1-2 面倒な仕事
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泥壁に薄石板屋根の小さな家が身を寄せあう集落は、どうにか自給自足しているという程度の規模である。目立った産業施設も、商店と呼べるほどの店もない。
ここリブニ村はもうロサルカ共和国の領内だが、税の取り立て以外は放置されているようなざまだ。
そんな村でも、必ず教会はある。魔のものを退け暮らしを守り、人々の魂が《聖き道》を外れて禁忌を犯さぬよう教え導く司祭がいる。
その事こそが、教会を実質的に世界の支配者たらしめているのだ。
現在は各地に多くの国が乱立しているが、各々の主張する領土の境は常に曖昧で、支配体制も安定しない。教会だけがあらゆる土地に拠点を持ち、連携し、人々を従わせる確実な力を有している。
政治的な意味合いはともあれ、濡れ鼠の二人にとってはただ、屋根の下で休めるのがありがたいばかりだった。
つましい教会の前でぐっしょり重くなった外套を脱ぎ、気休めばかり滴を払ってから中に入る。壁から素っ気なく突き出た鉤に外套を掛け、剣と剣帯とナイフの武装一式も外して吊るし、やっと身軽になれたグラジェフは、ほっとして肩を回した。
何はともあれ祭壇に向かい、円環と聖御子の像に感謝の祈りを捧げる。そこへ、奥から村の司祭が二人分の杯を持って出てきた。彼もまた灰色の長衣に銀環だけの、質素な身なりだ。
「お帰りなさいませ、グラジェフ様。ご無事で何よりでした。さ、どうぞ」
「これはかたじけない」
初老の司祭から葡萄酒を受け取り、グラジェフは馥郁たる香りを深く吸い込んだ。主のお恵みに感謝を、と杯を掲げてからぐいと呷る。隣でエリアスも同じ言葉を唱え、こちらは最低限の動作で静かに飲んだ。行儀が良いというより、感情が欠落したように。
グラジェフは彼の不自然さに気付かぬふりを決め込み、村の司祭に話しかけた。
「ヴィレム殿、要請があった外道は退治しました。狼ではなく狐でしたな。ほかに魔の気配はなかったので、これで当分は安全でしょう」
「おお……ありがたい、感謝いたします。これで村の皆も市場へ行けます。まことに主の御わざは誉むべきかな」
司祭ヴィレムは礼を述べ、円環に向かって合掌し頭を垂れる。彼は人の良さそうな目をしばたたき、恥じ入る風情でもぐもぐ言った。
「狐でしたか、それはなんとも……狼の外道に驢馬をやられた、と知らされたものですから、てっきりこれは駄目だとばかり。私がもっと若くて力があれば良かったのですが」
「いや、正しい判断です。何よりも村人に犠牲者が出なくて良かった。あなたが近辺を清めてくださったおかげで、我々もやりやすかった」
「いやいや、この程度のこと。あなた方がたまたま近くにおいでになっていて、本当に助かりました」
ヴィレムは冷や汗を拭うふりで苦笑した。
浄化特使は要請に応じて各地を移動しており、どこへ行けば確実に捕まえられるとは決まっていない。大きな町の教会で伝令特使に要請を託し、居場所が判明している一番近くの浄化特使を呼んでもらうのだ。助けがすぐ来るか手遅れになるかは運次第。
司祭ヴィレムはふうっと息をついた。
「北へ向かうには、遠回りですがもう一本の道がございます。しかしそちらも二月ほど前から、時々不穏な噂が聞こえておりましてな……主街道が駄目となったらそちらを使うしかないものの、どうしたものかと」
「不穏な噂、というと追い剥ぎが?」
グラジェフは眉を寄せた。外道が出たのであればすぐに要請が飛ぶはずだ。それ以外の不穏といったら盗賊ぐらいのものだが、ヴィレムは首を振った。
「わからんのです。なにやら通るとおぞけがする、不気味な呻き声が聞こえる、白い人影のようなものが木立の後ろに見えた……そんな類の話でしてな。私も一度確かめに行きましたが、その時は何もなく。被害も出ていないのですが、皆、不気味がって、よほどの用がない限りそちらの道は使わなくなりました」
話の間に、エリアスが会衆席の隅に置いてあった自分の荷物を開き、革筒を取ってきた。防水加工した筒から取り出したのは、聖都からロサルカ中部にかけての地図だ。ベンチに広げられたそれをグラジェフも覗き込み、指先で街道をなぞった。
ここに来るまで辿った道沿いに、遭遇した外道、魔の気配の強弱など安全に関する事柄が書き込まれている。現在地から北へ伸びる道は二本、首都へまっすぐ向かう主街道と、西を迂回する細い道があった。国境であるクラヴァ川に沿って町をひとつ経由したのち、東へ戻って主街道に合流している。
「ふむ……念のため、こちらも調べておくか」
グラジェフが独り言のつもりでつぶやくと、横でエリアスが「了解」とうなずいた。ヴィレムが安堵の笑みを広げる。
「なんとありがたい。ではまだ二、三日、こちらに滞在なされますか」
「さようですな。世話になります」
グラジェフは肯定し、ふと複雑なまなざしを連れに向けた。ある提案をしようとして唇が動きかけ、そのまま閉じる。彼は取り繕うように咳払いした。
「引き続き留まる旨、村長に伝えておこう。そなたも来るか?」
「いえ、私はここで祈りを」
予想していたが、返事は素っ気なかった。村長の家ならば炉で火にあたって温まることもできるし、教会より快適なのだが、そんなことは考えもしないようだった。
(地元の長との会話や交渉を学ぶよう、促しても良いのだが)
どうせ石のように押し黙ってにこりともせず突っ立っているだけで、話が終わればすぐさま退出するだろう。それでは悪印象を与えかねない。監督官が口実を作って温情をかけてくれるなど、夢にも思わないだろうから。
(この様子では、一晩ぐらい寝床を交換するかと持ち掛けたりなどすれば、正気を疑われるだろうな)
やれやれ。グラジェフはため息を堪えた。
この規模の村には宿屋など営業していない。稀の来客はせいぜい近隣集落の親戚や知人で、訪問先に泊まる。当然、雑魚寝だ。それ以外の行商人や教会特使は、教会、あるいは村長や領主の館に迎えてもらうのだが、こちらは運が良ければ客室がある。
とはいえここは村長の家も小さく、余分の寝床はかろうじて一人分。春先の今は干し草小屋の蓄えも尽きており、新しい寝床も作れない。というわけで、エリアスは教会の会衆席、この硬いベンチで夜を過ごしているのである。
(身の上がどうであれ関係なく、旅の連れに不便を強いては気が引けるのが人情というものだが。寝床を譲ると言えば恐らく、私が『知っている』と考えるだろう。まったく、ハラヴァ枢機卿も面倒なことを頼んでくださったものだ)
特殊な条件付きで叙階されたこの若者について、その事情を『知っていると悟られないよう隠しつつ、他者に露見せぬよう』付き添い守ること。そしてもしも本人が迂闊な振る舞いをしたならば、すぐさま不適と判断して銀環を取り上げるように。
エリアス自身も薄々察しているのだろう。こちらを寄せ付けまい、必要以上に踏み込ませまいとしているのは明らかだ。やりにくいことこの上ない。
グラジェフがあれこれ考えている間も、当の新人司祭はじっと地図を睨んでいた。ヴィレム司祭が空になった杯を片付けに去ると、エリアスはぽつりとこぼした。
「やはり、そうそう悪魔は現れませんね」
感情を殺したつぶやきの陰に、昏い炎がちろりと踊る。グラジェフは素知らぬふりで苦笑した。
「そうそう出て来られては堪らぬよ。外道と違って悪魔は手強い」
いらえはないが、紅い唇が小さく動いた。知っています、と。
――悪魔。教会が説く地獄よりもなお深い、奈落に棲む邪悪の化身だ。同じ魔のものと言っても、外道のように理性も正体もないものとは異なる。実体は持たないが、確たる人格と理性を備え、しかも往々にして狡賢い。
「悪魔の仕業と判明するのは、ほとんどの場合、犠牲が出た後だ。現れぬに越したことはない。……地図を広げているついでに、聖都へ送る報告書の草案を起こしておいてくれ」
グラジェフは言い置いて、教会を後にした。去り際に一瞥すると、エリアスは生真面目に考え込んでいた。
一歩外に出た途端、ふうっと大きなため息が漏れる。
(強情な娘だ)
ごく自然にそう考え、頭を振って、口に出したわけでもないのに訂正する。強情な若者だ、と。気を付けなければ、うっかり自分の方が秘密を漏らしてしまっては笑い話にもならない。
赤毛の若者エリアス。本名、エリシュカ=ベドナーシュ。
かつては貴族の娘だったが、跡目争いに付け込んだ悪魔の仕業により、親類縁者が殺し合い死に絶えたのだという。教会の記録にも残されている、五年前の出来事だ。
教会の規定では、女は聖職者になれない。理由は聖典中に様々記されているが、要約すれば一言、不適格であるというわけだ。にもかかわらず、彼女を保護した司祭は、性別を偽り聖職への道を進ませた。あまりにも復讐の意志が烈しく強かったがために。
グラジェフが知らされた情報はそれだけだ。事件の詳細や、教会内の誰と誰が秘密を共有しているのか、万一ことが公に露見した時にはどう処理するつもりなのか。一切は藪の中。
保身と日和見ばかり多い上層部にしては、ハラヴァ枢機卿も思い切ったことをしたものだ。彼が長官職を務める聖務省は浄化特使の育成や派遣を担っているから、深刻な人員不足で胃に穴が空いているのだろう。
埋められるならこの際、女でもいい、と開き直ったか。それとも、どうせ無理だろうと思いながら気休めに許可してみたら、予想外にここまで到達したのか。
(実際、よくやっている。女だということを忘れるほどに)
司祭の長衣はゆったりとして体型を隠すが、恐らくどんな服でもほとんど女らしさなどわかるまい。針のように細く尖った身体で剣を振るい、ぬかるむ道を一日歩き通し、木の根を枕に寝むことも厭わない。傷を負ってもめったに苦痛を訴えず、いつの間にか自分で手当し、黙って耐えている。
(あんな若い娘が、痛ましいことだ)
もっとも、当人は同情など欲していまいが。グラジェフは瞑目し、主の加護を願う祈りをつぶやいた。
そうして村長の家へと歩きだしながら、自身に対して皮肉な思いを抱く。
最初、監督対象の新人が二十歳の女だと知らされた時には、とんでもないと仰天した。
規定に抵触するのはもちろんだが、己は貞潔の誓いを立てた司祭である。妙齢の乙女と二人きりで旅などして、誓いを危うくすべきではない。もはや熱情に駆られる若さではなくとも、男は男、女は女なのだ。
過ちを犯さぬ強い精神を持つとの信用あればこそ監督を任されたのだろうが、さりとてやましい感情をいっさい抱かぬとは言い切れない……
蓋を開けてみればこのざまだ。当時の動揺と警戒を思い出すと、失笑がこぼれる。
(私も老けたか)
相手に女らしさがないのは置くとしても、一月あまり寝食を共にして感じるのは、親が子に抱くような懸念ばかりだ。つい手を差し伸べて助けたくなるような。
(親子というほどの年齢差でもないのに……いや、そうか。あり得なくはないな)
今さら計算し、やはり老けた、と実感する。生まれ育った農村では、男も十六、七歳で結婚して子をもうけるのが珍しくなかった。とすればちょうど今頃、自分にも二十歳の娘――もとい息子――がいてもおかしくはない。
そんな人生も、あったかもしれないのか。
何がなし茫然としてから、彼は我に返って頭を振った。腑抜けている場合ではない。つとめを果たさねば。
気を取り直すと、彼は土を蹴る足に力を込めた。