6-3 戦う手段
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結果から言えば散々だった。
元は身体を動かすと言えば乗馬だけ、遊び半分に剣術ごっこをしたり取っ組み合いをしたのも遠い昔。そんなお嬢様がたった五年で浄化特使になれるほどまで鍛え上げたのは、確かに驚嘆すべきではあるのだが、十年以上戦いに身を置いている男に太刀打ちできるわけがなかった。
浄化特使が相手にするのは人間ばかりではない。ゆえに学院での教練もグラジェフの稽古も、作法に則った試合とは程遠かった。
切っ先が触れ合ったかと思えば一瞬で刃を巻き上げられ肉薄され、左手で喉元を突いて倒される。かろうじて捌いて逃れ、間合いを取っても、反撃する隙などない。どうやらグラジェフは、攻め方よりまず防御を磨くべきと判断したらしく、容赦ない攻撃を繰り出してくれた。打ち込んでみろ、だとか親切に指南してはくれない。
防戦一方、鋭い突きや斬撃、思わぬところで飛び出す拳や蹴りをかわすだけで精一杯。とうとう一時撤退しようと逃げ出すと、
「《翔けよ隼》」
短い言葉に続いて白銀の矢が足元目がけて放たれた。エリアスはぎょっとなって飛びのき、剣を手放して草の上で一回転する。立ち上がるより先に、追いついたグラジェフがエリアスの肩を蹴倒すふりをした。
「…………」
負け惜しみどころか、声も出せない。エリアスはぜいぜい喘ぎながら師を睨みつけ、ばったりその場に倒れた。無防備な腹を、グラジェフが爪先で軽くつつく。
「どうした、はらわたを引きずり出されたいのか」
「……実戦なら、とっ……くに、全部、撒き散らして……死んでます」
切れ切れに言い、はーっ、と大きく息を吐く。グラジェフはしかめっ面になり、「馬鹿者」と厳しい一言を投げつけた。
「立ち上がれないなら秘術を使え。火花を散らすだけでも、目くらましの閃光でも良い。なんなら膝を砕いてみるか? 魔のもの相手でなくとも効果があると、知らぬわけではあるまい」
「だからです。……まかり間違ってあなたを傷つけたくない」
エリアスは呻きで答えた。そのざまで何を言うか、とばかり鼻を鳴らされる。当然だろう。彼は草に手を突き、ゆっくり用心しながら身を起こした。
「切羽詰まった状態で術を用いて、制御できる自信がありません。あなたなら防げるでしょうが、それでも万が一のことがあれば取り返しがつかない」
「ふむ。……戦いを自分に合わせた流れに持って行き、余裕を持てるよう鍛錬せねばなるまいな。相手の流れを受けてばかりでなく」
グラジェフが剣を鞘に収める。その瞬間、エリアスはこっそりちぎって握り締めていた砂まじりの草を、顔めがけて投げつけた。
「――っ!」
咄嗟にグラジェフが腕で庇う。同時にエリアスは全力で師の足に体当たりした。
やったか、と喜んだのは束の間だった。グラジェフは確かによろけたが、すぐに踏ん張って堪えたのだ。一度安定した体勢を取られてしまうと、もう駄目だった。
今度こそ本当に力尽きて、エリアスはグラジェフの足に抱き着いた格好のままずるっと滑り落ち、地面に突っ伏した。
「惜しかったな。そなたが牛並の体格なら危ないところだった」
笑いを含んだ声が後頭部に降って来る。エリアスはもう顔を上げる元気もなく、平べったくなったまま地を這うように唸る。
「こんなざまでは……悪魔を滅ぼす前に、やられてしまう……」
悔しさに歯噛みする彼の頭のそばに、グラジェフが膝をついてふむと思案した。
「そなたは攻め倒すほうにばかり意識が行きすぎだな。外道相手に剣をふるうのはそれでも良いが、相手が強すぎて防戦にまわった時、あるいは悪魔の策略にはめられた時、どう対応し逃れるかをすぐに考えられぬだろう」
「……はい」
「隼の光矢を避けたのは上出来だったがな。もっと秘術を活用したらどうだ。そなたは体力に劣る。最初から剣を使って息切れしてから術を使うのでは、余裕もあるまい」
もっともな助言だが、エリアスは受け入れられず沈黙した。
司祭の用いる秘術は基本的に、癒しの術か、魔のものに対抗する術かの二通りだ。魔道士のように、水を毒に変えたり、火種もないのに物を燃やしたり、風の刃で人を斬り裂いたり、といったことはできない――しない。
それらは悪しき魔術であり、忌まわしき過ちの残滓だから。一般司祭には習得が許されず、特使でも踏み込んだ知識まで学ぼうと思ったら、相当な実績と信用を積まねばならない。なにしろ、名を呼び唱えるだけで相手の肉体と霊魂とを切り離し、死に至らしめる術まであるのだ。
ではそうした危険な術でなければ人間を傷つけないのか、といえば、やはり否である。癒すことができるのだから、損傷を与えることもある。魔のもののように白煙を上げて消滅したりはせずとも。
すなわち、秘術は何であれ人に対して安易に使うべきではないのだ。
エリアスは無言のまま、のろのろと起きあがって地べたに座り直した。グラジェフが軽く頭や背中をはたき、髪や服についた草と土を払ってくれたのは、もしかして子供扱いされているのだろうか。ありがたいよりも情けない。
うなだれたエリアスの傍らで、グラジェフが吐息のようにささやいた。
「あまり声を出したくはないのだろうがな。そうも言っておれまい」
「はい。街で痛感しました」
パン屋でも教会でも、第一声でぎょっとされ、それこそ悪魔を見るような目を向けられた。しかし無言では何もできない。エリアスはほろ苦い笑みを浮かべた。
「まだ外道どもはいちいち嫌な顔をしないぶん、気楽ですね。……ダンカの様子は?」
「変わりないな」
グラジェフはちらりと女の姿を一瞥して答えた。
「我々を脅威と捉えていないのか、聖霊様にごまかされているのか。悪魔のほうも、我々が契約者の命もろとも滅しにかかることはないと知っているのだろう。引き剥がしの準備にかかる気配が見えたら、ダンカを言いくるめて逃亡させるつもりやも知れぬな」
「まさか」
言いさしてエリアスは言葉を飲み込んだ。なんだ、と問うようにグラジェフがこちらを見たが、視線を受け止められずうつむく。
――まさか、逃がしてやるつもりではないでしょうね。
そう言いかけたのだ。とんでもない侮辱だというのに。
(だが今の声音は、あまりにも穏やかすぎた)
顔を伏せたまま唇を噛む。言いがかり同然の思い込みだ、と理性が否定しても、瞬間に抱いた確信は消えない。あの口調には、悪魔の逃亡を阻止せねばという警戒など微塵もなかった。むしろ彼は、悪魔が逃げてくれることを望んでいるに違いない。
(私はまだ惑わされているのか。それとも)
己の直感が正しく、グラジェフこそが悪魔に惑わされているのだろうか。今回の悪魔は顕示欲が強くない、などと言ったりして。まさか。いやしかし。
エリアスは無意識に手を固く組み、額に当てていた。
(主よ、お導きを)
切実に願うと同時に自嘲が込み上げ、喉が苦味でざらついた。今さら主に縋って何の助けが得られるというのか。とうに見放され、教会の規定に背き、復讐のために神秘の力を利用しているだけの分際で。
(……だがグラジェフ様もおっしゃった。祈りとは神にあれこれを寄越せと要求するものではない、心を安定させ《聖き道》につなぎとめるものだ、と。ならば祈りで動揺を静め、冷静な判断力を取り戻すというのも構うまい。大丈夫だ、惑わされてなどいない)
よし、と息を吐いて顔を上げる。途端に不穏なものが目に入った。山の峰を覆う黒雲だ。エリアスは顔をしかめ、急いで立ち上がった。
「荒れそうですね」
「うむ。山の天気はこれだからな……ダンカを見ていてくれ」
グラジェフが言って、小屋へ急ぐ。母親を呼んで、娘を屋内に入れさせようというのだろう。エリアスはほっとして、放り出したままだった剣を拾うと鞘に収めた。
急激に暗くなる空にもかまわず、ダンカは座り込んだまま動かない。よく平気なものだ、とエリアスはこめかみを揉んだ。雨が近付くと気分が悪い。
遠くで雷が鳴り始めていた。