」
「モーウェンナ」
「いいえ、思い違いよ。断言できる。だからカスヴァ、彼がわたしに振られて傷心だなんて、失礼な同情はしないであげて。とにかく……ああ、婆様がいらっしゃったわ。さあ、もう行って」
打って変わって穏やかに言うと、モーウェンナは夫の頬にそっとてのひらを当て、反対の頬に軽く口づけしてから身を離した。
司祭のいない朝食の席では、ハヴェルが食前の祈りを唱えた。ごくありきたりな、決まりきった感謝の言葉。カスヴァの耳には空疎で無意味なものに聞こえた。老いの窺える声音は以前のユルゲンを思い出させ、なぜともなく薄ら寒くなる。
意識の変化を自覚し、カスヴァは複雑な気分になった。ユウェインが司祭になっているのを知った当初はあんなに違和感があったのに、今ではまるで、ユルゲンなどいなかったかのようではないか。
(あいつの祈りじゃないと落ち着かない、なんてな)
変われば変わるものだ。彼は味気ない食事をそそくさと済ませ、教会へ様子を見に行こうと外へ出る。ちょうどそこで、産婆の弟子と鉢合わせした。
手桶を提げているところからして、井戸へ新鮮な水を汲みに行くのだろう。カスヴァは目的地を変更した。
「手伝おう」
えっ、とノエミは躊躇する。若殿様に水汲みをさせて良いものか迷ったようだが、じきに彼女は頭を下げた。
「ありがとうございます、お願いします」
手伝いにかこつけて病状を聞きたいのだ、と察してくれた利発な少女は、井戸へと歩きながら簡潔に説明した。
「坊ちゃまの熱、婆様はまだ何とも言えない、って見立てを控えてます。このぐらいの齢の子がいきなり熱を出すのは珍しくないけど、予断は禁物だって」
「そうか」
相槌を打ちながら、カスヴァは教会を瞥見した。気付いたノエミが深刻そうに眉をひそめる。
「ユウェイン様にお任せすればいいのに、若奥様は嫌がるんですよ」
「ああ、いろいろ心配しているんだろう」
カスヴァはなるべく無難な答えを返した。モーウェンナのこともユウェインのことも、悪者にしたくない。してはならない。
だがノエミはつんと顎をそらし、少女らしい傲慢さで断定した。
「心配って言うか、張り合ってらっしゃるんですね。だからユウェイン様がお嫌いなんですよ」
「なに?」
まったく予想外、かつ意味が通らない。少なくとも彼にとっては、ノエミの主張はそんなものだった。しかし本人はいたって自信ありげな様子で、胸を張って続ける。
「女同士だから、わかります。ユウェイン様はお優しいし、お祈りの声も素敵だし、お顔立ちもよく見たら結構きれいですもん。魅力的だなぁって思う一方で、やっぱり女としては、なんか悔しいですからね」
「そうなのか?」
カスヴァは困惑した。魅力的? あの泣き虫ユウェインが?
司祭としての頼もしさを感じる、というのであれば異論はない。先ほどのように、食前の祈り程度でも彼が捧げてくれたらと望んだりもする。だが、魅力となると。
彼は妙な顔をしながら、井戸に釣瓶を下ろした。
「俺にはよくわからんが、モーウェンナはただオドヴァを案じているだけだと思うぞ」
もう思春期の少女ではないのだ。人妻となり子まで産んでいるのだから、魅力がどうとか張り合う必要などあるまい。何もせずとも充分美しいし、今でも夫の心を独占しているのに。それとも、そう考える己が鈍いのだろうか。
なにしろ男だからな、とよくわからない諦念を抱き、釣瓶から手桶に水を注ぐ。
ノエミがそれを見守りながら、声を低めて真剣にささやいた。
「だから余計に、なんですよ。考えてみてください、これで今、ユウェイン様がオドヴァ坊ちゃまを助けてくだすったら、若奥様は立場がないじゃありませんか。若奥様の看病や婆様の治療で大丈夫ってところを見せなきゃ、村の皆はこの先お二人のことを軽んじて、なんでも司祭様に頼るようになっちゃうでしょう。そんなの、お屋敷の若奥様としては許せないと……あたしだったら、そう思います」
石で殴られたような衝撃だった。カスヴァは愕然としてノエミを凝視する。見返す碧玉の瞳はあまりにもまっすぐで、嘘やごまかしの曇りひとつなく澄み切っている。まだ若く純真なはずの少女の内に、こんな恐ろしいまでの計算と駆け引き、権勢欲じみたものがあろうとは。
波立つ胸中を静めるのに、しばし手間取る。水を満たした手桶を持ち、館に戻るべく歩きだすも、散らかった思考は前に進まない。彼の沈黙にノエミも言葉が過ぎたかと臆した様子で、三歩ほど遅れてついてきた。
駒留めまで戻ってきたところで、カスヴァは足を止め、少女を振り返った。
「さっきのは、おまえの不安ではないのか。イトゥカの弟子で、ゆくゆくは村の産婆の仕事を引き継ぐのに、司祭があまりに有能では困る、と」
「……!」
虚を突かれたようにノエミが立ち竦む。その反応にカスヴァはほっとした。少女なりに将来を思い悩み、無自覚にそれをモーウェンナに投影していたのだろう。はじめは無条件に新しい司祭を信頼しただけに、相手が脅威になり得ると気付いた後は厳しい警戒に転じたのだ。そうとわかれば恐ろしくはない。
彼は手桶を少女に渡し、噛んで含めるように言い聞かせた。
「大丈夫だ。もちろん俺たち男は、あまり産婆にかかわりたくはない。司祭のほうが医薬に優れるのなら任せたいのが本音だ。だが産婆の仕事はそれと重ならないところも大きいし、女たちは変わらずおまえを頼るだろう。ユウェインも、ユルゲン様のように産婆をいかがわしいと非難したりはせず、必要な知識を分け与えてくれるはずだ。あれこれ心配せず、今はしっかり学んで知恵とわざを身に着けろ」
「……はい、若様」
ノエミは目を伏せて答え、カスヴァが扉を開けてやると、ぺこりと頭を下げておとなしく館へ入っていった。外に残ったカスヴァは、なんとなしに空を仰ぐ。
(あいつに聞かせたら、どう言うだろう。いや、そんなことより、飲まず食わずで祈っているんじゃないのか?)
何か持っていってやろうか。余計なお世話だろうか。ちょっと悩んでから、彼は厨房に回り、堅パンと干し杏を失敬して布巾にくるむと教会に急いだ。




