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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第二部 霧の中を彷徨うとも
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5-1 禁忌のわざ

   五章



 じりじりと陽射しが強くなり、乾いた夏がやって来た。

 チーズの仕込みも終わり、麦が黄金に色づいて、豊かな収穫の予感に村全体が楽観的な雰囲気に包まれていた。例年より少々暑く、一帯に熱がこもっているような気配がするのも、人々の意識にはのぼらなかった。


 村を流れる小川が涼しげな音と弾けるきらめきで、牧場の牛や羊のみならず人間たちをも誘う。とりわけ子供らは暇さえあれば流れに足を浸し、飛沫を散らしせせらぎを駆け回って歓声を上げた。

 小川は東の森から流れ出て、村の畑や牧草地をゆったりと横切りながら、水車を回して橋の下をくぐり、池に注ぐ。沖合に突き出た岩の形から『兎池』と呼ばれるその池は、岸辺に葦が茂り水鳥が訪れ、フナやマスも獲れるのだが、泳ぐには少々危なかった。


「ああ、こらこら、そこは駄目だよ!」

 岸から司祭が大声で呼ばわっている。村を見回っていたカスヴァはそれを聞き、急いで駆けつけた。

「どうした、誰か深みにはまったのか」

「いや、大丈夫。間に合った。そう、もっとそっちに行って!」


 離れた岸で少年が数人、あたふたと移動している。十歳から十五歳ぐらいの、親の言うことを聞かない遊び盛りだ。やれやれ、とユウェインは息をついた。カスヴァもぐるりと一周見渡し、ほかに無謀な子がいないか確かめる。


「あの辺りだったよね。君が泥にはまって抜けられなくなったの」

「思い出させるな。あの時はさすがに肝を冷やしたんだ、おかげで今も水辺は苦手だよ。おまえはどうしてここに?」

「ちょっとね」

 ユウェインはごまかし、肩を竦めて視線をそらした。その先には、彼が子供時代を過ごした家がある。


「……忘れ物でも取りに来たのか」

「そんなところ」


 空き家でつぶやく独り言のように、懐古と寂寥を帯びた返事。もっとも、今あの家にはユウェインの従兄が移り住み、漁の仕事を継いでいる。村の貴重な食糧源というだけでなく、誰かが池を世話していないと、水の精が寂しがって人を引き込むと言われているからだ。教会とは関係のない古い伝承で、要するに危ないぞというだけの話だが。


「懐かしいな。最初は聖都の賑やかさに圧倒されて、でも八年ですっかり慣れてしまったから、いざ帰ると決めた後で、今さら田舎暮らしに戻れるかと不安になったけど。やっぱりこの景色が落ち着くよ」

「本当か? 都会暮らしが恋しいんじゃないのか」

 カスヴァは皮肉めかして言い、ついでに自然な会話を装って探りを入れた。

「ここにいたら、教会の新しい知識も何も入ってこない。聖都では最先端にいたんだろうに、取り残されてつらくないか」


 もし彼が《聖き道》を踏み外しかけているのだとしたら、これは聞き流せないだろう。悪魔と契約したのなら無尽蔵の知識が手に入るらしいが、そうでないなら悔しいはずだ。緊張を隠して答えを待つ。

 ユウェインは不可解な表情でこちらを見た。榛色の瞳には理知のきらめきがあるのに、全体としては感情がわからない。カスヴァがたじろぐと、彼は愉しげに目元を緩めた。


「つくづく君はなんでも顔に出るなぁ。たいして表情豊かでもないくせに、そこまでわかりやすいって、隠し事に向いてないよ。いずれ領主としてやっていくには不利なんじゃないかな。それとも、だからこそ逆に信頼されるかな?」

「そんなにわかりやすいか? だったら俺が何を考えていたのか、当ててみろよ」


 カスヴァはむっとして挑発する。ユウェインは悪気なく笑い、鮮やかに切り返した。


「やめなよ。当てられたら困るようなことを心配しているんだろう?」

「――!」

「ほら、また正直に。君には心配されても仕方ないけどさ、聖都に未練はないよ。新しい知識も、ここではそれほど活かしようもないし、年報で充分だ。牛馬鋤とか水車の改良ぐらいは追々やろうと思っているけど、最先端の炉の造り方とか高等数学とかいった知識があってもね……うん?」


 言葉尻で不意にユウェインは眉を寄せ、対岸に目を凝らした。様子が、と唇が動く。カスヴァは一瞬の躊躇もなく走りだした。

 ぐるっと縁をまわって二人が駆けつけた時には、少年たちが岸辺で青ざめた顔を突き合わせておろおろしていた。

「一人足りない」

 ユウェインのつぶやきに重ねて、少年らがてんでに叫ぶ。

「ごめんなさい!」

「どうしよう、サシャがいつの間にか」

「司祭様、若様、助けて!」


 皆まで聞かず、カスヴァは素早く服を脱いだ。水辺は苦手、などと言っていられない。彼らが遊んでいた場所に見当をつけると、彼は葦を掻き分けて池に入った。

 水草を腿に絡みつかせて五歩ばかり進むと、いきなり足元がなくなる。ここから急に深くなるのだ。カスヴァは息を胸いっぱいに吸って止め、ざぶりと潜った。


 夏でも冷たい水に、鼓動が凍りつきそうだ。彼の動きに煽られて、澄んだ水にうっすらと泥の煙が舞い上がるが、強い陽射しのおかげで視界は良い。大小の魚が銀のきらめきを残し、慌てて逃げていく。

 池は完全に静かに見えて、実際は密かな強い流れがある。注意深くそれを辿り、やがて水底に横たわる白い体を見付けた。

 引き上げるのに苦労はしなかった。サシャはまだ十一歳だし、年齢にしても小柄なほうだ。ユウェインが手を貸し、少年を岸辺に横たえた。


 カスヴァはすぐに水を吐かせようとしたが、ユウェインが止めた。

「サシャ! 聞こえるかい、サシャ!」

 呼びかけながら鼻と口に顔を寄せ、息を確かめる。呼吸していないとわかると、彼は少年を仰向けにして、胸の中央に両手を重ねた。そして、一定の間隔で押し始める。

 従軍司祭が同じ処置をしていたのを思い出し、カスヴァは手当てを任せて、自分の服を拾い上げた。


「ほかの子は?」

 ふと見回すと、誰もいない。ユウェインが振り向かないまま答えた。

「君が上がってくるのが見えたから、婆様のところへ行かせたんだ。毛布と温石を用意してもらうように……ああくそ、頼む息をしてくれ」

 声が焦りに上ずる。カスヴァは服を身に着け、傍らにしゃがんだ。

「手伝おう。どうすればいい」

 彼の申し出に、ユウェインはつかのま瞑目した。じきに何かを決意し、強い口調で命じる。

「いや、君は下がっていて」


 その瞬間、カスヴァは久しぶりに例の不可解な感覚をおぼえた。うなじの毛が逆立つような、背骨に走る熱。ぎくりと竦んで、意識する間もなく後ずさる。

 ユウェインは真剣な表情で、少年の身体に当てた手の位置をずらした。

 空気が熱く乾き、チリチリと火花を散らす錯覚。カスヴァはまじろぎもせず、幼馴染みの口が紡ぐ意味不明の謎めいた音韻を凝視する。

 バチッ、と破裂音が響いた刹那、小さな稲妻が司祭の両手を走り抜けた。カスヴァは驚きに息を飲み、見間違いかと何度も瞬きする。ユウェインはこちらにはいっさい構わず、サシャの脈を確かめ、また胸を押し始めた。


「……っ、げぼっ!」

 突然少年が息を吹き返し、水を吐いた。ユウェインが急いで顔を横に向けてやる。カスヴァも我に返り、サシャが喉を詰まらせないよう支えた。

 しばし咳き込んで呼吸が落ち着いた頃、仲間たちが駆け戻ってきた。


「司祭様ー!」

「サシャ、無事かぁ!?」

 一気に騒々しくなり、場に生命力が溢れる。死の気配はあっという間に消え去った。サシャが弱々しく微笑み、ユウェインがかぶせてやった毛布にくるまって温石を抱く。そうして縮こまったまま、彼は大人ふたりに謝った。


「ごめんなさい。急に足がつったんです、まさか溺れるなんて思わなくて」

「それが油断というんだ」カスヴァは重々しく応じた。「たまたま近くに俺達がいたから良かったものの、そうでなければおまえは、両親に残酷な仕打ちをするところだったんだぞ」


 サシャはヴェセリの弟なのだ。立て続けに息子を失えば、悲嘆と絶望で父母ともに打ちのめされてしまうだろう。春から両親の様子を見てきたサシャは、唇を噛んでうつむき、はい、と硬い声でうなずいた。

 ユウェインが少年の頭を撫で、穏やかにとりなす。


「反省しているのなら、次からは事故のないようにするんだよ」

「はい、ごめんなさい」

「私たちにはもう謝らなくていいから、ご両親に怒られるのを覚悟しておきなさい」


 冗談めかして脅したユウェインに、サシャが怯んで情けない顔をする。仲間たちも気の毒そうに、あるいは共に怒られると予想して、うへぇ、と呻きを上げた。ユウェインは彼らを見回し、優しくも真剣に諭した。


「サシャが溺れたと聞いたら、彼のご両親だけでなく君たちの親御さんもそれぞれ湯気を噴いて怒るだろうし、もう二度と池に近付くな、と禁止もするだろうね。でもそれは、君たちが悪い子だから嫌いになったわけじゃない。お父さんお母さんが怒るのは、それだけ君たちを心配していることの裏返しだ。君たちを愛すればこそ、失うのが怖くて、だから怒ってしまうんだよ。それを忘れずにいなさい」


 少年たちは、あるいはうなだれ、あるいは不服げに口をひん曲げて、なんともつかない曖昧な声を返す。じきに司祭の予告通り、知らせを受けたサシャの父親が息を切らせて走ってきたもので、皆が首を竦めた。


「サシャ! この馬鹿、あれほど池には入るなと」

「お静かに、ハヴランさん。ご心配はわかりますが、今さっき息を吹き返したばかりなんですから」

 ユウェインがなだめ、ハヴランはぎょっとなった。

「息を?」

「ええ。息が止まっていたのはほんの短い間でしたから、たぶん大丈夫だと思いますが、二、三日は安静にして様子に注意してください。サシャ、君も、もう平気だと思ってもはしゃぐんじゃないぞ。変な咳が出たり、いつもと調子が違うと思ったら、すぐに私かイトゥカ婆様に言うんだよ」


 はい、とサシャが答える。そのしおらしい様子に父親も少し落ち着き、深々と安堵の息を吐き出した。険しい顔で悪童仲間を睨みつけはしたものの、叱責は控え、息子を支えて連れ帰る。少年の一人がそれに付き添い、残りもそそくさと逃げるように散っていった。


 辺りに人気がなくなると、カスヴァは感情を極力抑えて言った。

「立派な司祭ぶりだな、ユウェイン。だが……あれは『何』だ?」

 ユウェインは無言で佇み、水面に映る空を見つめたまま動かない。しばらく待ったが、どう返事をしようかと迷うそぶりさえないので、カスヴァは語気を荒らげた。

「答えろ! あれは何なんだ、あの稲妻のようなわざは!」

「禁忌か否かという問いなら、答えは是だ」


 ささやきは遠くから届く他人の声のよう。質しておいて、肯定されると衝撃だった。そんな答えを聞きたくはなかった。無意識にカスヴァは否定の仕草をする。

 振り向いたユウェインは、憐れむような、それでいて酷薄な冷ややかさを込めた笑みを浮かべていた。


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