7-1 示唆
七章
閉め切った小屋の中は蝋燭の頼りない明かりしかなく、暗がりが我が物顔でそこかしこを占拠している。激しい雨音と雷鳴に塗り込められて、会話もままならない。
そんな状態でも、美味い食事のおかげで気分はどん底を免れたのだから、店主の信条は正しかったようだ。
早々に夕食を終えると、四人はそれぞれの方法で就寝までの時間を潰した。
ダンカは暗い台所の隅で、ふんふん歌いながら豆を右の壺から左へ移しては戻している。ベルタは久しぶりにきちんと祈りたいと乞い、グラジェフはそれに応えて簡易な礼拝を執り行った。主と聖御子を讃え祈り、信徒に祝福を授ける、それだけの式だが、ベルタは歓喜に涙ぐんでいた。
エリアスは先に屋根裏へ上がり、今夜こそは安眠できるよう、念入りに結界の準備をした。
昨日と同じく道具を用意し場を清め、寝台まわりに取りかかろうとしたところで、彼は例の紐のことを思い出した。作業を中断し、飾り紐を左手から外して鞄のそばに置こうとし……ふと、不審に感じてもう一度手に取る。
何かが気になった。
グラジェフが清めてくれたから、もう一度この紐を楔として悪魔が夢に侵入することはないだろう。気になったのはそうした安全面についてではなく、もっと別の……
と、そこで、ギシギシ階段梯子をきしませて登ってきたグラジェフがいきなり小声で罵った。
「くそっ。忌々しい悪魔め、奈落に失せろ」
彼が乱暴な雑言を吐くのは初めて聞いたもので、エリアスはやや驚いた面持ちで眉を上げる。視線を受けたグラジェフは一瞬ばつの悪そうな顔をしたが、腹立ちがおさまらないようで、結局もう一言二言、信徒に聞かせられない類のあれこれを唸った。
「礼拝を邪魔されましたか」
「いかにも効果的にな。祝祷の最中にダンカが豆をぶちまけた時には、さすがに火を噴きかけた。あの悪魔め」
グラジェフは苦々しく言い、やれやれと頭を振って床に座り込むと、自分の鞄を引き寄せて、ささやかな礼拝に用いた鈴などの聖具をしまった。
「ベルタはまだ、娘は気が触れただけで悪魔憑きだとは思っていない。そうと告げたとしても、悪魔自身が明白に邪悪な言動を示さぬ限り、信じないだろう。強引に祓おうとすれば悪魔はダンカを苦しませ、ベルタが我々を止めるよう仕向けるに違いない」
「ああ……家族に悪魔祓いを妨害されることがあるのでしたね」
エリアスは事例記録を思い出してうなずいた。
悪魔が存在を明らかに見せつけていれば話は早いが、とりわけ狡猾な悪魔の場合、徹底的にその本人のふりをする。乗っ取りにしろ契約にしろ「最近ちょっと言動が怪しいが、まさか悪魔はないだろう」と周囲に思わせておくのだ。
そうすれば誰かが悪魔憑きを疑ったとしても言い出しにくく、特使のもとまで告発が届くのが遅れる。さらに悪魔祓いの段になっても悪魔が演技を続けたら、司祭のほうが無罪の人間を苦しめる悪者にされてしまう。
「どうにかして悪魔の名を聞き出すか、『身代わり』を用意しなければ迂闊に手出しできんな」
グラジェフは唸って眉間を揉んだ。それから顔を上げ、訝しげに瞬きする。
「なんだ、その紐がまだ結界の妨げになるかと案じておるのかね」
「ああ……いえ、そうではなく。ちょっと気になって」
エリアスは曖昧に応じ、改めて紐を両手で掲げた。多色の糸を使った丈夫な組み紐は、模様自体に何かしら意味を込めてあるようにも見える。美しいが、しかし。
「街の誰も、こうした飾りを首に掛けていなかったように思うのです。ジアラス殿は似たものを帯紐として使っていましたが、あれはずっと幅広ですし、他の誰も……少なくとも目立つところには、身に着けていなかった。イスクリで一般的なお洒落であるなら、もっとありふれていて良いのに、おかしくはありませんか」
あるいは服の下、肌身に着けるお守りであったのだろうか。だとしても、襟から出ている部分は見えるはずだが。
彼は思案しつつ、意見を求めて師を見やり、ぎくりと怯んだ。グラジェフの面から表情が消えている。今朝、なぜ悪魔はジェレゾを追い払ったのか、とつぶやいた時のように。
「……グラジェフ様?」
エリアスが呼びかけると、彼はふっとまなざしから霧を払い、小さく咳払いした。
「うむ、どうだったか思い出しておったのだが……確かにそなたの言う通り、気付かなんだな。ただ、食堂の娘が袖を留めるのに、そうした紐を用いていたように思うが。肘の辺りに巻いて結んでいたのではなかったかね」
「言われてみれば、そんなような……」
はてどうだったろうか。袖まくりして忙しく動き回っていた少女の姿は、今日の午後にも目にしたはずなのだが、エリアスは確信が持てなかった。そもそも、飾り紐が袖留めに使われているとしても、ジェレゾの件とはあまり関連がない。首、というか肋骨の間にぶら下がっていたのだから。
(首飾りのようにしていたわけではないのか?)
エリアスがまとまらない思考を整理しようと苦心していると、不意にグラジェフがため息をついた。
「考えるのも調べるのも明日だ、エリアス。嵐がおさまって太陽が姿を現し、魔のものの力が弱まってからにしろ。今はとにかく守りを固めて夜をやり過ごすのだ」
「……はい」
釈然としないまま、エリアスは紐を置き、結界を張る作業の続きに戻った。
風の唸りと雷雨の叫びが続いていたが、疲れた身体は休息を求めて眠りの淵にたやすく沈んだ。そうしてまた、夢が訪れる。ただし今夜は悪夢の気配はない。薄暗く冷たいが、普通の夢だ。
――アレシュ……ねえ、あなたも……じゃない?
少女が遠慮がちに問いかける。優しく親切だった青年はいつしか、頬がこけて眼光ばかり鋭くなっていた。だがそれでもまだ彼は、親類の少女に笑みを見せる。
――大丈夫だよ。
――だけどこんなに痩せて。何か良くないことが起こっているのでしょう。皆、わたしには隠しているけれど。近頃はお父様もお母様も、あまり笑わなくなったわ。
――君につらく当たるのかい。
ぎらりと目が光る。獣のように。少女は一瞬怯み、ごまかすように縮こまって首を振った。
――そうじゃないわ。怒ったり不機嫌だったりとは違うの。ただ、いつも何かを恐れているような、薄い刃の上を歩いているような……。怖いの、アレシュ。こうしている今にも、地面が裂けて屋敷ごと奈落に呑まれてしまうような気がして。
(ああ、その予感は正しかった)
半覚醒の司祭が沈痛に追認する。日常に浸りきって、明日も明後日も一年後も、同じ暮らしが続いてゆくと疑いもしなかった無知が、今さらに恨めしい。なぜもっと早く不穏に気付かなかったのか。
――エリシュカ。大丈夫だ、何があっても君を守るよ。そうだ、うちの司祭から聞いたまじないがあるんだ……
言ってアレシュは少女の額に指先で何かのしるしを描いた。術に集中するあまり、その唇が無意識の動きで言葉を紡いだ。
オマエニシナレテハコマル
そう言ったのだと理解した時、初めて少女は、青年を恐ろしいと感じたのだ……。
(死なれては困る。つまりアレシュは一族を皆殺しにした後、私だけ生き残らせて何かを始めようとしていたのか。それともあれは悪魔の声だったのか)
青年に将来の計画があったのは確かだろう。だからこそ彼は悪魔と手を結んだのだ。そしてエリシュカ一人だけが、喉を焼かれ死線をさまよったものの生き延びた。
過去を振り返るうち、意識の優位が入れ替わっていた。少女エリシュカは灰色の靄の向こうに遠ざかり、司祭エリアスが眠りの縁をゆっくりと逍遙する。
(悪魔との契約はほとんどが、目的のために力と知識を貸す代わりにいずれ魂を喰らう、というものだ。受諾する馬鹿は魂を奪われることの実感などないし、どうせずっと先のことだと思いこむ)
考えながら歩いているうち、いつしか周囲は学院の書庫に変わっていた。通い詰めてすっかり記憶に焼き付いた場所。
(ところが悪魔は契約さえ結べば、あとはさっさとそいつが死ぬように仕向けるのだからな。話が違う、と喚くはめにもなろうというものだ)
ふん、と鼻を鳴らし、書棚から滑り出てきた五年前の光景を叩き戻す。
(……ダンカは、何を目的に契約したんだろう。悲嘆に付け入って優しく慰めた悪魔はまんまと信用を得た後で、何を差し出して契約した? まさか、ずっと慰めてあげる、優しくしてあげる、なんて条件ではなかろう)
するりと飛び出した書物が、君を守るよ、とアレシュの声でささやく。エリアスはそれを押し返そうとして思い直し、手に取った。ぱらぱらと頁をめくると、一葉、また一葉と白い鳥になって舞い上がり、虚空へすうっと消えてゆく。
(君を守る……何から? 苦しみから、夫から?)
ダンカを脅かすのはそのぐらいだ。死んだ娘をよみがえらせてやる、という無理な話で騙したわけでないのは、彼女の言動を見ればわかる。
(とすれば、既に契約は履行されたことにならないか? ジェレゾは追い払われた。ダンカを苦しめるものは、もう何もないはずだが……そもそも悪魔なら、何ものにも苦しめられないように魂を喰らって終わらせてやる、ぐらいの詭弁は使いそうなものだ)
最後の頁が飛び立って、エリアスの手には革張りの表紙だけが残された。それもくたりと萎れ、乾いた砂になって散る。
――君を守るよ。エリシュカ……
過去からのかそけき声。憐れだな、とエリアスはふと思った。誰がというわけでもなく、ただ漠然と。
心弱き人間たちも、そこに付け入って魂を喰らわねばならぬ悪魔という存在も。
(かわいそうでないのは主だけか)
皮肉な笑みが一瞬だけ閃き、消えた。どうでも良い。そんなことより、契約の内容を探らなければ……