6-2 報告
グラジェフは思わず若者と顔を見合わせ、苦笑する。エリアスのほうは笑うどころか渋面になった。
「ずいぶん悠長に構えてらっしゃいますが、危ないところだったのでは?」
「なに、さほどではなかったとも」
「……私には、悪魔に絞め殺されかけたように見えましたが」
「そうではない。確かに悪魔は挑発しに来おったが、何もできなんだよ。退去令だけで簡単に引っ込んだ、小物だ。さすがに祓うまでには至らなかったがな。その後で少しダンカと話していたのだが、どうやら触れてはならん傷に触れてしまったようだ。やはりジェレゾが絡む事柄は聞かせぬほうが良かろう」
そちらへ話を進めるつもりはなかったのだが、思いがけない流れで、ダンカの精神の危うい均衡が傾いてしまった。
グラジェフは具体的な会話内容を教えなかったが、エリアスは敏感に察したらしい。眉をひそめて、今度はいくらか憐憫のこもったまなざしをダンカに向けた。
「よほど、夫には泣かされたのでしょうね」
何やら含むところがありそうな声音だ。グラジェフの疑問顔に答える前に、エリアスはベンチに腰を下ろした。その拍子に指先に触れた水碗を何気なく取り上げ、半分ほど残っていた中身を一息に飲み干す。おやおや、とグラジェフは失笑した。
「もう一杯要りそうだな」
「え? あっ……失礼しました!」
言われてやっと、師の水を断りもなく飲んだと気付き、エリアスは弾かれたように立ち上がった。構わんよ、というグラジェフには目もくれず、ばたばた走って新しい水を汲んでくると、頭を下げて差し出した。
グラジェフはしかつめらしく礼を言って受け取ると、エリアスにも座るように促した。頑なにこちらを寄せ付けまいとしていた若者が、いつの間にやらすっかり気を許しているのが微笑ましく、つい頬が緩みそうになる。喉は渇いていなかったが一口飲んで表情を隠し、気持ちを切り替えた。
「……さて、収穫はあったかね。どうやらジェレゾに関して良からぬ噂でも耳にしたようだが」
「ええ、まあ」
エリアスも厳しい面持ちに戻り、眉間を揉んで思案してから声を低めて話しだした。
「実家のパン屋に行きましたが、やはり匿ってはいないようです。食堂のあるじも、街でジェレゾを見かけたという話は聞いていないそうですが……仮にジェレゾが街に下りたとしても、実家の敷居をまたげなかったでしょうね。鼻つまみ者扱いでした。実の両親からああも貶されるとは」
信じられない、とばかり首を振る。いわく、気が利かない、何をやらせても要領が悪い上にいいかげんで粗雑、的外れな受け答えで客を怒らせる……奇跡的に婿入り先を見つけて出ていってくれて心底ほっとした、等々。
「今はもう長男夫婦が跡取りとして一人前になっているから、仮にジェレゾがのこのこ帰ってきたとしても居場所など与えない、と言っていました。念のためにあの紐を見せて覚えがないか訊きましたが、何も」
エリアスは首を振り、袖の上から左手をさすった。グラジェフはふむと唸って、歌う女の姿をちらりと見やる。
「何かしら美点があればこそ、ダンカの夫として迎えられたのだろうにな」
「食堂のあるじも、一応は認めていましたよ。根は善良で、妙に純真というか素直な男だった、とか。しょうもない奴だとは言ったが、行方が分からないというのは気になる、無事だと良いが……そんな風に。取り立てて好かれはしないが、死なれると後味が悪い程度には善人だったようです」
「なるほど。それでこんなにどっさり持たせてくれたわけかね」
グラジェフは納得し、籐籠を開けた。切り目を入れた丸パンにチーズと燻製肉と漬物野菜を挟んだものが四つ。陶器の保存瓶には腸詰と豆の煮込み。なんと、干し杏や葡萄、胡桃などを贅沢に練り込んだ、ずっしり重い焼き菓子まである。
「こんな美味そうなものを客から隠しておったとは、けしからんな」
グラジェフがおどけて言うと、エリアスは胡乱げに眉を上げ、意見は差し控えて淡々と報告を続けた。気を許してはくれたが、愛想はまた別料金らしい。
「食堂のほうで得られた収穫は、ジェレゾを見かけた者はいないこと、イスクリから出たきり戻っていない住民は恐らくいないこと。あとは、目新しい知識やおまじないの類は取り立てて噂になっていないようだ、というぐらいですね。少なくとも、質問してすぐに皆があれかと思い当たるような規模では、流布していない。ダンカが山からほとんど下りていないおかげでしょう……そもそも正気でないから、大勢に対して知識をひけらかそうとか、神秘の力で人を支配しようとかいった方向に行かなかったのが幸いしました」
言葉尻で唇を噛む。己が一族を滅ぼした悪魔の所業を思い出したのだろう。グラジェフは見ないふりで同意した。
「普通は悪魔どもは顕示欲が強いものだが、今回は小物だからか、やや事情が違うな」
もしかしたら、あるいは、望みがあるのではないか。どうにかしてダンカの口から、聖霊様の助けはもう必要ない、と言わせることができたなら、悪魔が執着を失って自ら離れることも……
(どうやってだ? 母親も夫も、地元司祭も彼女の助けになれなかった。今は悲嘆がおさまっているとは言え、それは悪魔の与える甘い毒が効いているからにすぎない。悪魔と切り離した後の支えになれるものが何もない)
主の救いも、聖御子の教えも、もはや無力だ。魂を損なうと承知で、力ずくで引き剥がすほかに手はない。結局ダンカ自身を救うことはかなわずとも、悪魔を滅して被害の拡大を防がねばならないのだから。
(情けない。水に落ちるなと言うばかりで、落ちた者を引き上げられぬとは)
沈痛に考え耽っていたグラジェフは、はたと我に返ってエリアスを見た。途端に、抉るような視線に出くわして怯む。若者は口をつぐんだきり、じっとこちらを観察していたのだ。
グラジェフは咳払いして取り繕った。
「私が言った事は忘れず片付けたようだが、他には?」
「教会へ行きました。ジアラス殿に報告を」
「ふむ」
よろしい、とグラジェフはうなずく。エリアスは喜びも反発もせず、素っ気ない態度で続けた。
「悪魔憑きに間違いないから、『身代わり』になるものを探しておいてほしいと頼んでおきました。名付けの祝福の際に臍の緒を納める親が多いから、恐らくダンカのものもあると思う、とは言っていましたが……見付かるかどうか」
エリアスは眉を寄せて唸り、頭を振った。
「悪魔祓いを行う場所についても相談してみましたが、駄目ですね。ジアラス殿が言うには、ダンカを礼拝堂まで連れて来るのは無理だろう、と。本音はたぶん、連れて来ないで欲しいんでしょう」
「悪魔が怖いから?」
「むしろダンカ本人に怯えています。ヤナの葬式の時に、相当……痛手を被ったようなことを仄めかしました。だから、教会に連れて来てはかえって手がつけられなくなる、そっちでやってくれ、というような調子でしたね」
「はて……私の記憶違いかな。葬式の後しばらくは悲嘆がひどく近寄れなかった、が、一度だけダンカ一人で教会に来た、と言っていなかったか?」
グラジェフは首を捻る。エリアスも「ええ」とうなずいた。
「私もそれが疑問だったんですが、確かめられる雰囲気ではなくて。恐らくその時にも、脅かされたか手こずらされたか、何かあったんでしょう。ヤナを返せと言って墓を荒らそうとしたとか、なぜ主はお救いくださらなかったのかとなじって責め立てたとか」
いかにもありそうな場面を例に挙げつつ、しかし自分でもどこか納得していない表情だ。グラジェフも嫌な感じの引っかかりをおぼえつつ、ひとまず立ち上がって食料の籠を取った。
「まあ、そういうことなら致し方あるまい。ご苦労だったな、エリアス。これをベルタ殿に渡して来るから、休んでいろ。足が動くようになったら、久しぶりに手合わせをしようか。そなたはもう少し、防御のわざを鍛錬したほうが良さそうだからな」
飴と鞭を同時に使われて、エリアスは複雑な顔をしたものの、お願いします、と素直に応じた。浄化特使が身体を鈍らせてはならない。
とは言え、彼はやや不安げにダンカのほうを見やってささやいた。
「……大丈夫でしょうか」
魔を滅する神銀の剣を見せつけて、悪魔が極端な反応を示しはすまいか、と言うのだろう。新人が抜かりなく危険を予測したので、グラジェフはにんまりした。
「なに、それを調べるためでもある。せいぜい格好の良いところを見せてやれ」
おどけて挑発した先達に対し、生意気な若者は肩を竦めて不遜な言葉を返した。
「悪魔に舐められたくありませんからね。遠慮なく行かせてもらいます」