5-2 無力
「問い詰める前に、返答次第でどうするつもりか決めておかないと駄目だよ、カスヴァ。そういう直情径行なところは美質でもあるけどね。……あのわざは、教会の定める禁忌に当たる。本来なら使うべきではないし、使うにしても人に見られてはいけない」
「おまえ、まさか魔道に手を染めたのか。司祭でありながら悪魔と契約したのか!?」
「しっ、声が大きい」
鋭く警告され、カスヴァはぐっと詰まった。周囲に目を走らせ、誰にも聞かれなかったかと確かめる。相変わらず人影はないが、彼は奥歯を噛みしめ、怒鳴りたいのを堪えた。
ユウェインは真顔でカスヴァに向き合い、きっぱりと断言した。
「悪魔と契約などしていない。主と聖御子にかけて誓うよ」
「だったら、どうして」
「司祭は禁忌の知識をも学ぶんだよ。実践するかしないかは、各々の心がけにかかっているわけだけど。僕が喜んで使ったと思うのかい? ああしなければ、サシャは息を吹き返さず死んでいただろう。それでも使うべきじゃなかったと言うのか、君は」
抑制された声に反発が滲み、表情には瞭然と怒りがあらわれる。対するカスヴァは強いて心を鎮め、理性を呼び覚ました。
「戦場で司祭が、おまえと同じように胸を押して、息の止まった兵をよみがえらせたのを見た。つまりあれは禁忌ではないんだろう」
「そうさ。でもあれだけでは危なかった、だから別のわざを用いたんだ。命を救うのに、その方法が正しいか正しくないかを云々するなんて馬鹿げていると思わないのか?」
「命を救うことの是非を論じているんじゃない、俺が言いたいのはおまえの行いが道を外れるのかどうかで」
「ああそうかい、そんなに手段のほうを問題にしたいのかい、目的じゃなくて! なら次に誰かの子供が死にかけた時は、見殺しにすればいいんだね」
「そういう言い方は卑怯だろう!」
「卑怯? 命を救う手立てを持っていながら見過ごすほうがよほど卑怯じゃないか。さらに言うなら、何もできなかったくせに他人のやり方に難癖をつけて自分の無力から目を背けるなんて」
ユウェインは憤激に任せてそこまでまくし立て、はっとなって言葉を飲み込んだ。瞬く間に痛切な後悔がその面を覆う。
「……ごめん。こんなこと言うつもりじゃ……」
うなだれて首を振った幼馴染みに、カスヴァは何の反応もせず、黙って踵を返した。ユウェインもまた、引き留めはしなかった。
無力。
あまりにも正しい指摘が、胸に暗い穴を穿つ。その底からは怒りも反発も湧かず、重い石となった感情がどこまでも深く沈んでゆく。
(俺は無力だ)
戦での暴虐を止められなかった。徴税吏に駆け引きを仕掛けてチェルニュクを守る知恵も機転もなく、そのために禁忌の際を犯す覚悟もない。溺れた子供を水から引き上げただけで、正しい手当てひとつできず全部ユウェインに任せておいて、よくもなじれたものだ。
歩みを止め、道端の石垣に拳を打ちつける。
(馬を操り剣をふるう力はあっても、子供ひとり救えやしない)
ヴェセリも、サシャも。
彼は己の両手を見下ろし、泣きたいほどの情けなさに囚われた。剣だこのある、いかにも若く頼もしそうな手なのに、指の間から何もかもこぼれ落ちてしまう。
ため息をついて顔をこすると同時に、遠く誰かの足音が聞こえた。首を巡らすと、館へ向かう道を急ぐ人影が見える。
(あれは……アヴァン?)
眉を寄せて訝る。あの下男は片足がやや不自由なため、歩き方に癖があって遠目にもわかりやすい。あまり館から離れることはないのだが、何か遣いを頼まれた帰りだろうか。
アヴァンの歩みを逆に辿ると、村外れへ向かう小さな騎影があった。目を凝らす間に、街道を西へと去って見えなくなる。
(ノヴァルクから急報でもあったんだろうか)
否、それならば使者が館にまで来るはずだ。不審に思ったカスヴァは駆け足になり、館の丘へ上る坂の途中で下男に追いついた。
「アヴァン! 何かあったのか」
「あっ……若様、こりゃどうも」
あからさまに、まずいところを見付かった、とばかり、下男は慌てて手に持ったものを背後に隠す。カスヴァは眉を上げた。
「あるじに隠し事とは感心しないな。ノヴァルクの誰かに賄賂でも貰ったか」
「ち、違いますよ! そんな大層なもんじゃ……あの、本当に、物騒なたくらみとかじゃねえです。ただその、ひ、秘密っていうか」
へどもど言い訳しながら、かあっと頬を赤く染める。四十歳をすぎた男に似つかわしくない、まるで少年のような恥ずかしがりように、カスヴァは面食らってしまった。
ぽかんとなった彼の顔を見て、アヴァンはますます縮こまってもじもじする。
「わしだって、全然まったくご縁がねえってんじゃありませんよ! そりゃあ、こういうのはあんまり褒められたこっちゃないでしょうけど、たまには」
「まさか、恋文なのか?」
「そこまで驚かれんでもいいでしょう!」
「あ、いや、すまない。だがおまえ、字が読めないだろう」
予想外の展開にカスヴァはやや混乱していた。正直、この下男を好く女がいるとは到底考えられなかった。足のことがなかったとしても、顔立ちはお世辞にも整っているとは言えず、この歳まで独身なだけあっていささか偏屈だし、女を喜ばせる細やかな気遣いができるでもない。
唖然となったカスヴァに、アヴァンは傷ついた表情で恨めしげに答えた。
「若奥様に読んでいただくんですよ。ほかの皆には内緒にしてくだせえよ! 誰にも、絶対ですよ!」
きつく念を押すと、ぷりぷりしながら坂道を上ってゆく。カスヴァは放心気味にそれを見送り、濡れたままの頭を掻いた。
どうやら自分が村を離れている間に、思いがけない変化もあったらしい。
(相手も代筆ならいいが、読み書きできる教養があるなら厄介だな。しかも馬でチェルニュクまで手紙を届けられるとなると、相応の家柄の……上級使用人か? 面倒が生じなければいいが)
モーウェンナが取り持ってやっているのなら、先方の事情も把握しているのだから問題はなかろうが、確かめておいたほうがいいかもしれない。
あれこれ考えながら歩きだし、ふと、ついさっきまでの深刻な悩みがどこかに消えていると気付く。妙なおかしみを感じて、彼は独り、苦笑をこぼしたのだった。
下男に遅れて館に戻ると、庭でオドヴァが木剣を振っていた。そばでモーウェンナが見守っている。カスヴァは恋文の件を尋ねようかと思ったが、子供の前ではあまりよろしくないと思い直し、我が子の腕前をじっくり観察した。
一片の雑念もなく集中し、鋭い動作で斬り下ろし、跳ね上げ、突き返す。凛々しい表情は既に剣士のそれだ。かと思ったら、いきなり笑み崩れて得意げに母親を振り返り、飛び跳ねて賞賛を求める。
「ねえ母上、ぼく上手になったでしょ! 強いでしょ!」
「ええ、すごいわね。立派な剣士様で頼もしいわ」
モーウェンナが拍手して褒め称えると、オドヴァはそっくり返って胸に手を当て、気取った礼をした。うっかりカスヴァは失笑してしまう。
「あっ、父上」
オドヴァが振り向いて恥ずかしそうに首を竦めた。カスヴァは大股に歩み寄り、その頭をくしゃりと撫でてやる。
「しっかり練習しているな、感心感心。前に注意したことも忘れていないようで結構だ」
姿勢の癖を直すよう指導してやったのが、ちゃんと身についている。やや甘えたがりの節もあるが、言われたことはひとまず素直に学ぶので、教えた分だけすくすく成長するのが親としては嬉しいところだ。
「まだ九つなのに随分上達したなぁ。先が楽しみだ」
親馬鹿丸出しで彼が褒めると、モーウェンナもにこにこしつつ同意した。
「良くも悪くも、あなたに似たのかしらね。やんちゃで苦労させられたもの」
「君だって子供の頃はかなり……いや、何でもない」
カスヴァは思わず茶化し、ぎろりと睨まれてごまかした。取り繕うように屈んで息子を抱き上げ、そーれ、と高く低く宙を舞わせる。オドヴァは両手を翼のように広げてきゃあきゃあ喜んでいたが、動きが止まって父の肩にしがみつくと、あれっ、という顔をした。
「父上、びしょびしょ」
髪だけでなく、濡れたままの肌に纏った服もしっとり湿っている。おっと、とカスヴァは息子を下ろした。モーウェンナがやってきて、呆れたふりをしつつからかう。
「やんちゃな旦那様は、暑さに負けて池でひと泳ぎしてきたのかしら?」
「水遊びなら良かったんだがな。サシャが溺れかけたのを助けたんだ」
「まあ大変、そんなことが……もう大丈夫なのね? なら良かったけれど、後でお見舞いに行かないと。オドヴァ、あなたは池に入っては駄目よ。友達に誘われても、臆病者ってからかわれても、相手にしないようにね」
はい、と答えたもののオドヴァはやや不満そうだ。本当の危険を理解するにはまだ幼いのだから仕方ない。カスヴァはわざと聞こえるように、悪戯っぽくささやいた。
「その時は俺も呼んでくれ。絶対だぞ」
オドヴァがにんまりうなずき、モーウェンナは大袈裟に憤慨する。
「まったくもう、男の子ときたら!」
それだけ言って怒り顔を保てなくなり、笑って夫の前髪に触れた。
「主に感謝を。サシャとあなたが無事で良かったわ」
「ああ。たまたま居合わせたのが幸いしたよ。俺が水から引き上げて、ユウェインが手当てをしてくれたんだ」
「……ユウェインが?」
「偶然、昔の家を訪ねたところだったらしい。あいつのおかげでサシャも息を吹き返したんだ」
妻と話すうちに、カスヴァは胸のつかえが溶けていくのを感じた。本当に幸運だったのだ、これで良かったのだ、と納得する。彼女も安堵の表情でつぶやいた。
「そう。彼も善いことをしたのね」
カスヴァは妻の顔を覗き込み、ああ、とささやいた。これでもうあいつを信用できるだろう、との含みを持たせて。
曖昧な笑みを浮かべた唇が何かを言いかけたが、話は終わったと早合点したオドヴァが父の袖を引き、密かなやりとりを遮った。
「ねえ、父上」
「うん? どうしたんだ」
「母上って昔は、かなり……だったの?」
いかにも秘密の重大事かのように、真剣に訊いてくる。カスヴァは眉を上げ、母の顔に戻ったモーウェンナをちらりと盗み見てから、これまた陰謀めかして耳打ちした。
「ああ、かなり、だったぞ」
「カスヴァ! 変なことを吹き込まないで!」
悪評を立てられた若奥様が拳を腰に当てて怒る。カスヴァは両手を上げて降参の仕草をしながら、
「本当のことだろう? 今だって時々、オドヴァと入れ替わりたそうにしているじゃないか……そら!」
言うなりひょいと彼女を高く抱え上げ、そのままぐるぐる回りだした。さすがに子供と同じようにとはいかないが、両足が宙に浮いたモーウェンナは叫びを上げる。
「ちょっ……下ろして、きゃあぁ!」
悲鳴はじきに、少女のような歓声へと変わる。やがて目が回った二人は互いに寄りかかって抱き合い、息が切れるまで笑った。
久しぶりにはしゃいだおかげで気持ちがすっかり明るくなり、カスヴァはその日の夕食でユウェインと顔を合わせた時にはもう、わだかまりを感じなくなっていた。
気まずそうな友人に、いつもと変わらぬ態度で目礼し、微笑みかける。相手もほっとした様子で食卓についた。
「主よ、今日も皆つつがなく過ごし、豊かな食卓に顔を揃えることができました。ご加護とお恵みに感謝いたします」
心のこもった誠実な祈り。カスヴァもまた、謙虚な気持ちで頭を下げる。
そう、きっと今日サシャが助かったのも、天の思し召しだ。ユウェインが用いたわざは禁忌だったとしても、そもそも少年を水から引き上げられる腕力を持つカスヴァが一緒にいなければ、恐らくどうしようもなかったろう。だから、きっと二人が共にあの場にいたのは主のお計らいなのだ。
(主よ、どうか守りたまえ。御心に背くことを恐れながらも、若く無垢な命を救おうとしたあなたのしもべが、どうか《聖き道》から外れませんように。私の無力ゆえに、彼が魔の手に捕らわれませんように)
祈りは胸に暖かな光を灯し、安心をもたらす。このまま穏やかな暮らしが続くのだと、この時、彼は一点の曇りもなく信じていた。




