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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第一部 主の御手が届かないなら
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5-3 悲しいのもつらいのも


 エリアスはまず食堂に向かうことにした。昨日の今日だから情報収集については期待していないが、忙しい昼時に重ならないようにと配慮したのだ。何か持ち運べる食料を頼んでおけば、帰りに受け取れるだろう。

 店はまだ準備中だったが、表を掃除していた少女が彼を認め、すぐに店主を呼んでくれた。


「今日はお一人なんで? まぁ、立ち話もなんですから中へ入ってくんなせえ」

 通りの左右にさっと目を走らせ、店主は警戒した様子で言う。どうも雲行きが怪しい。エリアスが促されるまま敷居をまたぐと、店主はそのまま彼を奥へ行かせた。どうやら外から見えるところにいて欲しくないらしい。

 薄暗い隅の席に、半ば押し込まれるようにしてエリアスが座ると、店主は卓を挟んで向かいにどっかり腰を下ろした。


「昨日はあの後、山のほうに行きなさったそうですね。やっぱり、ダンカを捕まえに来たんですか」

 声を低めて切り出した店主に、エリアスはちょっと眉を上げただけで答えなかった。誰に悪魔憑きの嫌疑がかけられているか、そう簡単に教えられるわけがない。すると店主は渋面になって続けた。

「かわいそうな女なんですよ。気が触れちまったのも子供が死んじまったからです。そっとしといてやってくだせえ」


「あなたはダンカと知り合いなのか?」

 エリアスは嗄れ声が目立たぬよう、そっとささやく。店主は一瞬ぎょっと怯んだものの、質問には正直に答えた。

「ただの顔見知りってぐらいですがね。街の者はたいがい、ダンカのことは知ってまさぁ。機織りの名人だし美人だし、ベルタのほうも若いころはたいそうなもんでしたから。あの母娘が礼拝に来る時は、街の男は皆いそいそ教会に向かったもんですよ。まぁ、美人だからってんじゃありませんがね……ダンカはなんも悪さしちゃいませんよ」

「それを決めるのはあなたではない」

 冷たく硬い氷の声音で応じてやる。一段と渋い顔になった店主に対し、エリアスは無表情に問いかけた。

「彼女がおまじないを使ったという噂を聞いたのだが。そのことは皆に知れているのか」


「おまじない? いや、知りませんな。意味のわからんことを歌ってるって噂は聞いてますがね。昨日お尋ねになったような、変な話は入ってきてませんよ」

 店主は明らかに機嫌を損ねてしまった。嫌々そうに答え、ため息をついて「なぁ」と身を乗り出す。

「司祭さん、あんた若いから真面目なんだろうけどな、世の中にはつつき回さないほうがいいことってのもあるんだよ。皆が皆、教会の教えの通りに清く正しく間違いなく生きられるもんじゃない。なんでもかんでも決まりを押しつけりゃ、ちゃんとするってもんでもねえんだから」

「知っている」

 ぴしゃりとエリアスは遮った。俺は年長で世間ってものをわきまえているんだぞ、とばかりの押しつけがましい説教など、鬱陶しいだけで時間の無駄だ。


「変な話は入っていないと言ったが、行方知れずの男についても情報はないか。ダンカの夫が山小屋から逃げたそうだが」

「ジェレゾが?」

 店主は声を大きくした。演技ではなく、本当に初耳だったらしい。驚いたせいで若者の無礼に対する怒りも忘れたか、舌打ちして頭を振った。

「あの野郎、前々からしょうもない奴だと思ってたが……逃げやがったのか。じゃあ今は、ベルタが一人で娘の面倒見てんのかい? ああ気の毒に」

「そうだ。あなたも知らなかったということは、街でジェレゾを見かけた者はいないんだな」

「俺のまわりじゃあ、そういう話は聞かんな。ジェレゾが逃げたんなら、シモンのとこに戻ってるんだろうが、さすがに恥ずかしくて表通りを歩けねえんだろうよ」


 シモンというのは父親だろう。後で訪ねて確認したい、と言ってパン屋の場所を教わると、エリアスは席を立った。

「帰りにもう一度寄るから、山に持って行けるような食べ物を何か見繕っておいてくれないか。ベルタのところで世話になっているから、都合四人分」

「ああ、お安いご用だ。気の毒なベルタとダンカには、美味いもん食わせてやらねえとな。悲しいのもつらいのも、時が経てばいつかは癒える。それまでは、とにかく美味い食い物が一番の薬だ」

 うむうむ、と店主はまた人生哲学を披露する。あの滋味たっぷりの料理を作っただけはある、とエリアスは口元をほころばせた。

「よろしく頼む。……念のために訊くが、他に行方知れずだとか、街から出て行ったきり戻っていない男はいないか。東ではなく、南へ」


 店主は若者の意外な笑みに面食らって瞬きしたが、ちょっと考えて首を振った。

「昨日、店を閉めた後で、自警団にも訊いてみたがね。ほら、町に入る時に橋のたもとで棒持って見張ってる奴がいたろ? え、気付かなかった? ……まぁとにかく、一応連中が人の出入りを見てるんだよ。だが心当たりはないって話だったな。南ってんなら、なおさらだ。リブニ村に行く道だろ? あっちは向こうから来るのは時々あるが、こっちから出てくのは滅多にないからなぁ。みんな東へ行くんでね」

「そうか。ありがとう」


 エリアスはひとまず礼を言って外へ出た。様子を窺っていた少女が不安そうだったので、にこりと笑いかけてやる。途端に少女は頬を染めてはしゃいだ。

「また来てくださいね!」

 帰りに寄るよ、と答えかけて、エリアスは声を飲み込んだ。無言でうなずいてちょっと手を挙げ、立ち去る。鴉のごとき嗄れ声を聞いた少女がぎょっとするのは、目にしたくなかった。


(あんな可愛い子を、怖がらせたくないものな)

 自嘲と寂しさのまじった微苦笑をこぼす。同時にちくりと茨の棘が胸を刺した。いかにも無垢で可愛らしい少女。己が失ってしまったもうひとつの人生。

(考えるな。今の私は司祭エリアスだ)

 恐らくこの先もずっと。悪魔を殺し尽くすまで。


 感傷を振り払い、現在の問題に意識を切り替える。とりあえず第一の課題はこなしたが、既に疲れを感じていた。知らずため息をつく。

 そうと自覚せぬまま、ここまで随分多くをグラジェフに頼ってきた。独りで思うさま悪魔を狩って回れるようになるための踏み石にさせてもらう、などと、己の望みしか見ていなかったことが今更に恥ずかしい。

 上ばかり睨んで、足元がどれほど脆弱か、誰が支えてくれているのか、見ようともしなかった。

 五年前に助けてくれた老司祭や、便宜をはかってくれた枢機卿だけでなく、今後はグラジェフにも相応に感謝せねばなるまい。

 ひとしきり反省すると、彼は気を取り直して教会に足を向けた。


(ジェレゾの姿は街で見られていない。南に出て行くところも。身を隠せ、と命じられていたのなら人目を避けて移動したのも不思議ではないが……可能なんだろうか?)

 術に反して森から出ようと道端まで近寄って来たぐらいだ。無理やり町から出るよう動かされて、相当騒いだのではなかろうか。それとも、町を通らず山から森を突っ切って行かされたのか。

 どことなく引っかかるものを感じながらも、その正体がはっきりしない。彼は眉間に皺を寄せたまま、ジアラス司祭を訪ねた。


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