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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第一部 主の御手が届かないなら
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6-1 小手調べ

   六章



 エリアスがすっかり錆びついた会話交渉術に悪戦苦闘している頃、山に残ったグラジェフはというと、久方ぶりの土いじりを楽しんでいた。春先なので、ちょうど色々と野菜の種を蒔く時季だ。

 武装は外して身軽になり、鍬で土を掘り返したり畝をつくったり、厄介な雑草を抜いたりといそしむ。特使として身体を鍛えてはいるが、普段まったくやらない作業をすると、それなりに疲労を感じた。とはいえ、生産的で心地良い疲れだ。


 丸太のベンチに腰を下ろして一服し、湧き水を堪能していると、ダンカが歌いながら近くへやって来た。左手にはそこいらで摘んできた花が握られている。似た色ごとにまとめて、長さまできれいに揃えられているのは、機織りの名手だったという名残りだろうか。

 相変わらず銀の靄が、たおやかな身体を薄く取り巻いている。グラジェフはもの悲しい気分でそれを眺めた。


「ダンカ。……そなたは今、幸せかね」

 問いかけとも独白ともつかないまま、声を漏らす。ダンカはぴたりと動きを止め、一呼吸置いてくるりと向き直った。

「しあわせ? それって何かしら。ヤナはしあわせなんですって。楽園のお姫さま、あたしを待ってるの。あなたは誰かが待ってるかしら。そうだわ、これをあげる」


 ゆらゆら身体を揺らしながら歩み寄り、一輪の花を抜いてグラジェフの膝に落とす。黄金の蝶に似た花、金翅草。解毒薬として一般的な薬草だ。活力の象徴たる黄色が滋養強壮に良いとも言われる。

 これは偶然なのか、それとも悪魔の嫌らしい皮肉なのか。グラジェフは複雑な表情で花を掲げてしげしげ眺め、しかつめらしく礼を言った。


「ご厚意かたじけない。良い花をありがとう」

 感謝されたダンカは、ぱっと嬉しそうな笑顔になる。

「いいお花、キンシソウはいいお花ね。おなかが痛いのはみんなこれで治るのよ」

「ほう。聖霊様から聞いたのかね」

 グラジェフは自然な世間話の口調を保ち、金の花弁にそっと息を吹きかける。微かな言葉を忍ばせた呼気を。ダンカは「そうよ」と楽しげに肯定した。

「物知りな聖霊さま。泣いてる子には優しいの」

「そなたはいつも、聖霊様、と呼ぶのかね。お名前があるだろうに」

 グラジェフは微笑を崩さぬまま問いかけた。


 直後、ダンカが身体を揺らすのをやめた。彼方を見ていた碧玉の瞳がぎょろりと動き、司祭の眉間に焦点を結ぶ。それから彼女はぎこちなく軋むような動きで屈み、グラジェフの顔を覗き込んだ。


「無駄だ」


 低く嗄れた声が歯の間から吐き出される。エリアスの声を聞き慣れていてさえ、背筋に悪寒が走るような不気味さだった。グラジェフもまた笑みを消し、女の双眸の奥に潜むものを射抜くがごとく見据える。

 司祭の厳しいまなざしにも女は怯まず、むしろ嘲笑うように唇の両端を吊り上げた。


「おまえにこの女は救えない」


 悪意と蔑みに満ちた断言は、しかし、グラジェフの心に何の痛みも与えず通り過ぎた。彼は微動だにせず、瞳を揺らす異質な光を睨んだまま応じる。

「そなたとて救えぬ。立ち去れ、悪魔よ。今なら見逃してやる」

 はっ、と悪魔が笑った。驚いたふりで身を離し、初めて人間を目にするかのようにグラジェフを眺める。

「本気か? 見逃す? ご立派だな、哀れな女の支えを取り上げて放り出す、無慈悲無能のふるまいをそう言い繕うか」

「そなたは支えてなどおらぬ。そなたが与えるのはごまかしに過ぎず、救いでも癒しでもない。緩慢な死だ。ゆえに命じる、今すぐに去れ」

 多くの悪魔を退けてきた男は、侮辱されても取り合わない。女の顔が憎々しげに歪んだ。

「そうやって貴様らは正義面をする。救えもしないくせに魂を奴隷に落とし、従え、罰する。優しさの欠片も与えずに。いいや、我は去らぬ。我こそがこの女を護っているのだ。貴様ら邪悪な司祭からな! 貴様こそ尻尾を巻いて帰るがいい!」

 敵意と抵抗を宣言する悪魔に、グラジェフはもはや問答を打ち切った。手にした花をつと掲げて唱える。


「《悪魔よ(ダイヴァ)主のものから手(マゥサ・アヴァラディ)を離して去れ(・パティヤイェファ)》」


 銀環から引き出された光が指を伝い花を揺らす。黄金の蝶がはばたき、茎を離れて舞い上がるなり女の眉間めがけて鋭く飛んだ。

「シッ!」

 女は猫の威嚇じみた声を発し、ぱっと退く。きらきら光る燐粉の筋を引いて、蝶はそのまま空高く昇ってゆく。

 茫然とそれを見送っていた女が顔を下ろし、振り向いて無邪気に笑った。


「きれいなちょうちょ! すてき、きらきら!」

「気に入ったかね。それは良かった」

 グラジェフも目元を緩め、温かく微笑む。ダンカはもう見えない蝶の後を追うように、右手を空へと伸ばした。

「ちょうちょ、お空に行ったのね。ヤナのところへ行ったかしら? あの子はさびしくないかしら」

「ああ。きっとヤナも喜んでいるだろう」

 しみじみと無垢な魂を思いやって同意したグラジェフだったが、予期せぬ反応が返って来た。子を喪った母は不思議そうに彼を見て、悪気なく問うたのだ。


「あなたに、子供のことがわかるの? いないのでしょ」


 防ぎようのないところを突かれ、独身である司祭は怯んだ。

 司祭になるには貞潔の誓いを立てねばならない。妻と死別した後に聖職の道に入った者を除けば、子を持つ司祭はいないのだ――少なくとも、規定上はそうなっている。現実には必ずしも誓いが守られているわけではないが、グラジェフ自身は破ったことはない。


「……我が子はおらぬが、さも同然に気にかける者はいるとも」

 なんとかそう答えて逃れる。

 彼は土地付き司祭と違い、住民から夫婦問題を相談されて「どうせわからないでしょ」と非難されるはめに陥ったことはないが、それでもたまに、独身を理由にチクリと刺されたりはした。

 そんな時はいつも、人間は等しく神の愛し子であり、司祭もまた人々を我が子のように庇護し導くのだ……という論を持ち出すのだが、今のダンカにそれを言うのはいささか危うい。


「でも、あなたの子じゃないでしょ? あなたが産んで、お乳を飲ませた子はいないのだから、なんにも知らないでしょう」

 ダンカは首を傾げ、抑揚をつけて言った。責めるのでも喧嘩腰でもない、単なる疑問だけの声音なのが、かえって不穏だ。グラジェフは苦笑してごまかそうと試みた。


「それはさすがに、生まれつきどうしようもないことだよ、ダンカ。私は男で、女と同じことはできぬし、そなたが乳を含ませた子にかける想いを完全に間違いなく理解するというのも無理だろう」


 それでも共に幼子を思いやることはできる――とまで言うことは出来なかった。ダンカがいきなりバサリと花を落とし、両手をわななかせて彼に詰め寄ったのだ。


「あなたもなの? 男だから。あの人とおんなじなの? ヤナ、あたしのヤナはあの子だけなのに、あなたも」

 顔面が異様にこわばり青ざめて、今にも何かの発作を起こして大暴れするか、さもなくば卒倒しそうだ。グラジェフは危険を感じ、銀環に手をやった。

 緊張が高まり、ダンカの両手が震えながら司祭の喉へと伸び――


「グラジェフ様!」


 ビクン、と跳ねて引っ込んだ。振り向いたグラジェフの視線の先で、斜面の下から赤毛の頭が覗き、続いて若者の姿が現れる。行きにはなかった大きな蓋つき籠を提げ、肩を上下させながら、エリアスはよろよろ急ぎ足にやって来た。


「これはまた、随分と買い込んできたものだな」

 グラジェフは何事もなかったように朗らかな声をかけたが、手伝おうとはしない。若者のほうを向いたまま、ダンカの次の動きに警戒しているのだ。エリアスもそれは承知のようで、怒ったような顔をしているものの、厳しいまなざしは師を通り越して女に突き刺さっている。


「ただいま戻りました。あの食堂のあるじ殿が奮発してくれたんですよ」

 報告しながら籠をベンチに置く。ピリピリした気配を隠しもしない。まともに敵意を向けられたダンカは、しかし、ただ放心した様子で突っ立っていた。


 ややあって彼女は何かが聞こえたように宙を見上げて瞬きし、踊るように若者のほうへ歩み寄った。グラジェフが腰を浮かせ、エリアスもぎょっとする。逃げるならまだしも近付くとは予想外だった。あまつさえダンカは、にこにこしながらついと手を伸ばして、赤毛の頭を軽く撫でたのだ。


「いい子、いい子。聖霊さまは、泣いてる子には優しいのよ」

「――っ!」


 エリアスは反射的に手を叩き落とそうとして、ぎりぎりで堪えた。ほう、とグラジェフは感心する。どうにか暴力を抑制した若者は、不機嫌に頭を振って拒絶し、一歩離れてじろりと女を睨みつけた。


「あら。あら? そう、じゃあ、さようなら」

 ダンカは碧い目をぱちくりさせ、口を尖らせて残念そうな顔を作ると、くるりと背を向けてどこへともなく歩きだした。地面に散らばった花など目に入らないのか、自分が摘んだことも忘れ、いとも無頓着に踏みつけて。

 彼女は少し離れたところまで行くと、ぺたんと座り込み、体を揺らして歌いだした。そのまま動きそうにないと判断すると、二人の司祭は揃ってふうっとため息をついた。


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