4 正義の在処
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崩れる音がする。建物が、秩序が。
レオ青年の勤める雑貨店からも、大聖堂の倒壊は見えた。そしてその後、見えないものがあっという間に壊れていった。
どこかで火の手が上がり、異臭と煙が流れてきた。狂騒の声がこちらへ近付く。
「すぐ店を閉めるぞ。急げ」
店主が顔をひきつらせて言う。店主の女房が、不安げな娘を振り返って肩を押した。
「アガタは奥にいなさい。出てくるんじゃないよ」
「でも」
「いいから、早く!」
母娘のやりとりの間も、店主とレオは急いで往来に面した陳列台を片付けて店内に引っ込め、板戸を閉めようと動く。
だが間に合わなかった。興奮に狂った叫びを上げて、男の集団が店に押しかけた。
良き隣人、だったわけではない。常日頃から関わりたくないと距離を置いていた連中。平時ならばそれで無難にやり過ごせていたのに。
「やめろおい、……っ、くそ!」
店主が制止しようとして諦める。悪魔がどうとか、言いがかりさえ必要なかった。男達は好き放題に品物を荒らし、奪い、暴れ回った。止めようがないのは明らかだった。
(どうすれば良かったんだ)
祈りながらレオは振り返る。記憶が擦り切れるほど何度も何度も繰り返し考えて、それでも答えは得られない。彼自身も、店主も女房もアガタも、彼らに逆らわなかった。ただ嵐が過ぎ去るのを、身を縮こまらせて待っていた。下手に抵抗すれば殺される、それはわかりきっていたから。けれど。
(親父さん……おかみさんも)
本当に、何がきっかけだったのかわからない。店主が横ざまに吹っ飛ぶ勢いで殴られ、暴徒たちは略奪よりも暴行に夢中になって。何かの遊戯かのように、寄ってたかって店主を蹴り、手当たり次第に物をぶつけた。助けようとしたレオも殴られた。売り物の壺で頭を強打されて、陶器の破片が飛び散った。アガタが悲鳴を上げて……
「まことに、主は正しい人々に救いを約束して下さいました。天使エトラムの炎は善き魂の道標となり、一方で悪しき罪人を焼き尽くすでしょう。主と御使いに栄えあれ」
司祭ミハイが力強く述べて説教を締めくくり、「栄えあれ」と会衆が唱和する。レオも口を動かして唱えたが、心は晴れなかった。
(ああ本当に、アガタは地上に戻るべきじゃなかった。こんな穢れた地は、彼女の清らかな魂にはふさわしくなかったんだ。いっそのこと、天使の炎がコニツカを焼き滅ぼして下さったら良かったのに)
会衆がぞろぞろと司祭の前に並んで祝福を授かり、ひとりひとり言葉を交わして解散していく。コニツカから一緒に来た人々と、地元の村人も数人まじっていた。レオは席から立ち上がらずに祈り続けていた。その耳に、司祭ミハイと幼い声のやりとりが届く。
「やあ、また来てくれたね、オドヴァ。司祭ユウェインの礼拝には及ばないだろうが、君の気に入ったのなら嬉しいよ」
「司祭様のお話は、いつも面白いです。炎の天使っていうのは、ちょっと……不思議な感じですけど」
レオが目を上げると、前領主の一人息子が、司祭ミハイから祝福を授けられているところだった。
「旧い聖典には出てこないからね。しかし君は……君と、この村の皆は、司祭ユウェインとしての天使様からじきじきに祝福を授けられた、特別な人々なんだ」
熱を帯びたミハイの言葉にも、オドヴァは首を傾げるだけで乗ってこない。
「よくわかりません。ユウェイン様は確かに、不思議なあたたかさを感じる司祭様でした。でも、天使っていう感じじゃなかったから」
「御使いは時々、正体を隠してふるまうものだよ」ふふ、とミハイが笑う。「聖典にもあるだろう。旅人を装って町を訪れ、善き人を見出し祝福を授けた話が。とはいえ……天使エトラム様は、少し上手く隠しすぎたのかもしれないね。池で溺れた少年を生き返らせたことなど、間違いなく奇蹟だろうに、私がそう言ってもこの村の皆はきょとんとしているのだから」
まさに“きょとんとして”いたオドヴァは、恥ずかしそうに顔を伏せる。そこへ、いささか不機嫌な足音が割り込んだ。
「ミハイ殿。何度も言っているが、ユウェインは本当に普通の、村育ちの若者だったんだ。確かにいろいろおかしな出来事が続いたし、彼が結局どうなったのかいまだに分からんが、そういう勝手な話を広めるのをやめない限り、あんたにこの教会を任せることはできん。そもそも、儂が認めたところで正式な許可はノヴァルクの司教の裁量だ。ここに居座ってないで、あちらへ出向いて頼み込むのが筋だろう」
いい加減うんざりしているのを隠さず言ったのは、チェルニュクの現領主オレクだった。オドヴァが緊張したのが、レオの目にも明らかにわかる。むろんオレクにも。みなしごの大叔父は、温情を装おうとして失敗したような、複雑な声音で叱った。
「オドヴァ。礼拝に出るのはいいが、ぐずぐず油を売っている暇はないはずだ。行け」
「……はい」
一言の口答えもなく、オドヴァは頭を下げて踵を返し、ぱたぱたと走り出ていく。レオは小さな背を痛ましげに見送り、次いで冷ややかな目をオレクに向けた。
(ここも結局、人の欲に支配された地だ。あんな幼い子供さえ、邪魔者扱いしてこき使うんだからな)
ただの下働きにしては妙に育ちが良いような、と思っていたら、前領主の一人息子だと知って嫌な気分になったものだ。彼がゆくゆく領主の座を継げるようにする……とまでは望めずとも、せめて家族の一員として遇するべきだろうに、完全に使用人扱いだ。
レオは陰鬱な敵意をこめてオレクを睨む。いかにも自分が正しいという態度で、司祭ミハイに向かって、正当な手順を踏んで出直せだとか、自分たちの教会が欲しければ適当な土地を融通してやるから新しく建てろだとか言っているが……
(子供ひとりまともに保護しないで、何を偉そうに)
レオの目にはそうとしか見えなかった。
「まあな、正直、人手が増えたのは助かっているよ。あんたらが暴れるでも騒ぐでもなく、畑や果樹園を手伝ってくれて、村の者は感謝してる。だからこそ、こっちもノヴァルクのザヤツをなあなあで宥めているんだ。でもな、あんたが早いとこあっちに出向いて筋を通してくれなきゃ、いつまでもは……」
「オレク殿。私も再々申し上げておりましょう。教会上層部は我々を認めてくれません。コニツカの大聖堂再建にあたって、ほんのささやかな変更を願い出ただけであるのに、断固拒否したうえに我々復活者を事業から締め出したのですから。ノヴァルクの司教様がどのような方かは存じませんが、仮に我らの聖女教会を許容する心がおありでも、コニツカや聖都の反感を恐れて、認められますまい。我らが出向けば、それこそ今、宥めてくださっている努力が水の泡ですぞ」
オレクとミハイのやりとりが続いている。着地点の見えない堂々巡り。長身の領主は小柄な司祭相手に、意識してかせずか威圧的な姿勢で迫っているが、ミハイは一歩も退かない。結局いつものように、オレクが不機嫌なため息をついて教会を出て行く。やれやれという顔でそれを見送ったミハイが、ふとレオに目を向け、苦笑した。
「そうあからさまに怒りを見せるものではないよ。オレク殿にも領主なりの苦労がおありだろう。力ずくで追い出されないだけ良しとしなければ」
話しかけながら、よいせ、と隣に腰掛ける。レオは祭壇の奥を仰ぎ見て、ぽつりとつぶやいた。
「正義はどこにあるんでしょうか」
視線の先にあるのは、古びた聖御子像。今、彼はその後背に架ける円環を新しく彫っているところだった。円環に十字ではなく、聖女の光輝を象徴する八芒星を組み合わせたものだ。彼ら復活者がコニツカの大聖堂に求め、果たせなかった刷新。何も、旧い物に取って代わろうというのではなかったのに。八芒星なら十字を中に抱いてもいるのだから、聖御子の象徴が失われはしないのに。
「正義、か。天の国でならば常に主の正義がなされるだろうが、地上ではなかなか難しいね。それでも、さまざまな形で正義はなされるものだよ……話したことがあったかな。私はね、ずっと出世したい出世したいと願っていたんだ。大きな教会で重要な役職に就いて、人の上に立ち尊敬される、そういう自分を夢見てばかりいた。なのに出世するのは他の要領の良い奴らばかり、なぜ自分は幸運に恵まれないのか、と恨んでさえいたよ」
ミハイは肩を竦め、自分の頭を軽く数回叩いた。それから彼はレオと同じく聖御子像を見上げ、聖印を切って続けた。
「そんな私の上に鐘楼が崩れ落ちてきた。よみがえった時には、自分のなすべきことがはっきりと解っていたよ。旧い教会の中で威張ることじゃない、小さくとも新しい風を起こすことなんだ、と。主と聖御子に並び、聖女様をも讃えることが私の使命だ、とね。主の正義によって、正しい道に導かれたのだと思っているんだ」
「……アガタは」
言いさしてレオは口をつぐんだ。何度も話し合ったことだ。
アガタは清らかな魂の持ち主だった。だから地上に戻されて、人々に救済の約束を、聖女の福音を伝える役割を与えられたのだ。そして早々にふたたび楽園に召し上げられた……
それが真実だと信じるとしても、あんな暴力によって地上から連れ出さなくても良かったろうに、とレオは唇を噛む。ミハイも察して若者の肩を優しくさすり、ささやいた。
「裁きは必ず下される。主のもとでアガタは安らぎ、彼女を襲った連中は地獄で苦しむことは間違いない」
「そう信じます」レオは絞り出すように答えた。「あいつらが罰を逃れるなんて、絶対にあっちゃならない。誰にも見られなかったなら、人を殺しても罪に問われない、なんてことは……!」
悔し涙で声が震えた。路地裏で冷たくなっていたアガタ。誰がやったかなど明らかなのに、目撃者も証人も一人もおらず、誰も捕まらなかった。
悔しさと怒りがぶり返し、レオは歯を食いしばって、組んだ手に額を押しつけて祈った。
「神様、天使様……どうか、どうか正義の裁きを……!」
いらえは無い。聞こえるのはただ、いつまでも続くすすり泣きだけだった。