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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第一部 主の御手が届かないなら
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2-1 死に損ない


   二章



 ありがたいことに、雨は翌朝には上がっていた。青空に白い雲がのんびりと浮かび、降り注ぐ陽射しが暖かい。昨日は刺すように冷たかった風もおさまっている。

 エリアスはほっとして、主に感謝をつぶやいた。ずぶ濡れになった外套はさっぱり乾いておらず、そのまま着るのは到底無理だったからだ。教会の庭で特使二人の外套が吊るされている間、持ち主たちは長衣に帯剣しただけの格好で北へ向かうことになっている。


 村長の家で大麦粥の質素な朝食を共にした後、二人は昨日とは別の場所から村を出た。北西の町、イスクリに向かう道だ。

 主街道も寂れていると思ったが、比べたらずっとましだとわかる。こちらの道は牛二頭がやっと通れるほどの幅しかないし、隙あらば制圧しようと緑の草が侵出している。さっさと懸念を片付けて、村人が安心して通れるようにしてやらねば、消えてしまうかもしれない。


「疲れは取れたかね」

 グラジェフが、もうお決まりになった質問をする。エリアスも常と変わらず、はい、と短く応じた。

 最初はやせ我慢していないかと疑い、体調を整えることの重要性について説いてくれた監督官も、今はそうかとうなずくだけになった。

 良い師だと思う。未熟な新人をいたわり導く忍耐強さを備え、過度に干渉も詮索もしない。ある程度は事情を知らされているだろうし、厄介な任を負わされたと感じてもいるだろうに、秘密を知っているぞと弱みにつけ込んだり、こちらの失敗を誘うような揺さぶりをかけたりもしない。

 そんな誠実な相手に隠し事をし、信用せず、歩み寄ろうとしないのは、少しだけ気が咎めた。


(だがすべては仇を討つためだ。申し訳ないが利用させてもらう)


 家族を失い、土地も財産も人生の希望も、何もかも消え失せた。後に残っているのは瞋恚(しんい)のみ。いつか必ずあの悪魔を捕らえ、この手で葬ってやる。

 奥歯を噛みしめ、行く手を睨みつけたところで、はたと我に返った。グラジェフの姿がない。

 慌てて立ち止まって振り返ると、五、六歩ばかり後ろで彼は腕組みしていた。いつ気付くかと待っていたような、皮肉な笑みを浮かべて。


「グラジェフ様……何か」

 見落とし、聞き逃しがあったろうか。エリアスは素早く周囲を見回し、気配を探った。

 細い道を見渡す限り、特段目に付くものはない。通行人もおらず、小さな水溜りが点々と残っているほかは、家畜の糞さえ落ちていない。左手、すなわち西側は緩やかな傾斜で草地になっており、ささやかな畑を越えた先で川に接している。右手はやはり草地だが、こちらは奥に森が鬱蒼と続いていた。

 空は相変わらず好天だ。怪しげな雲が出てもいない。風はそよそよと優しく、遙か遠くから鳥の声を運んでくる。


 どこにも、魔のものの存在を示す銀色の光は視えない。不穏とは無縁の……

「あっ」

 ようやく悟ったエリアスは声を上げた。羞恥にうつむき、内心己を罵倒しながら左手で銀環を握る。瞑目すると右手指で瞼に触れ、聖句を唱えた。

「主はすべてをみそなわしたもう。聖御子のまなざしは悪霊を射抜きたり」

 言葉が銀環を巡り、細い流れとなって指先から瞼に注がれる。力が流れ去ってからゆっくり瞼を開くと、先ほどよりも視界がくっきりと鮮明になっていた。看破の術である。


「よろしい。そなたは時々考え事に没頭してしまう癖があるな」

 グラジェフが歩み寄る。エリアスは恥じ入ってうなだれるほか、なかった。

 町や村を一歩出たら、そこはもう無法地帯と心得なければならない。外道が出たという情報がなくとも、猪や熊、野犬などにでくわす恐れは常にある。飢えて見境をなくした野盗に襲われるかもしれない。ましてや今回のように、「何か正体はわからないが不穏な気配がある」などという曖昧な場合は、充分な警戒が必要であるというのに。


「申し訳ありません。不注意でした」

「単身で旅するとなったら、誰も背中を見ていてはくれんぞ。心せよ」

「はい」


 エリアスは素直に反省する。グラジェフは自然にふと手を上げ、ぎこちなくごほんと咳払いした。肩か背を叩いて励まそうとしたのを、途中で思い直したようだ。やはり『知っている』のだろうか。エリアスが探るような上目遣いになると、グラジェフはするりとそれを避けて行く手を眺めやった。


「さてそれで、何か視えるかね」

 エリアスは平常心を取り戻し、いつもの無表情を装うと、改めてじっくり周辺を観察した。

「……不審な気配は見当たりませんね」

「そうか。私もだ」

 ふむ、とグラジェフは思案する。だが突っ立っていても時間が過ぎるだけだ。

「もう少し先へ進んでみよう。何かいるのだとしたら恐らく森の中だろうから、右手に注意を」

「はい。無差別に襲ってくるわけではない、ということは……死者の影、でしょうか」

 並んで歩きながら、エリアスはふと思いついた可能性を口にした。


 死者の霊魂が行く先は、楽園か霊界、もしくは地獄と三通りある。信仰を守り《聖き道》を歩んだ者だけが神の御元の楽園でやすらい、世界がまったき円環に修復される時を待つ。罪を犯した者は地獄で永劫の責め苦を受け、どちらでもない者は灰色の無味乾燥な霊界を漂うのである。

 ただしすべて地上を去った後の話であり、どこにも行けない魂もある。自ら命を絶った者、あまりに強い未練執着に縛られた者、あるいは魔術によって縫い止められてしまった魂は、どこでもない狭間をさまよい、時折白い影となって姿を現すのだ。

 それら幽霊は大半、人の目に映らないし、何らかの影響を及ぼすこともない。生まれつき霊感のある人間にだけ姿を見せたり声を届けたりできるが、木の葉一枚揺らすこともできないと言われている。


「かもしれぬな。もしそうであれば……」

 グラジェフは曖昧に言葉を切り、視線で続きを求める。ちょっとした試問だ。

「意思が通じるならば、なるべくなだめ落ち着かせて魂が傷つかぬよう霊界へ送る。通じぬなら可及的速やかに祓い滅すること」

 ぐずぐずしていると、そうした霊は魔のものの餌にされてしまうのだ。食われ、一体となって魔に力を与え、新たな外道を生む。発見した時点で実害がないからと、放置しておいて良いものではない。

 エリアスの答えに、グラジェフは満足そうにうなずいた。


 歩くうち、気付くと空に雲が増えていた。日は高くなりつつあったが、気温はさほど上がらず、むしろ肌寒い。エリアスはより警戒を強めた。魔のものらは、陽射しが燦々と降り注いでいる時よりも曇りや雨、薄闇の頃によく現れる。

 ――と、不意にグラジェフが立ち止まった。一呼吸遅れてエリアスも眉を寄せ、足を止める。頬を撫でていった風の中に、妙な臭いがまじっていたのだ。くん、としかめっ面になって空気を嗅ぐ。グラジェフもまた風上に顔を向けていた。


「わかるか」

「あまり……。ですがさっき、確かに異臭がしましたね」

 エリアスは答え、空気を入れ換えるように咳払いした。五年前に毒で喉を焼かれて以来、嗅覚と味覚がいささか鈍くなってしまったのが悔しい。

 グラジェフは厳粛な面持ちで森を見つめていた。街道に面した茂みのひとつが不自然に揺れている。臭いはそこから運ばれてきたらしい。


「死臭だな」

「恐らく」


 一族が死に絶えたあの日だけでなく、学院で司祭になるべく猛勉強している間にも、多くの死に接してきた。浄化特使志願であることを理由に、外道や悪魔の犠牲になったという人々の弔いに積極的にかかわってきたからだ。遺体の放つ特有の臭いだけは明確に嗅ぎ分けられる。


 二人は用心深く道を外れ、草を踏み分けて森へと近づいて行った。

 つい先ほどまではのどかで平和な緑陰に見えていた場所が、曇った途端に魔の潜む危険な暗がりへと姿を変える。うつろいやすいこの世界そのものだ。

 木立の間に踏み入ると、明らかに空気が変わった。しっとりと湿った森の息吹。そこに加わる異質な……青白い黴を思わせる臭い。鳥の声もぱたりと止み、不気味なまでに静まり返っている。いつの間にか、うっすらと視界に靄がかかっていた。現実の蒸気と、微かな魔の気配がまじりあった靄。


 ヒィィ……、とむせび泣きに似た音が聞こえた。同時にガサガサと何かが奥へ逃げていく。よく見ると、つい今しがた誰かが通ったような痕跡があちこちに残されている。折れた羊歯、蹴散らされた落ち葉、小枝の折れた灌木。

 エリアスは胡乱げな顔になり、意見を伺うようにグラジェフを見た。彼もまた怪しみながら、木々の向こうに目を走らせている。

 死者の影にしてはおかしい。実体がないのだから、草を踏んだり茂みを揺らしたりするはずがないのだ。エリアスはそっと銀環を握った。


(実体があって、魔の気配が微かながらもあり、しかし攻撃的ではなく……この臭い。もしや、行き倒れの死体がさまよっているのか?)


 生ける死者の目撃例は昔からあるが、大抵は不安が生み出す噂に過ぎない。何かしらいわくのある人物を埋葬した後、土地で不審な出来事があれば、あいつが夜な夜な墓から這い出ているのだ、と皆がささやき合う。まれに恐怖が高じて墓が暴かれることもあるが、そんな時に限ってたまたま腐敗の加減で死体の様子が赤っぽく膨れて――つまり血色が良さそうに見えてしまったりすると、もう何を言っても無駄である。

 司祭だけは、きちんと葬儀をおこなった死者がよみがえることはないと知っているし、銀環のおかげで霊が憑いているかどうかもわかるのだが、一般の人々はそうではない。

 厄介なことに、人知れず頓死して弔われなかった者が実際に死体のまま動き回る場合があるから、司祭がどれほど「文句なしに完全に死んでいる」と保証したところで不安を鎮められないのだ。


「死に損ないか」

 ほとんど声を出さず、グラジェフがつぶやいた。憐れみと疑念のあいまった声音。

 正体不明の物音は、近付いたかと思えばすすり泣きと共に遠ざかる。誘っているのだろうか。それとも、己の行動を決めるだけの理性もないのか。

「二手に別れて、結界を張りながら追い込みましょう」

 エリアスは提案し、両手の指で半円を描いてぴたりと指先を合わせた。グラジェフがうなずき、左手で銀環を握って聖句を唱えながら右手の方へ歩きだした。エリアスは反対側へ進む。所々で木の幹に触れて聖印を描き、霊や魔のものが越えられないよう清めていくのだ。


 侵入者の動きがわかるのか、ガサガサいう音は明らかに狼狽した。遠ざかったり近付いたり止まったり、何をどうしたいのかさっぱりわからない。

 そうこうするうち、司祭二人の描いた線が出会い、環が閉じた。


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