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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第二部 霧の中を彷徨うとも
36/133

1-2 懐古

 取り急ぎ設けられた宴席は、明るい喜びと苦い涙が相半ばして、カスヴァには居心地の悪いものだった。


 村人のほとんどが集まった中、ヴェセリの死を改めて両親に伝えて遺品を渡し、正直あまり話したくない経験を適当にごまかしながら語らねばならず、荒んだ心はさらにささくれて痛んだ。

 じきに彼は、すまないが疲れた、後は皆でヴェセリのために飲んでくれ、と断って館の外に出てしまった。


 空っぽの駒留めにもたれかかって暮れゆく空を見上げていると、夢の中にいるような心地がした。

 帰ってきた。もう安心していいはずなのに、何をしていても落ち着かない。帰りの旅程もまるで記憶にないのは、魂がどこかに抜けたまま戻っていない証かもしれない。

 うなだれると同時に、横から木杯が差し出された。林檎酒のふくよかな香りが優しく鼻をくすぐる。


「ユウェイン」

「飲む気になれなくても、せめて持っておきなよ。少しは心が休まるから」

「司祭様の助言にしちゃ気が利いてる」


 カスヴァはおどけて受け取り、相手も同じものを持っているのに気付いて眉を上げた。


「飲むのか。おまえが?」

「いったいどこまで時間を巻き戻すんだい。村を出た時にはもう十八で、林檎酒ぐらい飲んでたろ」

「うんと薄めたやつをな。麦酒はまずいって飲まなかったし」

「今は飲めるよ。まったく君ときたら、どうあっても僕をひ弱な子供のままにしておきたいらしいね」


 ユウェインは苦笑いで言い、ごつんと木杯をぶつけて一口ぐいと呷った。カスヴァも喉を潤すと、少しましな気分になり、改めて我が家を眺め回した。


 ぬかるみがちの黒い土。石と泥、木と茅でできた館。家畜小屋からは馬の鼻息と、豚や鶏のつぶやきが聞こえる。いつも槌音を響かせている鍛冶小屋は、今は静かだ。

 そして教会。悪いことをしたら告解に行かされ、七日に一度は礼拝に参列し、その度に老司祭の説教を頂戴してきた場所だ。子供時代に散々嫌な思いをしたので、大人になった後もあまり好きになれず、祈ってもいまいち心が安らがなかった。幸せな婚礼の記憶があってさえ。

 ……今後はもっと、魂の平安から遠ざかるだろう。たとえ司祭が代替わりしていても。


 ちらりと横の幼馴染みに目をやり、カスヴァは奇妙な気分でつぶやいた。

「我が家は変わらないが、おまえは変わったな」

「君こそ」

 ユウェインが応じ、それきり二人とも口をつぐむ。つかのまの沈黙に、古い記憶が翼を広げた。


 小さな村で、歳の近い子供の数は限られている。だから、館の若様でも漁師の息子でも農家の娘でも、構わず一緒に遊んだ。カスヴァとユウェインとモーウェンナは、そういう仲だった。


「昔はよく、暗くなるまで遊んだよな。何をしてたってわけでもないのに、一日中、村の端から端まで走り回ってさ」

 ふっと口元をほころばせてカスヴァが懐かしむと、ユウェインがしみじみ嘆息する。

「それでいつも怒られたんだよね。もっと早く帰れ、って」

「俺のせいか」

「いやまぁ、一緒になって時間を忘れたのは同罪だけどさ。でも、僕とモーが帰ろうって言って、君が聞き入れたことはなかったろ。……怖いもの知らずだったね、今思えば」


 温かな記憶に和んだ横顔が、また翳る。カスヴァも笑みを消し、木杯で表情を隠した。二口飲んで気を取り直し、軽い口調を取り繕う。


「だが結局、いい大人になった奴がずぶ濡れで帰って来た、と」

「勘弁してよ」

 ユウェインは失笑し、参ったな、と額を押さえる。

「ノヴァルクを発った時は、充分余裕があったんだよ。雨さえ降らなきゃ、夕焼け空になる前に村に着いたはずなんだ。なのに途中でさ……」


「一人だったのか?」

 カスヴァは何気なく思いついた疑問を投げかけた。なぜかユウェインはたじろぎ、わずかに警戒したような声音で「え?」と聞き返す。友人の不自然な反応を訝りつつ、カスヴァは無頓着を装って補足した。


「自力で帰ってきたのか? はるばる聖都から、一人で。魔のものだけじゃない、追い剥ぎとか……街にも色々あったろ」

 いけない誘惑とか、と小声で付け足す。途端にユウェインは頬を染めて苦笑した。

「一人で安全だったよ。特使ほどじゃないけど、それなりに身を守る心得は教わったし、まともな人間は司祭の道行きを妨げやしない。外道に堕ちたのでない限り」


 外道。読んで字の如しだ。

 人が規範とすべき《聖き道》、あらゆる生命が辿るべき円環――それを外れた魔のものに憑かれると、外道に堕ちる。猪や熊といったそもそも危険な獣が堕ちれば付近の住民には悲劇だし、野兎や栗鼠でさえ脅威になる。群れなす外道に襲われて滅んだ集落は数知れない。

 狂った咆哮が耳によみがえり、カスヴァは急いで話題をそらせた。


「聖都はどうだった」

「どう、って、一言では説明できないな」

 ユウェインも察したらしく、すんなり軌道修正に乗った。

「そうだね……君はノヴァルクは何度も行ってるから知ってるよね。ここと違って、石積みの城壁に囲まれていて、館もずっと立派な石造り、化粧漆喰なんか塗って真っ白な」

「ああ。人も多いし、賑やかなもんだ」

「そのノヴァルクを、高さで三倍、広さで十倍、混雑は百倍にしたぐらい。って言ったら想像つくかな」

「冗談だろ? 広さと混雑はまだわかるが、高さはいくらなんでも誇張がすぎるぞ」

「誇張どころか、控えめなぐらいさ! 初めて大聖堂を見上げた時には、気絶するかと思ったよ。人間にこれほどのものが造れるなんて、本当に衝撃だった」


 つくづくと改めて感嘆し、ユウェインは恐れ入ったというように首を振った。頬にほんのり朱が差しているのは、心の昂りゆえか、それとも酒か夕陽のせいだろうか。


「かつてはあんな巨大で荘厳な建物が、聖都だけじゃない、あちこちにあったんだ。聖御子が地上に生きていらした時代、世界が完全だった頃。人の叡智は極みなく、国々は豊かに栄え、安全で快適で、明るい光に満ちていた」

 夢見るようにそこまで言い、彼はふと睫を伏せた。

「今だって本当は、教会が蓄えている知識をもっと広められたら、ずっとましな暮らしができるはずだと思うんだけどね。悪魔の知恵とされる禁忌と選り分けるのが難しい上に、常に新しい可能性を検証していかなければならないし……とにかく人が足りない。第一、知識だけあっても実際に運用し定着させるには、安全も流通も脆弱すぎる」

 悔しそうな声音だった。実現不可能と知っていて、己の力不足と厳しい現実の前に歯噛みするような。


 カスヴァはやや意外な思いで幼馴染みを見つめた。こいつはこんな負けず嫌いだったろうか。いつだって控えめで、ほんの少し年長のカスヴァとモーウェンナに喜んで従い、自分の考えを主張することも滅多になかったのに。


「聖都では山ほど勉強できたんだな。父上の眼、おまえのおかげで良くなったそうじゃないか」

「そのぐらい、お安いご用さ」

 柔和で恥ずかしそうな笑い方は、昔と同じだ。知らない顔と馴染みの顔が、交互に浮かんでは消え、消えては浮かぶ。八年余りの歳月が生み出す空白。

(きっとこいつも、同じように俺を見ているんだろうな)

 カスヴァは感謝のしるしに木杯を掲げると、残った林檎酒を飲み干した。胸にひっかかる小さな違和感と一緒に。


「おまえの成長ぶり、ユルゲン様が見たら喜ばれただろうにな」

「いやぁ、どうかな。お墓には挨拶したけど、おまえみたいに頼りない奴に後を任せられるか、って怒って生き返るんじゃないかと戦々恐々だったよ」


 ユウェインは言って、さりげなくカスヴァの手から空の木杯を引き取った。そうして表情を改め、穏やかな、どこか遠い存在のような微笑を浮かべて向かい合う。


「君から見ても、僕はまだ頼りなくて弱々しい、昔のままかもしれない。それでも僕――私は、聖都で正式に叙階された司祭だ。ほかの誰にも話せないことでも、下ろせない重荷でも、我らが主ならば受け止めてくださる。いつでも教会に来てくれて構わないよ。眠れない夜を過ごしやすくする処方だって、心得ているから」


 決して強制しない、優しい口調。しかし聞いたカスヴァは、自分の顔が乾いた石膏のようにこわばるのを感じた。意識する間もなく、彼は固い防御の殻に閉じこもる。

 ユウェインは困ったように眉を下げたが、榛色の瞳をそらさず、真摯に続けた。


「司祭として、皆の支えになりたい。そのために帰ってきたんだ。とりわけ君は古い友人だし、村にとっても大事な若様だからね。モーウェンナも心配していたよ。……国境地帯でおこなわれている戦いがどんなものか、私も知っている。君は強いだろうけれど、独りで抱え込まないでほしい」

「心配はありがたいが、大丈夫だ」


 カスヴァは硬い声音で応じ、軽く手を振った。否定のしるしか、失せろと言うのか、自分でも決めかねたまま曖昧に。

 頑固者の相手は慣れているようで、司祭は落胆もせず引き下がった。身体が冷えないうちに中へ入りなよ、と言い残して館に戻っていく。カスヴァはそちらを見なかった。


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