5-2 疑い
様子のおかしいグラジェフを悪魔憑きと一緒に残して行くのは気がかりだったが、二人揃ってここを離れてしまうのもやはり危うくはあるので、致し方ない。
エリアスは漠然とした不安を抱えたまま、一人で街へ降りた。頼まれた用事はどれも必須だが、他にすべきと思われることをせよ、と言うからには当然、やっておいたほうが望ましいことがあるに違いない。
道すがら、彼はそれについて考えようとした。
(教会に行ってジアラス司祭に報告をしなければ。協力も頼んでおこう)
もし上手くいってダンカを教会に連れて行けたら、悪魔祓いをするにはそのほうが都合がいい。山小屋でもむろん可能だが、礼拝堂は常から清められた場であり、悪魔を弱らせ司祭に力を与える。少なくとも学院ではそう教わった。
(あの教会にそれを期待できるかどうか怪しいが、浄化特使ではなくとも司祭がもう一人いればそれだけ戦力になるし)
悪魔と戦い滅するわざを修めておらずとも、一般の司祭も清めの聖句ぐらいは使える。
(あとは……)
何をしておくべきか思いつかず、思考がとりとめなくさまよう。そして勝手に、今朝の夢へと戻っていった。
――かわいそうに。
差し伸べられる、目に見えない手。優しさの記憶が鮮烈によみがえる。彼は身震いして唇を噛みしめ、痛みで理性を保とうとした。
(悪魔のくせに人を憐れむなど!)
息を吹き返した憤激につられて荒々しい足取りになった途端、窪みにつまずいてつんのめった。危うく足を捻りそうになり、ひやりとしつつ体勢を立て直す。重い荷物は小屋に置いてきたから、身軽で助かった。
心と歩調を乱して山道を下るのは危険だ。エリアスはふうっと深く息を吐いた。頭に上った血を落ち着かせながら緑の斜面を振り仰ぎ、ぼんやりと思い返す。
出発する時、ダンカは例によって無意味な歌を口ずさみながら、母親に誘導されて畑仕事をしていた。どうやっても機織りをさせるのは無理なのだ、とベルタは疲れた様子で二人の司祭にささやいた。泣き暮らしていた頃のダンカが、手を血塗れにしながらめちゃくちゃに壊してしまったのだ。まだジェレゾがいる頃で、彼はどうにか修理しようとしたらしいのだが、ダンカは凄まじい剣幕で夫を罵り、人殺しだの悪魔だのと喚き散らし暴れて作業を妨害したという。
――こんなものがあったから、ヤナは死んだのだ。こんな悪魔の道具があったから。
(むちゃくちゃな言い分だ。正気の沙汰じゃない)
どう考えても、子供から目を離して機織りに熱中していたダンカ本人の過失だ。加えていくつかの不幸な偶然と。幼児がたやすく死ぬことは、悪魔を持ち出すまでもない。だがその事実を、彼女の心は受け止められなかったのだろう。
(そこに本物の悪魔が付け入った。かわいそうに、と言って)
ちっ、と舌打ちする。嘆き悲しみ、弱っている時に優しくされたら、それが善か悪かなど考えもせずに縋り、すべてを委ねてしまう。人間の限界であり、愚かだと非難できるものではないが、教会の教えではそういう場合までも、誘惑に屈して《聖き道》を踏み外した、ということにされてしまう。
エリアスはむっつり眉根を寄せた。そんな非難は、特段不幸に遭ったわけでもないのに堕ちたアレシュのような輩にこそ当然であれ、ダンカに向けるべきものではない。
彼は自分が正式な司祭ではないことを密かに感謝した。魔を滅するだけでなく人々の魂を導く役目まで負っていたなら、心情的に納得いかないまま、教会の説くことわりを押しつけねばならなかったろう。
(……グラジェフ様の態度が妙だったのは、そのせいだろうか)
あの先達もまた、司祭としての義務と一個人としての感情の板挟みになっているのではなかろうか。そしてより強いのは感情のほうなのでは?
なぜ悪魔はダンカの夫を追い払ったのか。そんな問いかけを発し、エリアスの答えに対して、心が抜け落ちたような確認のいらえをこぼした。理屈ではそういう答えしか出せない、出すべきでない、仕方ない、とばかりに。
(まさか)
不穏な考えが浮かびかけ、エリアスは頭を振った。
まさか、本当に悪魔が優しさゆえにダンカを救ったとでも?
(あり得ない。あの方は過去に何度も悪魔と対決し、祓ってきたんだぞ。夢で悪魔が仕掛けてきたことについても、そうやって弱みを突くのだと、それが悪魔の恐ろしさだと言ったじゃないか。まかり間違っても、悪魔を肯定するなんてはずがない)
だがそれにしては、悪魔憑きではない可能性にこだわっていなかったか。悪魔の仕業と知りながら、見逃せるものなら見逃そうとしていたのでは?
無意識に銀環を握りしめ、刻まれた紋様を指先で確かめる。このまま考えを進めてはいけない。
(いや……違う、惑わされているのは私のほうだ。私こそが動揺してこんなことを……くそっ、これが悪魔の狙いだとしたらまんまと罠にかかっているじゃないか。忌々しい!)
信頼すべき先達に疑いを抱くとは。それもこれも、あんまりあの声が優しかったから。
夢の中で抱いた確信は、目覚めた後までも尾を引いている。あれは母の声だ、慈しみ慰めてくれる存在だ、邪悪なはずがない――やれやれまったく、すっかり魅了され虜になっているではないか。
「悪魔は善意と優しさを装って忍び寄る」
エリアスは声に出してつぶやいた。喉の違和感、耳障りなざらつく声が五年前の記憶と怨みを呼び覚まし、彼はほっとした。騙されてはならない。
(あれほど必死で学んだというのにな)
自嘲の笑みが唇をかすめた。浄化特使になるため、一年一日でも早く学院を出るために、人の何倍も勉強した。神秘の言語を学び、聖典も、その解き明かしを集めた書も、暗記するまで読み込んだ。何より、悪魔に関する記録は閲覧可能な限りのものを貪り読んだ。
どの報告も繰り返し説いていた。悪魔の真の恐ろしさとは、忌まわしい知識や力そのものではなく、人の心を惑わし歪める手口なのだ、と。
――そんなことは百も承知だ。
私はアレシュの変化を目の当たりにし犠牲になったのだ、悪魔がいかに危険で穢らわしいか知りすぎるほど知っている。甘い誘惑など見え透いているし、詭弁に引っかかりもしない。そう信じ込んでいた。
(思い上がりだった)
相手が悪魔だと認識する間もなく、簡単にころりと騙された。まったく情けない。
エリアスは両手で顔をこすって息を吐くと、慎重に山道を下り始めた。
せっかく勉強したのだから、慢心に陥るばかりでなく、ちゃんと知識を使わなければ。気持ちを立て直し、悪魔祓いの手順をおさらいする。
(第一段階、見極め。看破の術を用い、悪魔憑きの状態と悪魔の性質を探るべし)
既に魂を喰われたか、契約したか、それともまだ接触しただけの段階か。悪魔の力はどの程度か、対象への執着は強いか弱いか。それぞれの場合に応じて対策を変えなければならない。
(ダンカはほぼ間違いなく、既に契約している。ジェレゾ……いや、まだ確定していないが、いずれにしても魔術が使われた痕跡があった以上、契約したのは間違いない。となると、第二段階は魔道士の意思の確認、契約を破棄させるための準備。だが彼女はもう正気とは言い難い。難しいな)
エリアスは暗澹とした気分になった。
もし魔導士となった者がまだ人間らしい理性や善意を持ち、信仰を失っておらず、自ら悪魔と訣別する意志を持たせることができたなら、悪魔祓いは非常に楽になる。だがあんな風に話が通じず、さらには悪魔にすっかり依存してしまっているのでは、とても無理だろう。
(代替容器が必要だ)
悪魔を引き剥がすには『身代わり』があったほうがいい。契約者とすり替え、しかる後に悪魔もろとも滅する。一番望ましいのは、魔道士となる前、まったき人間であった頃の身体の一部……抜けた乳歯などだが、身体同様に身につけていたものでも良い。
(もしかしたらベルタが、娘の何かそういう名残りを教会に預けているかもしれない)
我が子の無事な成長を願って。悪魔に目を付けられないように、幸せな結婚ができるように。様々な願いと共に。
本来、教会はそうした現世利益を授けるところではない。この世界を創りたもうた主を讃え、世界を守りたもうた聖御子に感謝し、自らの生きる道を見直し確かめる場だ。しかし人は願いを抱くものであり、最大宗教たる《聖き道の教会》がそれを拒むのは難しい。
(それから、悪魔の名前を聞き出すこと。これはグラジェフ様が試みて下さるだろう……ああくそ、悪魔祓いにこんなに話術が必要になるとは思わなかった)
記録の重点はいざ悪魔と対峙してからの戦い方に置かれており、悪魔を弱体化させるための結界図式、そこへ誘い込む方法、また悪魔との問答は詳しく書かれていた。悪魔を論破する、あるいは相手の詭弁に釣りこまれぬよう問答無用で捻じ伏せることが重要であり、魔道士や関係者から情報を引き出す苦労など無視されていたのだ。
(それとも皆、いちいち記録に残さなくとも良いぐらい、たやすくこなしているのか?)
エリアスは憂鬱にため息をついた。皮肉な話だが、もし自分がベドナーシュ家の娘のままであったなら、そのほうがよほど話術と情報収集にすぐれていただろう。にこにこ笑って相手を褒め、共感して見せ、細やかな気遣いで心をほぐして開かせる。環境に培われた技能は、必要最小限の会話だけで笑いもしない五年の間に、すっかり失われてしまった。
(司祭の銀環があっても、この声ではまず警戒されてしまうしな)
だがそれでも、やれるだけやってみるしかない。山道が終わり、彼は決然と顔を上げて家並みの間に入って行った。