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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第一部 主の御手が届かないなら
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5-1 真の恐ろしさ

   五章



 暗い。真っ暗だ。なのに不思議と、自分の身体は見える。

 ゆっくり首を巡らせると、塀に囲まれた場所にいるのが認識できた。いや、壁だろうか? 上は闇に溶け消えていて、天井があるのかないのか判らない。


(夢だ)

 無意識に胸に手を当て、銀環を探す。だがそこには何もかかっていなかった。

(馬鹿な)

 一瞬、恐怖に駆られる。血の滲むような五年間の末、手に入れたはずだ。焦って探しながら、いや待て、と別の意識が冷静にささやく。

(これは夢だ。そうだな?)


 ゆっくり息を吐くと、ふわふわした二重感覚を把握できた。夢の中の自分、それを見ている半覚醒の意識。

(悪魔に侵入されたのか。いや、そんなずはない)

 手順は何ひとつ省かなかった。上出来だとグラジェフも認めたではないか。それをかいくぐって魂に忍び寄れるほど、強力な悪魔ではないだろう。

 しかしそれにしても、嫌な気配の夢だ。必ず悪夢になるとわかってしまう、不穏で不安な、冷たく湿った匂い。


《ェエェェ……リィィ……》


 距離感のつかめない呼び声が響く。ぞっとして彼――彼女は身震いした。瞬時にその身は少女のものへと変化する。お気に入りだった杏色のスカート。母にねだって譲ってもらった、特別な日のためのレース襟。意識までが、非力で無知だった昔に巻き戻る。


(お母様? どこにいるの)

 心細さに震えながら、闇の左右を見渡す。青黒い闇を凝固させた石積みの壁がどこまでも続き、迷宮となって、先が見えない。


《どこォォ……》


 こだまのように女の声が届く。少女はそれが母の声だとなぜか確信し、そちらへ向かって走り出した。

 暗い迷宮はいつしか、扉が無数に連なる廊下に変わっていた。母を捜し求め、少女は次々に扉を開けていく。だがどこにも人の姿はなく、扉をくぐった先もまた廊下。果てしなく続く孤独。


 次第に闇が粘りを帯びてきた。いっさいの生命がない虚無から、濃密な存在に満たされた漆黒へと変わる。ザワザワ、微かに床を這う音がした。足の上を何かが走り抜け、ぎょっとして飛びのいたら、別のものを踏んづけた。巨大な毛虫か、蜘蛛か百足か。正体を知りたくもない何かが床一面を早瀬のように流れてゆく。

 ひっ、と少女はひきつった悲鳴を飲み込んだ。声が出せない。恐怖に涙ぐみ、とにかくそこから離れようと走る。ぶちっ、ぐちゃ、ずるり。一足ごとに何かを踏み潰して。


(お母様! おかあさまぁぁ!)

 泣きじゃくりながら懸命にもがくものの、足が重く、息が苦しくなるばかり。ようやく一枚の扉に取り付いた時、向こう側からはっきり声が聞こえた。

《泣いてるの? かわいそうに》

 優しい女の声。お母様だ、と少女は歓喜に震えた。もどかしく把手を掴んで引くが、なぜか開かない。鍵がかかっているのだろうか。締め出された? こんな恐ろしい暗闇に、独りぼっちで?

(いや、いやいや、お母様、入れてぇ)

 泣きべそをかきながら扉を叩く。その時、別の声が遠い空から届いた。


《エリアス》

 一条の銀光が少女のもとへ降る。床を這い回っていたものがざあっと引いてゆき、少女はふたたび司祭エリアスの姿を取り戻した。

 彼はすぐさま、屈辱に顔を歪めて扉から離れた。開かないのも道理だ。扉には銀の鎖が幾重にも張られ、把手を固定している。向こう側のものを侵入させないために。


 悪寒が背筋を貫き、先ほどまでとは別の恐怖に襲われる。

 ――本当に、悪魔が私を狙っているのだ。

 やっと悪魔を殺せる、あの悪魔ツェファムではなくとも邪悪な同族を地上から始末できる、そう奮い立ったはずなのに、いざ現実に脅威に接すると膝が震えた。


《怖いのね。つらいんでしょう》


 呼びかけはまだ続いている。慈しみ深い母の声。強引に侵入しようとする様子もなく、ただ扉の向こうから語りかけてくる。届かぬ手のかわりに、せめても声だけで抱きしめようとするように。

 抱擁されたい。柔らかく優しい母の腕に包まれたい。

 願ってしまうのを止められなかった。痛切な思慕と郷愁が押し寄せて胸が詰まる。むろんこの五年あまり、人の優しさに触れなかったわけではない。庇護してくれた司祭の温情には感謝しているし、敬慕の念もある。何も知らず親切にしてくれる学友らしき者もいた。だが。


《泣かないで。もう泣かないで》


 ほら、良い子ね……頭を撫で、頬を手のひらで包み、口づけしてくれる母の愛。

 もしかして、本当にこれは善きものではあるまいか。亡き母の霊が、娘を案じて寄り添ってくれているのでは。だってちっとも誘惑せず、押し入る暴力も見せず、ただ無償のいたわりと慰めを伝えてくれて。こんなにも穏やかで優しいんだもの……


 夢の中では確固とした意識を保つのが難しい。青年の輪郭が揺らぎ、少女の想いと混じりあう。左手がふと持ち上がり、手首に巻き付いた細い光の糸がしゅるりとほどけて扉へ伸びた。刹那、


《エリアス、起きなさい》


 遠くからの声が明瞭に響いた。これは――

(グラジェフ様)

 ぎくりと竦んで自我の輪郭を取り戻す。こんなところで失態を晒して、銀環を取り上げられてなるものか。彼の決意に反応したかのように、左手首から伸びていた糸がジュッと弾ける音を残して蒸発した。

(左手……あの飾り紐か!)

 そういえば外さないまま寝てしまった。死者の持ち物だったから、結界越しに悪魔が付け入る隙を生んだのだろう。迂闊だった。

 唇を噛み、決然と踵を返して扉の前から去る。


《行ってしまうのね……つらくなったら、帰ってらっしゃい……》

 女の声がだんだん小さくなる。廊下は闇に沈み、ふたたびエリアスは青黒い石の迷宮に戻っていった。恐れはない。死と沈黙の暗い都、冷たく枯れた闇の底へ。




「う……っ」

 ひどい重苦しさに圧し潰されそうになりながら、エリアスはなんとか薄目を開けた。明るい。天井際につくられた細い採光窓から、朝日が射している。

 ふう、と間近でため息が聞こえ、彼はしかめっ面で瞬きしながら首を傾ける。グラジェフが既に起きて、エリアスの左手を取っていた。


「無事に目覚めたか」

「申し訳、ありません」

 いつにもましてひどい掠れ声で詫び、エリアスはぎこちなく上体を起こす。グラジェフはただうなずいて手を離し、結界の後始末にかかった。ごく自然な動作でこちらに背を向けたのは、見ていないうちに身繕いをしろという配慮なのだろう。


(これはもう、間違いなく知られているな)

 どうせ肌着一枚のところを見られても女とわからないほどの体型なのだが……。

 自虐でもなく醒めた気分で考えながら、枕元の長衣を取る。その時になって初めて、彼は頬が濡れているのに気づいた。どきりとして瞬きすると、目尻に残っていた涙が一滴ぽろりと落ちた。

(うわっ!?)

 猛烈な勢いで顔が火照った。見ないふりの配慮は肌着姿などではなく、情けない泣き顔のほうだったのだ。


「あのっ、グラジェフ様、わた、私は」

 信じられない。眠りながらめそめそ泣いていたのか。すぐそばに監督官がいるのに、母を恋しがって……よもや何か口走ったろうか。おかあさま、だとか?

(あああぁ死ぬ! 何も見てない聞いてないと言ってくれ!)


 グラジェフは肩越しにちらりと視線だけ向け、くっと笑いを噛み殺した。真っ赤になって口をぱくぱくさせる若者の様子がよほどおかしかったのか、顔を背けたまま肩を震わせる。エリアスは羞恥に耐えられなくなり、両手に顔を埋めた。


「なんたる失態……」

 痛恨の呻きを聞いて、グラジェフが哄笑する。ひとしきり笑ってから、彼はどうにか表情を取り繕って言った。

「悪魔の誘惑の恐ろしいところがわかったかね。彼らはいつも、人の弱いところを突いてくる。他人はおろか己自身からも隠そうとしている甘えや醜さ、失敗や恐れをな。羞恥に臆し怯んでは、ますます付け入られるぞ」

「……図太くなるよう心がけます」

「まあ、ほかに手はあるまいな。暴かれて困る秘密を持たない人間などおらん。動揺し、正当化のための言い訳など考えようものなら、詭弁を操る者どもの思うつぼだ」

 経験談だろうか。訊いてみたくなったが、エリアスは黙って畏まっていた。


 長衣と銀環を身につけ、結界を消すと、二人は慎重に階段を降りた。下はひっそりとしている。母娘は眠っているらしい。

 静かに外へ出ると、雄大な朝焼けに迎えられた。草は露に濡れて瑞々しく、大気はまだ何ものにも邪魔されない自然のままの清浄な力に満ちている。冷たい湧き水で顔を洗うと、すっかり気分も良くなった。

 改めてエリアスは先達に向き直り、頭を下げた。


「助けていただき、ありがとうございました。己の迂闊に恥じ入るばかりです」

「うむ……やはりその紐が楔になっていたか。あの哀れな死者の遺品だな?」

「はい。お知らせしておくべきでした」


 エリアスは左袖を上げた。手首にかけた飾り紐は一見なんの変化もないが、一部分だけ白く脱色していた。拾った時にはなかったものだ。グラジェフが清めてくれた結果だろう。


「なぜ黙っていたのかね」

「よくわかりません。ただ何となく、自分だけでやろうと思ったのです。独力でつとめを果たせるかどうかを見極める期間なのだから、あなたに多くを委ねるべきではない、と」


 曖昧に応じたエリアスに、グラジェフはむず痒そうな苦笑を見せた。


「やれやれ。揃ってひとつの穴に落ちたな。私もそなたに伝えておくべきことを、敢えて伝えなかった。そなたと同じ理由で」

「と言うと、グラジェフ様も何か発見されたのですか」

「うむ。そなたは見落としたようだが、あの死者を生かしていたのは、当人の妄念や執着ばかりではなかった。はっきりと魔術の命令が施されていたのだよ。身を隠せ、とな。だからあれほど不可解な行動を取ったのだ」


 エリアスは息を飲み、口から飛び出しそうになった非難をぎりぎり堪えた。なぜそんな重要なことを教えてくれなかったのか、と自分を棚に上げてなじりたくなったのだ。悔しさに歯を食いしばり、こめかみを揉む。


「それほどの手がかりを見落とすとは……なんてことだ」

「運もある、そう思い詰めるな。あの骨ばかりの体に人の形を保たせていた霊の徴も、魔術の力も、区別はほとんどつかん。そこに言葉を読みとれるかどうかは、ごくわずかな機会にかかっておる。そなたは今回、運がなかった。ただし次からは、生ける死者であれ、影だけの霊であれ、その背後に操る糸が隠れておらぬか注意することだな」

「肝に銘じます。……だからグラジェフ様は驚かれなかったのですね。村に戻って、伝令特使が待っていた時にも。既に悪魔の関与をご存じだったから」

「そういうことだ」

 グラジェフは端的にうなずいた。


 落ち着き払った先達を眺め、エリアスは複雑な気分になる。

 生ける死者を生み出したのが魔術であるなら、悪魔の関与は間違いない。そして悪魔がそうそう現れないものである以上、イスクリの件と別個ではあり得まい。だのになぜ彼は、ジアラスにその話を知らせず、ダンカを実際に目にするまで『悪魔憑きではない可能性』を捨てようとしなかったのか。手がかりひとつで決めつけず客観的に冷静に……と言うには、いささか逆方向へ偏ってはいまいか?

 疑念を口にするには、さすがに立場が邪魔をする。エリアスはひとまず物騒な考えを横に置き、本筋に思考を戻した。


「……ということは、あの死者はほぼ間違いなく、ダンカの夫ジェレゾですね。ダンカにとっては苦痛を与える存在でしかなかったから、悪魔が追い払った。身を隠せ、との命令に縛られたジェレゾ本人は当然、帰りたがったろうし、人に助けを求めようともしたでしょう。だから街道の際まで度々出てきては、強制的に森へ引き戻された」


 そうこうする内に飢えと渇きでか、あるいはどこかを怪我したか何かで、死んでしまったのだろう。それでも術は解けず、魂も縛られたまま、行ったり来たりを繰り返すはめになったわけだ。


 エリアスが推論を述べるのを、グラジェフはじっと黙って聞いていた。その顔からいつの間にか、感情が消えている。エリアスは試問の場で的外れな答えを言ってしまった気分になり、それ以上は続けられなくなって相手の反応を待った。

 気詰まりな沈黙の後、グラジェフは無表情のまま静かに、問いかけとも独白ともつかない口調で言った。


「なぜ悪魔はダンカの夫を追い払ったのか」

「えっ? それは……」

 さっき言ったではないか、とエリアスは困惑する。眉を寄せて思案し、彼が尋ねたいのはより根本的な理由だろうかと思い至った。

「ダンカを守るためです。苦しみから救ってやるため」

 そこまで答えて舌打ちする。これではまるで、悪魔が善行を施したようではないか。口に残った苦味を吐き出すように言い添える。

「そうして恩を売り信用させ、付け込んで魂を奪うために」


 彼が剥き出しにした憎悪にも、グラジェフは反応しなかった。何を考えているのかわからない、霧に閉ざされたようなまなざしをどこか虚空に向け……ややあって、ふっとほろ苦い微笑を浮かべた。

「そうだな」

 たった一言。正解だと認めるのでも、同意見だとうなずくのでもない声音だった。足元に転がる石を見て、石だな、と確認するだけのような。

 何かがおかしい。エリアスは探るように目を眇めたが、察したグラジェフは咳払いしていつもの態度を装ってしまった。家の中で物音がしたのをこれ幸いと、話題を変える。


「さて、そろそろ二人も起きたようだ。その飾り紐はダンカの目に触れぬよう隠しておくが良かろう。もし本当にジェレゾの物であったら、無用に刺激してしまうからな。朝食を済ませたらそなたは街に下りなさい」

「私だけで?」

「うむ。昨日の食堂で成果を尋ねること、ジェレゾの実家のパン屋とやらを訪ねて本当に彼を匿っていないか確かめること。ついでに食料品もいくらか買ってきてくれると助かる。他にも、すべきと思われることをするが良い。お待ちかねの単独調査だ」

 言葉尻でにやりと皮肉な笑みを浮かべてくれたもので、エリアスは渋面になるしかなかった。


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