9 羽化の刻
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東西を遙かに見渡せる街道に、赤髪の司祭が西を睨んで立っている。その数歩先には、道を横切るように長く一本の線が引かれ、古い文字といくつかの記号が添えられていた。
凜とした後ろ姿を見守るカスヴァの胸中に、感慨と恐れが広がる。
(同じだ)
かつてグラジェフが敵を待ち受けたのと同じ場所で、同じように、今また脅威を迎えようとしている。
(いや、今回の相手は外道じゃない。話が通じたら剣を抜く必要もなく済む。あの時と同じにはならない)
大丈夫だ、と自分に言い聞かせた時、街道の先に動く影が現れた。カスヴァは一歩、二歩と進んでエリアスに並ぶ。そうして、不意に奇妙な心強さを感じた。
(考えてみれば不思議なものだな。二度もこうして、チェルニュクを守るために司祭の助けを得られるとは)
必然と偶然の成り行きでグラジェフがあの危機に間に合い、その弟子と知り合った結果、今、共に立っている。必要な助けを神が差配してくれたかのように。
影が次第に大きくなり、人馬の見分けがつくほどになる。先頭で騎乗しているのがザヤツだろう。お供の兵士たちは徒歩だ。十数人、多くても二十人というところか。
エリアスが振り向いて言った。
「まず貴殿が呼びかけてくれ。第一声で女と知られて、侮られたくない」
「君が侮られるとは……いや、そうだな。わかった」
帯剣して仁王立ちする者を侮るのは愚か者だけだろうが、道中の盗賊の反応を思えば、ザヤツが馬を止めないこともあり得る。交渉に入る前から優位を取られるのは避けたい。カスヴァは了解してうなずいた。
やがて互いの姿がはっきりと見え、間違いなく声の届く距離まで近付く。ザヤツがこちらを認めて馬の歩調を緩めたのを見計らい、カスヴァは声を上げた。
「ノヴァルクのあるじ、ザヤツ殿! お待ちあれ!」
不審げにこちらを睨んでいたザヤツが、わざとらしいほど驚いた顔をして手綱を引く。
「これはこれは……やはり貴殿か、チェハーク家のカスヴァ! 生きていたとは」
「主のご加護により、この通り。故郷の難儀を聞き知って、帰って参りました。ザヤツ殿、チェルニュクの教会のためにわざわざお運びいただいたところ恐縮ながら、もはや兵の力は必要なしと申し上げます」
カスヴァは慇懃に頭を下げる。ザヤツは途端に不機嫌になって質した。
「なんだと? もう教会の無法者どもを追い払ったというのか?」
「そうではありません」
答えたのはエリアスだ。ザヤツは声を聞いて眉を上げ、あからさまに疑り侮る目つきを向ける。エリアスは動じず、まっすぐ相手を見返して強い声音で続けた。
「私は特使エリアス。教皇聖下の命を受け、チェルニュクの教会の問題に対処するよう遣わされました。現地司祭の任命あるいは罷免、そのほかいかなる処断も私に委ねられております。任命状はここに」
書状を掲げて見せたエリアスのところへ、兵士が一人小走りにやってきた。幾分恭しく任命状を受け取って主人のもとへ戻り、手渡す。ザヤツは隅々まで丁寧に、二度三度と確かめるように目を走らせた後、険しい表情でそれを突き返した。
「つまるところ、手出し無用、と言うのだな。貴殿と、チェルニュクの者だけで片を付けられる、と。今なお教会を奪われたままだというのに! いや、貴殿に判断と対処が委ねられているというのなら、それこそ我が手勢を頼みとすべきだろう。まず無法者どもを排除し、しかるのち正式な司祭を決めるのが筋というものだ」
エリアスは返された任命状を大切に懐にしまい、返答するまで間を空ける。ザヤツを焦らしたうえで、彼は明瞭な否定を突きつけた。
「排除は必要ありません。村の人々の声を聞き、復活者たちと話し合ったうえで私が下した判断は、彼らをこのまま教会に留め置くというものです」
「なんだと!?」
「むろん彼らの要求すべてを呑むのではありません。礼拝や葬儀その他、正しい教義に基づいたやり方を踏襲するよう求め、彼らの掲げる思想については聖都での新たな解釈を待つよう説得します。そして……教会の正司祭としては、復活者以外の者を任ずると」
途中までザヤツは、どうでもいい御託を聞かされている顔だったが、最後の一言で頬を緩めた。結局ノヴァルクの司祭を据えられると早合点したのだろう。エリアスは素知らぬふりで続けた。
「幸い、我々と共にコニツカから司祭が一人こちらに来ております。復活者ではなく、中庸の立場を保ちつつ誠実公正に教会を運営すると期待できる人物ですので、ノヴァルクから新たに派遣していただくまでもありません」
「――っ、ええい埒があかん! 教会が何と言おうと、チェルニュクで起きたいざこざはノヴァルクが裁く! 進め!」
ザヤツが手を上げて兵に合図し、馬の腹を蹴る。直後、エリアスが低く唱えた。
「《来たれ天の火よ》」
その言葉は、とカスヴァが目を瞠ると同時に、街道に引かれた線から眩しい炎が立ち上った。馬がいななき、兵が驚きと恐怖の声を上げて逃げ出す。ザヤツが慌てて手綱を引き、「貴様!」と怒鳴った。エリアスは不敵な笑みを浮かべ、すらりと剣を抜いて見せた。高く掲げて炎の光を反射させ、ザヤツをさらに怯ませる。
「浄化の炎をくぐっても罪に身を焼かれぬ自信がおありなら、越えて来られるがいい。ノヴァルクのあるじ、ルジェク=ザヤツ殿。私は、貴殿の兵は必要ない、と申し上げた。教会のことは教会に任せて、この場はお引き取り願う。世俗の問題については、チェルニュク領主が対応するでしょう」
視線で次の一手を投げ渡されたカスヴァは、さも当然の自信ありげな顔をつくって口を開いた。
「ザヤツ殿。復活者たちを教会から排除せずとも良いという判断は、私からの提案でもあります。彼らがあの教会を『光焔の聖女』の聖地として盛り立ててくれたら、巡礼が増えることが見込めるからです」
金の匂いがする話題になった途端、ザヤツの顔から怒りが失せた。実にわかりやすい。
「聖女信仰自体は旧来の教義に反するものではない。聖都で異端認定されない程度に、うまく擦り合わせることで、チェルニュクの教会に新たな活気が生まれるでしょう。人の往来も増え、ノヴァルクにとっても良い結果になる。そう判断したのです」
「ふむ……なるほど。さすが、先見の明があるな」
「あの『嵐の海の日々』に避難した村人を受け入れてくださった、恩に報いることもできるでしょう」
恭しくカスヴァが一礼する。負債があるのを忘れてはいませんよ、というしるしだ。それが決定打になった。ザヤツはふんと鼻を鳴らし、馬をなだめながら、エリアスに向かって炎の壁を払う手振りをする。エリアスが敢えて通じないふりで小首を傾げると、ザヤツは忌々しげな顔をしたものの、それ以上は強いなかった。
「よかろう、チェルニュクの意向はしかと聞き届けた。この場は貴殿らの要求を容れ、引き返すとしよう。だが近いうちに改めて、新しい正司祭と共に挨拶に来るのだぞ、カスヴァ」
「お約束いたします、必ずや」
カスヴァが畏まって臣下らしい礼を返すと、ようやくザヤツは馬首を巡らせた。まだ動揺している兵士たちを叱りつけ、統制を取り戻し、街道を西へと戻って行く。
声が聞こえない距離になってから、エリアスは炎の壁を消してにやりとした。
「挨拶にやってきた領主と司祭が何を言い出すか、その時のザヤツの顔が見物だな。同席できないのが残念だ」
「……そうか、聖都に帰るんだな」
「ことの顛末を報告して、ノヴァルク司教の譴責を求める必要があるからな。それが済んだら、浄化特使に復帰するつもりだ。聖都で文献資料に埋もれながら教義や秘術の研究をするのも悪くないが、やはり私は外に出ているのが性に合うと、今回しみじみ痛感したよ」
もう決まったことのようにエリアスは答え、地面に残った秘術の跡を靴で軽くこすって消していく。その姿を眺めるうち、カスヴァの中でひとつの考えが急速に芽吹き育った。彼にとってはごく自然な、そうなるべく定まっている理のように思われて――だから、まるで気負いも緊張もなく、彼はそれを口にした。
「エリアス。いや、エリシュカ」
「うん?」
「結婚してくれないか」
「……」
さすがにエリアスは咄嗟に何の反応もできず、動きを止めて、無言でまじまじとカスヴァを見つめた。冗談でも言い間違いでもなく、相手はごくごく真面目に返答を待っている。
かなり長い間があって、ようやくエリアスはゆっくり頭を振った。
「貴殿、また突拍子もなくとんでもないことを言い出すな……。ああ、その顔を見れば悪ふざけでないのはわかる。しかし、……正気か? 他人の内心を勝手に決めつけては失礼だが、そもそも貴殿、私を愛してはいなかろう?」
困惑も極まれり、といった風情で、質問とも慨嘆ともつかない言葉を返す。さすがにカスヴァは恥ずかしくなって目を伏せた。
「そんなに意外か? 俺は……君となら、肩を並べて人生を共に歩んでいけると、そう思ったんだが」
「なんだ、そういうことか!」
途端にエリアスは爽やかに笑った。
「馬鹿だな、司祭として友人としてなら、いくらでも力を貸すとも。まあ、チェルニュクに住み着くつもりはないから、いつでもすぐにとはいかないが、教会を通じて呼んでくれたら駆けつけるし、離れているからできる力添えというのもあるだろうさ」
そこまで言い、彼はふと口をつぐんだ。じっとカスヴァの表情を観察し、猟師小屋の――師の墓のほうを見やってから、あらためて相手に向き直る。
「寂しいのだろうな、貴殿は」
そっとかけられた言葉には、重すぎない慰めといたわりが込められていた。カスヴァは自身意識していなかった感情を指摘され、びくりと竦む。
「奥方を亡くし、幼馴染みの友人だと思っていた相手を失って、きっと貴殿の心にはまだ穴が空いたままなんだろう。だから、私がそばにいて寂しさを埋めてくれることを望んだ。違うか?」
「……」
カスヴァは答えられなかった。だが、声にならない言葉は確かに伝わった。エリアスはそれを受け止め、司祭の顔で言った。
「その寂しさを慈しむことだ、カスヴァ。別のもので埋めてしまおうとするのではなく。そこに“無い”ことこそ、大切な存在があった証だよ」
「――ああ。そうか……そうだな」
かろうじて絞り出した声が揺れる。カスヴァは瞬きして、こぼれそうな涙を堪えた。遠くを眺めるふりで時間を稼いでごまかし、それから笑みをつくって振り向く。
「まるでグラジェフ殿に諭されたような気分だ」
「ははっ! それはこの上もない光栄だな!」
エリアスが笑う。カスヴァもちょっと笑って、目尻に残った涙を拭いた。
後に、チェルニュクの教会は正式に『光焔の聖女教会』として認められ、聖地として生まれ変わった。領主の見込み通り巡礼が増え、教会には新たに宿坊も建てられ、村に移り住む者もあらわれて。年に一度『復活の日』には、聖女の現し身とも第二の聖女ともみなされる女司祭が厳かな典礼を執り行い、おおいに賑わうことになった。
――そうしてチェルニュクで育まれた信仰は、古い蛹の殻を脱ぎ捨て、新たな翼を得て各地へと羽ばたいていった。
完