4-3 微かな変容
予告通り、グラジェフは一晩だけ館に泊まってもてなしを受け、馬を休ませると、翌朝には早々に南へと発った。徴税吏は居残り、数字と睨み合ったり村内をうろつき回って家畜小屋を覗いたりしてから、一日遅れで帰ってくれることになった。
カスヴァは客人の馬を引き出し、木柵の門までお供する。珍しくハヴェルも見送りにやって来た。
なぜか馬がしきりに首を振り、そわそわと足踏みばかりする。しかも馬だけでなくその主人までが、落ち着きなく視線をさまよわせていた。
何か気がかりでも、と問いかけようとしたちょうどその時、間近で鴉が嗄れ声を張り上げた。カスヴァも驚いたが、徴税吏のほうは文字通り飛び上がった。両足が地面から離れるほどの怯えように、カスヴァは面食らってしまう。横でハヴェルがしかつめらしく目蔭を差した。
「妙に鴉が多いな……果樹園か。そういえば、あの辺りで」
独り言めかしてつぶやきつつ、ちらりと意味ありげな一瞥を徴税吏に投げかけ、曖昧に口を濁す。不審な態度を取られた役人は見るからに青ざめた。
「ハヴェル殿? な、何か心当たりが」
「ああいや、ご案じ召さるな。貴殿に直接のかかわりはありますまい」
白々しい。カスヴァは父がまた麦角の件と同じく駆け引きを仕掛けたのだと察したが、動揺した徴税吏はまるで気付く様子がない。
(おかしい)
なぜこんなにも、びくついているのだろう。朝食の席では特に何事もなかったし、不穏な話題も出なかった。
(強いて言うなら、食事の後からそわそわし始めたようだったが)
単に早く出発して昼にはノヴァルクに着きたいのだろう、あるいは何か急ぎの用事を思い出したのかもしれない、その程度に思っていた。だがそれにしては度を越している。
不審がる彼の目の前で、徴税吏はハヴェルに噛みつかんばかりに質した。
「直接、とはいかなる意味だ。何が言いたい」
「何、と申しましても言葉通り。ほれ、鴉が集まっているあの辺りは、先だって戦で命を落とした若者が世話していた果樹園でしてな。心残りなんでしょうなぁ。働き手の自分を失って家族はどうなるかと案じるあまり死にきれぬようで、木陰に佇む姿を見たと言う者がちらほらと」
「なっ……!?」
徴税吏はぎょっとなって鴉の群れを仰ぎ、次いでハヴェルに掴みかかろうとしてやめ、後ずさった。
「ハヴェル殿、悪い冗談はよしてもらいたい。死者は皆、司祭が弔ったのだぞ。尊いつとめに命を散らした若者が、楽園に入れぬはずがあるまい!」
「おお失敬、貴殿はその場におられたか。間違いなくきちんと弔われたのをご覧になったと。ならば直接かかわりがないと申し上げたのも間違いでしたかな」
「そんなわけがあるか! ええい、もう良い!」
徴税吏は蒼白になって叫んだ。カスヴァから手綱をひったくり、反対側に落ちそうな勢いで鞍に飛び乗るや、土を蹴立てて全速力で坂を駆け降りていった。果樹園を抜けてもまだ止まらず、畑と牧草地の間を疾駆して、騎影はみるみる小さくなる。
「おお、速い速い」
ハヴェルはおどけて言い、嫌な客が充分に遠ざかると、のけぞって哄笑した。カスヴァは到底愉快な気分になれず歯を食いしばり、父が笑いやむのを待った。
いつの間に父はこれほどさもしくなったのか。まるで強請りたかりの言いようではないか。これっぽっちの弔慰金で死者を慰められると思うな、とばかりの。
「父上、死者をだしにして脅しをかけるなど、いくらなんでも度が過ぎます。モーウェンナに魔女の疑いをかけられたらどうなさるおつもりか!」
怒るカスヴァにも、ハヴェルは頓着しない。鼻を鳴らして腕組みし、あからさまに馬鹿にした目つきをくれる。
「誰が見たとは言うとらんだろうが。まったく、モーウェンナも怯えるばかりで役に立たん。本当に死者が見えるというなら、こんな時こそ、それらしい話をすれば良いものを」
「何をおっしゃいます! そんなものはいない、見えない、口にのぼせるな、と長年否定してこられたのはご自身ではありませんか!」
「うるさいのう」
ハヴェルは疎ましげに顔をしかめ、蠅でも追うように手を振った。カスヴァはかっとなって拳を握ったが、かろうじて激情を抑制し、無言で踵を返した。父の変貌ぶりにもぞっとするが、妻が心配だ。何か暴言を吐かれたのではあるまいか。
急ぎ足に館へ戻り、子供部屋へ向かう。この時間は、オドヴァに学問を教えているはずだ。読み書きと算数、数少ない蔵書を用いた地理と博物学、歴史や文学の勉強。本来は司祭の役目だが、ユルゲンが老い弱ってからは彼女が引き継いだのだ。
「あっ、父上!」
書字板に向かってしかめっ面をしていたオドヴァが、足音を聞きつけて顔を上げ、期待もあらわな笑みを広げる。カスヴァはつられそうになるのをぐっと堪え、わざと厳格ぶって机のそばに立った。
「しっかり勉強しているか?」
「はい! 今日はもう、いーっぱい、勉強しました!」
元気よく大きな声で言ったは良いが、板にはほんの二、三行しか記されていない。カスヴァが眉を上げるとオドヴァはきゅっと首を竦め、モーウェンナが笑った。
「始めたばかりじゃないの。こんなぐらいで、いーっぱい、なんて言っていたら、お父様みたいに立派な大人になれないわよ」
たしなめられてオドヴァは家鴨のように唇を尖らせたが、はぁい、と返事は素直だ。
モーウェンナは書物を板に並べて置き、優しく指示を出す。
「ここからここまで書き写しておきなさい。お父様と少しお話しするけれど、じきに戻るからね」
オドヴァは置き去りにされることに不満を隠さず、頬をぷっと膨らませて足をぶらぶらさせたが、声に出しては何も言わず課題に取り組んだ。いかにも子供らしい態度を見てカスヴァもとうとう相好を崩し、丸い頭をくしゃくしゃ撫でてやる。
「いい子だな、オドヴァ。書き取りが終わったら、剣術の稽古をつけてやろう」
「ほんと!?」
「ああ、本当だ。だから、言われたところまでしっかり丁寧にやるんだぞ。間違いだらけでやり直しになったら、いつまでも終わらないからな」
軽く脅してやると、オドヴァは打って変わって真剣な様子になった。夫婦は顔を見合わせ、温かいまなざしを交わす。
だが和やかさも子供部屋を出るまでだった。夫婦の部屋に移ると、カスヴァは表情を改めて妻に向き合った。モーウェンナもさっきまでとは別人のように厳しい面持ちになる。
「それで、何の話かしら」
「……父上に、無理を言われたんじゃないか」
喉につかえた言葉を強いて押し出すと、血塗れの黒い塊となって二人の間に落ちた。
モーウェンナはうつむき、唇を噛む。腹の前で重ねた手はまた、爪をこすり合わせている。沈黙が続き、耐えられなくなったカスヴァはそっと小声で問いかけた。
「まさか、本当にヴェセリの影が見えたのか?」
モーウェンナは小さく首を振った。指がこわばり、爪がきしむ。カスヴァはため息をつき、妻の肩に腕を回して優しくさすった。
「父上はどうかしている。あれほど、死者の影について口にするなと言ってきたのに……そこまでして税を逃れたいのか」
「違うわ」
ようやくモーウェンナが言った。声はか細く震えながらも、口調は断固としている。カスヴァが眉を寄せると、彼女は顔を上げないまま続けた。
「お義父様は、あなたを失うのではないかと恐れていらっしゃるのよ。私が……協力を求められて、嘘はつけませんとお答えしたら、とてもお怒りになったわ。このままノヴァルクの言いなりになっていたら、またじきに召集をかけられるに決まっている、……次に死ぬのはカスヴァかも知れんのだぞ、それでも良いのか、って」
語尾が震え、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。驚き怯んだカスヴァを、濡れた瞳が射抜く。
「良いはずがないでしょう? でも、だからって、いくらなんでもそこまで罪深い嘘はつけないわ! ヴェセリの魂が霊界にさえ行けずさまよっているだなんて、万が一……もしも、そんな嘘をついて本当になってしまったら」
モーウェンナはごくりと喉を鳴らし、その先の言葉は飲み込むと、両手で口元を覆って嗚咽を押しとどめる。カスヴァは声もなく、妻を抱き寄せて額に唇をつけた。ハヴェルをさもしい守銭奴と見た己が恥ずかしく、しかし、かと言って彼女に酷な要求をしたことは許しがたい。
複雑な感情を持て余し、彼はただ無言で妻の髪や背を撫で続けた。しばらくして彼女も落ち着いたか、震えがおさまる。カスヴァは涙で濡れた頬にそっと口づけすると、微苦笑した。
「その顔をオドヴァが見たら、俺が泣かせたことにされそうだな。子供部屋には俺だけ戻って、さっさと剣術の稽古を始めようか? それとも、ユウェインのところへ連れて行って書き取りの続きを」
「駄目よ!」
気を軽くさせようとしての提案だったのに、モーウェンナは叫ぶように拒絶した。カスヴァが面食らっていると、妻は彼の腕から逃げるように身を離して懇願した。
「やめて。ユウェインは駄目」
「どうしたんだ、いったいなぜそんな」
泣き虫の幼馴染みには任せられないのか、などと茶化せる雰囲気ではなかった。モーウェンナは本気だ。
緊張した一呼吸を挟み、モーウェンナは強いてゆっくりと言った。
「冷静に聞いてちょうだい。……彼は《聖き道》を踏み外しているわ。恐らく魔道に手を染めている」
「待て、モーウェンナ。何を言っているかわかっているのか? あいつは司祭だぞ!」
「司祭でも、いいえ、司祭だからこそ禁忌に手が届くのよ!」
「おい!」
さすがにカスヴァは声を荒らげた。自らの至らなさを泣いて懺悔するほどの司祭が、こんな疑いをかけられるなど、あってはならない。だが彼が反論するより早く、モーウェンナが声を潜めて素早く告げた。
「役人の様子がおかしかったでしょう。ユウェインが食事に薬を盛ったのよ」
「なんだって?」
「いいえ、彼自身が厨房で細工したとは言い切れないけれど。その場を見たわけじゃないから。でも、人を不安にさせる薬がある、と話していたのよ……お義父様と。毒というほど強いものでなく、ただ落ち着かない気持ちにさせる程度の効果だ、って。幽霊話を真に受けて、本気で怖がるぐらいの」
「まさか」
カスヴァが返せたのはその一言だけだった。麦角の件で抱いた疑いがふたたび頭をもたげ、胸に不穏な黒雲が広がる。それを払おうと、彼は頭を振った。
「あいつは……きっとあいつは、父上に尋ねられたことに答えただけだろう。それを父上が、徴税吏を脅すために利用したんだ」
麦角の危険も、不安を煽る薬も。ユウェインはただ知識を授けただけで、ハヴェルがそれをどう使うつもりかまでは予測しなかったに違いない。きっとそうだ。カスヴァは動揺を抑えようと自分に言い聞かせる。そこへモーウェンナが冷徹な指摘を続けた。
「死者の影について話すな。ずっとそう禁じてきた本人がどうして、と思ったけれど……ユウェインがあの新しい考えを聞かせたのなら、不思議ではないわ。私に、恐れることはない、って言ったでしょう。同じようにお義父様にも説いたのなら、死者の魂をこれ幸いと駆け引きに持ち出すような真似もできる」
「その知識は禁忌だと、あいつ自身が言ったじゃないか。君を思いやるあまり一線を越えかけたが、それでも、肝心なところは教えなくても恐怖を和らげられる、と自制する理性はあった。父上にそんなことを話す必要などないだろう。あいつが誰彼構わず、どんな知識も際限なしにばらまいていると思っているのか?」
あいつの苦しみを知りもしないで――との非難が喉元まで出かかり、カスヴァはかろうじてそれを飲み込んだ。私的な悩みを他人が勝手に暴露すべきではない。
それにきっと、ユウェインはとりわけモーウェンナには弱みを知られたくないだろう。彼女に立派なところを見せたいと気負い、苦しみから救いたいと熱望する様子を見ていれば、彼がかつて幼馴染みの“姉”に憧れ恋していたのだろうと窺い知れる。
カスヴァの配慮は、しかしモーウェンナには関係がなかった。
「まさにそれよ」
厳しい断定の口調で言い、彼女は夫に詰め寄ってささやいた。
「ユルゲン様から教わったこと、忘れたの? 魔に憑かれ外道に堕ちたものは正気を失うが、悪魔と契約し魔道に手を染めた者は理性を保っているから、一見してはわからない。だがじきに彼らは自ら正体を顕す……悪魔の知識とわざを使わずにはおれないから」
「――!」
妻の指摘は、カスヴァの怒りに水を浴びせた。
ユルゲンの説教が脳裏によみがえる。魔道士は禁忌の知識とわざを自慢げに披露し、その派手やかさと快楽でもって《聖き道》を歩む者を魅了し、節度と善意を剥ぎ取り堕落へと導くのだ……
「悪魔は善意と優しさの仮面をかぶって忍び寄る」
カスヴァは呆然とつぶやいた。まさに、と無意識に確信する。まさにその通り。
惜しげもなく新たな知識を与え、自分を赦せと甘やかし、目的のために手段を選ばぬよう仕向けている、ではないか。違うか?
(いや……いや、待て)
ぎゅっと目を瞑って眉間を揉む。円環と聖御子に向かって膝を折り、一心に祈るあの背までもが偽りだったのか。あの時、彼は扉の外で会話するグラジェフとカスヴァに気付いていて、欺くために謙虚と敬虔を装ったのか。否。
「違う、モーウェンナ。もし本当にあいつが悪魔と契約したのなら、グラジェフ殿に告発されていたはずだ」
我知らずほっとしながら、彼は静かに否定した。モーウェンナもその点は見落としていたらしく、たじろいで、自信のない表情になった。
「そうかもしれないけど、あの方は、悪魔祓い専門の浄化特使ではないんだし……そもそも、疑ってみなければ兆しを見逃すものじゃない?」
そして疑ってみれば何もかもが怪しい、というわけだ。カスヴァは皮肉な考えを抱いたが、己も同意しかけたのだから、との反省と共にそれを打ち消した。
「ああ、君は知らなかったか。グラジェフ殿は今は通常の特使として巡回されているが、昔は浄化特使をつとめていらしたんだよ。かなりきつい仕事だから、数年前から辞退しているとおっしゃっていた。ユウェインとは……その、内面に深くかかわることまで話したようだが、悪魔だの禁忌だのについては何も心配されていなかった。だからきっと問題ないさ」
「……本当にそうかしら」
モーウェンナの態度は曖昧だ。夫の言う通りだと認めるには、既にあまりに強く確信してしまっているのだろう。カスヴァは疑惑を晴らすことに固執せず、そっと栗茶の髪を撫でて譲歩した。
「君の感じている不安を否定はしない。漠然とではあるが、俺も、このところ何か妙だという気がしてはいるんだ。それがユウェインのせいなのか父上のせいなのか、……それとも俺こそがおかしいのか、原因はわからないが」
最後の可能性は考えていなかったのに、するりと口をついて出た途端、一番本当らしく感じられて苦笑いになる。
モーウェンナが目をみはった。
「あなたが? まさか! 誰よりも一番まっとうで、世界のすべてが魔に呑まれても最後まで正気でいるだろう、って人じゃないの」
「信頼されているのか、からかわれているのか、判断に困るな」
「信じているのよ、カスヴァ。昔からわたしはいつも、他人とは違うものに取り囲まれてきたわ。目の前にあるものをないと言われ、はっきり声がするのに聞こえないと言われ、何が本当なのかわからなくて……いつも霧の中をさまよっているようだった」
モーウェンナは燃える篝火のように強い瞳で夫を見つめた。
「そんなわたしの手を、あなたが引いてくれたのよ。霧の海に腰まで沈んでいても、あなたがいれば怖くなかった。自分の足元さえ見えなくても、あなたが手を離さずにいてくれる限り、《聖き道》を踏み外す恐れはないと信じられた。戦があなたに負わせた傷は、確かに深いんでしょう。それでもあなたを捻じ曲げてはいないわ。決して」
一片の迷いもなく言い切る彼女の意志が、カスヴァの内にも明るい火を灯した。自分はまだ大丈夫だ、という確信が満ちてくる。彼はしっかりと妻を抱きしめた。
「君こそが、俺を導く光だ」
心からの感謝をこめて言い、直後に気恥ずかしくなってしまって、そそくさと離れる。ごほんと咳払いして取り繕うと、
「さて、オドヴァが待ちくたびれているだろうから、外に連れ出してやるよ」
田舎役者さながらひどい棒読みで言って、くすくす笑われながら逃げ出した。




