天の声を聞け(前)
「ああっ! 司祭様だ、司祭様がいらっしゃったぞ!」
「おお……それもお二人も」
「まさに天の助け、神様は見てなさるって本当だなぁ」
「司祭様ぁ! 早う、早うこちらへ!」
「やれありがたやー!!」
口々に歓声を上げながら、村人たちがわっと群がって来た。予期せぬ大歓迎に出くわしたグラジェフとエリアスは、驚き困惑しながらもみくちゃにされる。
どういうことかと目顔で問いかけた弟子に、グラジェフは曖昧な表情をするだけで答えず、氷青色の目を天に向けて祈りをつぶやいた。
押し流されるようにして教会に連れて行かれた二人の前に、その理由が姿を現した。質素な寝台に横たわって瞼を閉ざし、ぴくりとも動かない老司祭。
「……」
なるほど。と、エリアスは無言で納得した。グラジェフと顔を見合わせ、何とも言えない物悲しさのうちに聖印を切り、臨終の祈りを唱える。後ろで村人らも手を合わせた。
小さな田舎村の教会には、ほかに葬式を執り行える者がいなかった。助祭も、学院に行く前の見習いさえも。遺体を整えるぐらいは村人らもそれなりに慣れているが、きちんと浄めて魂を送ることができるのは司祭だけだ。
それで、隣村まで司祭様を呼びに行かねば、と相談していたところへ、たまたま二人が到着したわけである。
一通りの浄めを済ませて納棺してからやっと、浄化特使二人はいったん解放された。
老司祭の部屋を探して葡萄酒を見付け、それぞれ小さな杯に注いで主を讃え、故人の魂の平安を祈って飲み干す。それから礼拝堂の会衆席に座り、村人たちがてきぱきと働いて葬儀の用意をするのを眺めた。旅の荷物もまだそこらに置いたままだ。
ちょうど通りかかった男を捕まえ、グラジェフが問うた。
「以前からお加減が悪かったのかね」
「いんやぁ、お歳のわりにピンシャンしてなすったですよ。けど、団子を喉に詰まらせちまったようで」
結果は深刻なのだが脱力を禁じ得ない死因に、師弟は揃って変な顔をする。男はどう勘違いしたのか、この辺りで採れるネム芋は粘りがあって、麦粉と練って茹でると甘くてもっちりした団子になるのだ、だとか教えてくれた。老司祭の好物だったらしい。
男が仕事に戻っていくと、グラジェフは頭を振ってつぶやいた。
「まあ……ある意味、平和で良かった」
「ちっとも良くないです。おっしゃる意味はわかりますが」
ささやき声でエリアスがたしなめた。浄化特使として各地を巡っていると、外道の被害者や、盗賊や戦乱といった非業の死を目にする。のどかな村で好物を喉に詰まらせて、というのは、それに比べたら確かに平和なのだが、死んでしまったことは全くちっとも良ろしくない。
「ああ、うむ。失言だった」
グラジェフは苦笑いで認め、よいせと立って村人らのほうへ歩いて行く。エリアスに「来い」とは言わない。来るも来ないも自由、いちいち指図はしないから自分で判断しろ、という師の態度は、認められた証とすれば誇らしいが、同時に突き放された心細さ頼りなさを感じずにはいられない。
エリアスは改めて己の経験不足と判断力の未熟さを痛感しつつ、ゆっくり周囲を見回して、今何をすべきかを見出そうとした。
不審死ではないから、魔のものが関係していないかと探る必要はない。浄化特使としての仕事というより、ただ特使として、また司祭としての義務を果たすべき状況だ。
伝令特使が常駐する都市の教会へ向かい、ここの司祭が亡くなったことを伝えて新たな司祭の任命を聖都に求め、それまでのつなぎに誰か赴任するよう頼むこと。そのために、前任者の銀環を回収すること……
そこまで考えを進めてから棺のほうを見ると、既にグラジェフが村人たちに説明し、祈りを捧げて銀環を手にしていた。
やることがない。エリアスは天を仰ぎ、ため息をつく。そこへグラジェフが戻ってきた。
「あとは棺に花を入れて蓋をして、埋めるだけだそうだ。墓穴は今、掘っているところだから、もうしばらく待っていて欲しいと」
「そうですか。通夜はしないのでしょうか」
「夏場のことだからな。亡くなったのはおそらく昨日の夕方だろうという話だし、私も間違いなく死亡を確認した」
グラジェフは答えて自分の鞄を開け、回収した銀環をそっとしまった。
およそ現在の『世界』では、土葬が一般的だ。森林が豊かなので火葬にする燃料がないわけではないが、危険な森にはなるべく入りたくないし、樵の数も少ない。
あとは単純に、昔からそうだから、という心情的な理由が大きいだろう。いつかまったき円環の世が取り戻された時、主の栄光とともに復活に与れるように、と。火葬というのはどうも、地獄の業火に焼かれるほうを連想させてしまう。
葬儀の大雑把な流れは、司祭が清めをおこなった遺体を納棺して祭壇前に安置し、一晩灯明を絶やさず番をする。翌日には人々が集まり、司祭が故人の生前の善行や美点を(無理にでも)挙げて称え、魂の平安を祈った後で墓地に埋葬する――というものだ。
しかし細かい段取りは土地ごとに違うので、グラジェフもエリアスも差し出口はせず、黙って待っていた。司祭が浄めと祈りをおこなうことは絶対に外せないが、棺に花を入れるのか否か、通夜や葬式でどんな香を焚くのか、賛美歌は歌うのか、といったところは住民に任されている。ところによっては棺すらなく、遺体を曲げて穴に埋めるだけの場合まであるのだ。
亡くなった司祭ならよく把握していたろうが、二人ともここではある意味、素人だ。
かつては教会も、統一した形式を定着させようと試みたことがある。だが物も情報も行き来が限られる世情では、閉じた集落のなかで独自の奇妙な習慣が生じることが多々あり、また形式を守らせようにも、あれが手に入らない、これがない、そもそも人手が足りない、といった問題に突き当たって挫折したのである。
それでも弔いの思いはどこも同じだ。
故人を悼むとともに、決して地上に戻ってこないでくれ、復活の日までは墓からよみがえってくれるな、と恐れ願う。相反する感情のさざ波。
エリアスは最奥の円環と聖御子の像を仰ぎ、それから祭壇の手前に置かれている棺に目を下ろした。村人たちが次々と、外から花を摘んできて棺に入れている。どの顔も、悲しむよりは微笑みがちだった。
かの司祭は、長年この村で親しまれてきたのだろう。
お団子、お好きだったもんねぇ……なんだい、アタシにゃ気をつけろって年寄り扱いなすったのに、ご自分がぽっくり逝っちまっちゃあ世話ないよ……ははは、しかも葬式が出せるように司祭様を二人も呼び寄せなさったんだからなぁ……
交わされる言葉から溢れる親愛の情。穏やかな敬意と思慕。まるでそこだけが暖かな陽だまりかのように、誰もが優しい。
(ああ、彼は本当に本物の司祭だったんだな)
エリアスは不意に確信し、胸に痛みをおぼえた。人々を《聖き道》へ――善良さと親切、敬意に基づくおこないへと導いた。説教を頭で理解させるというのでなく、人生を通じての振る舞い、人々との関わりによって薫陶したのだ。
瞑目し、己に問いかける。
(司祭とは、かくあるべきではないのか?)
すべての悪魔を滅ぼすことが使命である、その決意は変わらない。だが本当にそれで良いのだろうか。
彼の迷いを察しているのか、グラジェフは傍らでただずっと黙っていた。
無事に埋葬が済むと、ささやかな食事の場が設けられた。
村長の家の前に組立式のテーブルとベンチが出され、大鍋いっぱいに豆と団子を煮たものが用意されて、麦酒と共に皆にふるまわれた。急なことで何もかもありあわせだが、李や野苺といった果物、チーズなど、皆が持ち寄ったもので食卓は賑わっている。
故人の思い出を語って供養し、自分たちはこうして生きて飲食できることを感謝して、新たな気持ちで頑張ろう、と確かめ合うのだ。
村長の弔辞が済むと、皆、銘々勝手に食べ始めた。なにも団子を作らなくても、と苦笑する者がいれば、司祭様の供養に団子がなくてどうするんだい、と誰かが言い返す。子供たちは日常と違う雰囲気に落ち着かなくそわそわしながらも、苺を口いっぱいに頬張って、次の獲物探しに余念がない。
二人の特使は片隅に引っ込んで、そんな光景を眺めていた。珍しくエリアスの手にも麦酒の杯がある。
程よく皆に酔いが回り、思い出話の種も一通り出尽くした頃、村長が大声で呼んだ。
「特使様、ひとつお言葉を頂けませんかね!」
グラジェフはとぼけて、呼んでるぞ、とばかりにエリアスを見た。当然の如く氷の目つきで拒絶され、首を竦めて立ち上がる。注目を浴び、彼はおもむろにひとつ咳払いしてから口を開いた。
「長らく特使として各地を廻っているが……これほど土地の皆に慕われていた司祭は、見たことがない。このような心温まる葬儀を執り行って頂いたこと、故人に成り代わり司祭の一人として御礼申し上げる」
そこまで言い、堅苦しい言い回しに村人らがやや当惑気味なのを見て取ると、彼はにこりとして「ありがとう」とうなずきかけた。途端に皆、ほっと表情を緩ませる。
「新しい司祭としてどのような人物がやって来るか、私にもわからない。何しろ、司祭にも色々おるのでね」
そこでグラジェフは肩を竦め、笑いを誘ってから先を続けた。
「だが恐らく、今度の司祭のほうが良い、と言う人はほとんどいないだろう。若くて活きのいいのがやって来たら、こき使い甲斐があって喜ばれるかもしれないが、先代ほどの信頼を得るには何年もかかるだろう。今ここに皆が示した友愛と親切、善良な心は、先代が長い年月をかけて培ってきたものだ。どうかそれを大切にし、新任の司祭にも伝えてやってもらえないだろうか。そうすれば、先代も楽園で安心して休まれるだろう。……改めて、今日はありがとう」
彼は聴衆を見回して穏やかに頼み、銀環に手を添えて一礼した。ぱちぱち、と拍手が起こる。
義務を果たしたグラジェフが腰を下ろすと、話の種を提供された村人らが、新しい司祭についての想像で楽しみだした。
どんな人だろうな、少なくとも若いだろうさ、いやわからんぞ……
わいわい賑やかになったのに紛れるようにして、エリアスがぼそりと問いかけた。
「グラジェフ様は、どうして司祭になろうと決められたのですか」
教会に保護されたみなしごが全員聖職者になるなら、今頃こんなに司祭が不足してはいない。いったん保護された後、どこかに養子に迎えられるか徒弟入りするほうが多いのだ。学院に入って学んでも、堅信と貞潔の誓いを立てる前に去ったり、誓いを立てた後でも侍祭から助祭、次いで司祭へと進まず――進めず――他の人生を選ぶ者もいる。
司祭、それも浄化特使というかなり特殊な道を歩むには、何かそれなりの動機があったに違いない。誰かの死、あるいは復讐。この村の司祭のように明るい光を掲げて愛と善を広めるのではなく、暗い隘路を闇の底へと降りてゆく意志の力が。
じっと真剣に返事を待つエリアスに、グラジェフは何やら奇妙な苦笑を浮かべた。純真な若さをまともにぶつけられて受け止めかねた年長者の、むず痒い笑み。彼はとぼけて目をそらし、わざとらしくちょっと頭を掻いて、ぽんと無造作に答えを置いた。
「格好良かったのでな」
「……は?」
「生まれ育った村が外道にやられたと言ったろう。散り散りに逃げて一人になった私を助けてくれたのが、浄化特使だったのだ。それが実に格好良くてな」
「…………」
「安全な教会に着いた時には、自分も絶対に浄化特使になると決めておった」
うむ、とグラジェフはしかつめらしくうなずく。エリアスは眉間を押さえてうつむいた。若者の反応にグラジェフはくっくっと低く笑い、麦酒を飲む。杯を下げて一息つくと、彼は静かな声でそっと続けた。
「村を襲った外道は最初、数羽の鴉と野兎だった。私のほうには幸い鴉は来なんだゆえ、逃げおおせるかと思ったのだが、何せ子供の足だ。兎に追いつかれそうになって」
そこで彼はいったん口を閉じ、まだ微妙な顔の弟子をちらりと見て苦笑をこぼした。今度ははっきりと濃い苦さのそれを。
「……犬を、飼っておった。忠実で賢い、勇敢なやつでな。私を守ろうと外道に立ち向かい、見事に首を噛み砕いたまでは良かったが」
「あ……」
成り行きを察したエリアスは小さく喘いだ。清めの力を持たず、ただ殺しただけでは、魔を滅せられない。取り憑かれるだけだ。
グラジェフはもう笑っていなかった。
「どうにもできず腰を抜かしていたところを、浄化特使に救われた。そういうわけだ」
あえての軽い口調で締めくくり、彼は肩を竦めて、麦酒のお代わりを取りに行く。エリアスは黙ってそれを見送ることしかできなかった。




