7-3 悪魔祓い
雨戸を外され開け放しになっている窓の桟に、聖句を唱えつつ印を刻む。邪悪を通さぬ楽園の門と同様に、この窓から悪魔が逃走せぬよう、阻み封じ込めるように。
異変はすぐに現れた。ダンカがいかにも怯えた様子で不安を訴えだしたのだ。
「なぁに? なにをしてるの。あたし怖い」
「家にいるんだから、何も怖いことなんかないよ」
ベルタは白々しく慰めたが、下手な芝居は続かず、ぐすっ、と鼻声になった。
「ああ、あんたの聖霊様は、泣いてる子には優しいって言ってたよねぇ。優しくしてやれなくてごめんねぇ」
「なに言ってるの? 母さん、どうして泣いてるの。ひどいことされたの? 逃げよう、ここにいちゃだめ。ほら、いっしょに逃げようよ。お山を越えて、谷をくぐって、遠い遠いところへ行きましょう」
窓から聞こえるダンカの声も、混乱していた。恐怖に駆り立てられていながら、相変わらず歌のような節がまじる。エリアスとグラジェフは手早く魔封じを施し、正面扉から中に入った。
途端にダンカがびくっと竦み、母親の肩を揺すっていた手を離して、うろうろと逃げ場を探しだす。エリアスはグラジェフに『身代わり』の守り紐を押しつけると、機敏に階段梯子を駆け上がり、自分の剣と二人分の鞄をひっ掴んだ。頭の中で、悪魔祓いの手順を記した典礼書をめくる。
封じ込め。清浄。束縛。用うべき聖句の数々が脳裏を流れてゆく。階下から金切り声が響いてきた。
「助けて、母さん助けて、痛いことさせないで!!」
「誑かそうとしても無駄だ、悪魔よ。その女は既に己の娘が悪魔に憑かれたことを知っている」
グラジェフの厳しい声を、大袈裟な悲鳴が遮る。急いでエリアスが階下に戻ると、グラジェフがベルタを戸口側の壁際へ避難させたところだった。
エリアスは無言でふたつの鞄を床に置き、自分のほうを開けて塩の小瓶を取り出すと、まずベルタを囲むように撒いた。
「主は円環の世をお創りになり、善きものとされた。人の子が祝福され、地上を与えられた」
塩が一瞬きらめきを放ち、結界となる。聖句に込められた術は融通の利かない決まった型だが、それだけに強固だ。助けを求めるダンカの悲痛な叫びに遮られても、まったく支障なく効果があらわれる。グラジェフが続けて聖句を唱え、塩を落としながら部屋を清めてゆく。
「この地上は人の世である。魔のものらは侵すべからず」
右回りに進む師に対し、エリアスは左回りに円環を辿る。閉じこめられたダンカが泣き叫んだ。
「いやよ、いや! あたしいやだって言ったわ、やめてって言ったのに、どうしていじめるの! みんなみんな、ひどい、いやよ助けて聖霊さまぁ!!」
身をよじり、見えない誰かを追い払おうとするように両腕を振り回す。ベルタが茨の鞭で打たれたように竦み、嗚咽を漏らして顔を覆った。娘があの夜のことを非難しているとわかったのだ。
エリアスは母親の悔悟を視界の端で捉え、銀環に左手を添えてダンカに向き合った。
「芝居はやめろ」
嗄れた声で、しかし強く一言命じる。聖句でも《力のことば》でもなかったが、怒りと憎悪の凝った一撃は悪魔に届いた。
髪を振り乱して暴れていた女が、ぴたりと動きを止めた。両手で顔を覆ってしゃくりあげるような仕草をした後、ゆっくりと司祭たちに視線を向ける。指の隙間からぎょろりと青い目が動き、半ば隠れた唇が紅い弧を描いた。
ふむ、とグラジェフが小さく唸り、横から肘で小突いてきた。こんな時に何だ、とエリアスが不審顔をすると、先達は彼の手から塩の小瓶を取り上げ、代わりに守り紐を持たせた。
「そなたがやってみろ」
「……っ」
思いがけない指示に、エリアスは驚き、うっかり正直な感情をあらわにした。
喜んだのだ。
てっきり熟練のわざを見学させられるだけだと思っていたのに――むろんそれとて貴重な機会には違いないが――まさか自分で祓うことを許されるとは。
(殺せる。悪魔を殺せる)
昏い歓喜が湧き起こり、エリアスは我知らず低い笑いをこぼした。そんな彼に、グラジェフは冷ややかなまなざしを注いで忠告する。
「足をすくわれるなよ。今のそなたは悪魔じみているぞ」
「ええ。……ええ、重々承知です」
笑いはおさめたが口の端は吊り上がったまま、エリアスは目をぎらつかせて守り紐をぐっと握った。ゆっくり深く呼吸し、興奮を静めて清めの手順を行う。吐息に載せて《力のことば》を紡ぎ、振動させ、銀環を通じてしっかりと力を巡らせる。霊力の安定した流れが自身を通じて部屋に広がり、悪魔の生み出す不規則な乱れを整えてゆくのがわかった。
悪魔はテーブルの端に両手を突いた姿勢で、蔓草のように垂れ下がる髪の奥からこちらを睨みつけていた。
エリアスは敵を視界に入れたまま、用心深く守り紐を左手首に巻いた。使うのは束縛した後だ。それまでに相手に奪われては困る。
若い司祭と悪魔とが睨み合っている隙に、グラジェフが密かに動き、ベルタを外へ逃がそうとした。が、果たせなかった。
いきなりダンカがテーブルを持ち上げ、扉めがけて投げつけたのだ。
「――っ!」
とっさにグラジェフがベルタを庇い、直撃は免れたが、出入り口は塞がれてしまった。
悪魔憑きが発揮する人間離れした怪力に、ベルタが腰を抜かしてヘたり込む。もはや娘とは思われぬものを凝視して震える母親の前で、当人は椅子の脚を一本、いとも易々とへし折った。
「かあさん、かあさん、どこいくの。またあたしを見捨てるの?」
歌うように言いながら、折れた木片の尖った先を自らの喉に当てて見せる。ベルタが恐怖にすすり泣き、顔を覆った。
「《翔けよ隼》!」
短い一声と共に白銀の矢が飛び、木片を弾く。反射的に悪魔はそれを投げ捨てて攻撃者に向き直った。
エリアスは既に続けて聖句を唱えだしていた。
「欺く者、呪う者、偽る者よ。主は汝を見逃されぬ」
束縛の聖句だ。左手で銀環を握り、右手の人差し指と中指を揃えて悪魔を示しながら早口に唱える。銀の光が糸に紡がれ、伸ばされた指先のまわりにたゆたう。だが、
「汝の四肢を捕らえ……」
「《砕けよ》!!」
長い聖句を遮って悪魔が叫んだ。形を成しかけていた術が破られ、銀糸が震えて散らされる。
勝ち誇った笑みを顔いっぱいに広げ、悪魔が子供のように足を踏み鳴らして喜ぶ。だがエリアスは動じない。もう一度最初から、より素早く強い声で聖句を唱えだす。
「欺く者、呪う者、偽る者よ」
「《砕けよ》! 《砕けよ》!! ヴィーヤァー、カァァー! はははははっ、あははぁ!!」
狂気じみた笑いを間に挟みながら、悪魔は立て続けに叫ぶ。エリアスはその度に最初に戻り、唱え直す。あくまでも冷静に、無表情に。
「何度唱えても無駄だ、未熟な司祭め! 母を求めてめそめそ泣く子供に何ができる、片腹痛いわ!」
けけけ、と鴉のような笑い声。嘲弄する悪魔の隙を探すかのように、エリアスは少しずつ室内を移動していた。
「どこへ行く。逃げるのか、そら、逃げろ逃げろ、力不足を恥じてめそめそ泣きながら母親のところへ逃げ帰れ! 子供は家に帰れ!!」
侮蔑と共に、三本脚になった椅子が投げつけられる。素早くエリアスは光矢を放ち、それを弾き返した。防御の続きでもう一矢投げつけて悪魔を怯ませ、また聖句を唱える。忍耐強く、性懲りもなく、唱えては破られ、破られては唱え。
そうしてある場所に到達すると、彼は悪魔に目を据えたまま、素早く右手を背後に伸ばした。窓の桟、先に刻みつけた魔封じのしるしへと。
「《成せ》!」
短い一声が銀の渦を生み、いきなり高波に襲われた悪魔が怯む。その隙にエリアスは再度右手指を悪魔に突きつけ、高らかに聖句を唱えた。
「欺く者、呪う者、偽る者よ。主は汝を見逃されぬ。汝の四肢を捕らえ銀の楔で地に打ちつけられる!」
光の糸が瞬く間に縒り合わさって四本の楔となり、右手を振り下ろすと同時に放たれる。魔封じの波をかろうじて鎮めたばかりの悪魔は、両手両足を撃ち抜かれ、がくんとその場にくずおれた。
床に座り込んだ状態で動けなくなった悪魔を見下ろし、エリアスは堪えきれず残忍な笑みを浮かべた。
気分はどうだ、誰が未熟で何もできないと? さあ、どう料理してやろうか。まずは名前を聞き出そう、それを足がかりに少しずつ貴様の支配力を削り取ってやろう。力を剥ぎ取り存在を弱めてじわじわと……
嘲ってやりたい衝動はどうにか堪えたが、くく、と笑いに肩が震えた。
憎々しげに彼を見上げていた女の顔つきが、不意に弱々しいものへと変わる。その変貌は、エリアスの中で暴れる昏い炎を一瞬でしぼませた。
「いた……痛い……ひどいわ……」
碧い双眸からぽろぽろ涙をこぼし、しくしく泣き始める。悪魔の芝居なのか、ダンカの意識が表出したのか、判断がつけられない。
「エリアス、手を貸せ」
グラジェフに呼ばれて振り向くと、彼はテーブルをどかそうとしていた。エリアスは悪魔を一瞥してから、急いで駆け寄って手伝う。戸が開くようになると、グラジェフはベルタを外へ出した。
「教会へ行きなさい。ジアラス殿には急ぎこちらへ来てほしいと伝えて、そなたはそのまま教会に留まるように」
「かあさん! いやよ、いや、助けて! 見捨てないで!!」
金切り声が訴えるのを振り切り、ベルタは嗚咽を堪えて、よろめきながら急ぎ足に去ってゆく。
扉を閉め、司祭二人が室内に向き直った時もまだ、女は泣いていた。狂気じみた言動はすっかり薄れ、普通の、どこにでもいる哀れな女そのものの様子で。
「……みんな、どうして……どうして、ひどいわ」
エリアスはしばし黙って観察し、悪魔がぺろりと舌を出す兆しがないと確かめると、慎重に数歩近づいた。
「ダンカ。あなたは夫ジェレゾを殺し、その罪を逃れようとして悪魔と契約した。そうだな?」
びくりとダンカの肩がわななく。嗚咽が激しさを増した。
「って……だって、ひどいのよ、あの人……あんな、……また産めばいい、なんて」
しゃくりあげながらそこまで言うと、彼女は顔を上げ、まっすぐにエリアスの目を見つめた。揺るぎなく澄んだまなざしで、糾弾と悲鳴を押し込めて。
「あたしのヤナ、たったひとりのあの子を! また産めばいいだなんて、あんまりだわ!! だから嫌だって言ったの、触らないでって、それなのに!!」
痛ましい叫びを浴びせられたエリアスは、つかのま状況を忘れて竦んだ。同じ女として、力で敵わない男に意志と尊厳を踏みにじられる屈辱と恐怖はよくわかる。実際に辱められた経験がなくとも、ばれたらどんな目に遭うかと常に恐れ暮らした日々があれば。
絶句して立ち尽くすエリアスの前で、ダンカは唇を噛んで首を振り、絞り出すように続けた。
「誰も、誰も助けてくれなかった。誰もあたしを助けてくれない、守ってくれない、だったらせめて放っておいて! もうたくさん、もう……うぅ、ぅ」
言葉が嗚咽に飲まれて消える。それきり沈黙が降りた。
あまりに長くエリアスが動かなかったもので、ついにグラジェフがため息をつき、ささやいた。
「交代するかね」
「いいえ」
即座にエリアスは我に返り、銀環を強く握って気持ちを立て直した。哀れむべき女だ、しかし悪魔は滅さねばならない。深く息を吸い、心を冷たく凍らせる。
「残念だが、ダンカ、あなたの聖霊様もあなたを守ってはくれない。どう言われて契約した? 死体を片付けてやる、罪に問われないように守ってやる、とでも? だが死体は我々の前に姿を現し浄められ、あなたの罪は暴かれた。契約はもはや無意味だ」
エリアスが事実を淡々と告げると、女の身体が大きくぶるりと震えた。両手に埋めていた顔を上げた時には、碧玉の瞳にふたたび異様な光が宿っていた。




