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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
後日談『羽化の刻』
124/132

序・1 追われるように発つ

   ヴラニ暦1154年、『復活の日』より一年余り後



   序 ロサルカ共和国コニツカ


 若い娘だった。

 頬はふっくらとして柔らかな薔薇色であるはずだった。唇は林檎のように艶やかで、甘い笑みを湛えているはずだった。

 しかし今、その頬は片側が落ち窪み、黒い痣に覆われている。唇は艶も赤みも失い、変形した頬に引っ張られ歪んでいた。

「アガタ……、ああ、アガタ」

 嗚咽の合間に繰り返し名を呼びながら、若者が棺に取り縋る。その背を司祭が無言でさすり続け、取り囲む参列者たちはすすり泣きを漏らした。

 悲嘆に満ちた長い沈黙の末に、司祭がそっとささやく。

「レオ、この町を出ましょう。彼女の形見を身につけて聖地へ巡礼すれば供養になる」

「いやだ」

 若者は首を振った。歯を食いしばり棺の縁を握りしめて、わななきながら言葉を絞り出す。

「いまさら聖都になんか……、あの、嘘つきどもの都になんか、行って何になるんだ」

「欺瞞の都ヴィルギスのことではありません。はるか北、我々の聖地ですよ」

 優しく諭す司祭の声に密かな熱が込められる。泣き濡れた顔を上げた若者に、司祭は小さくうなずいた。

「輝ける炎の天使エトラムが降臨したまい、受肉なされた地。かの地であれば、アガタも聖女として祀ることがかなうでしょう。我々の新たな始まりとするにふさわしい」

「……」

 言葉はなかったが、若者は瞑目し、吐息と共に頭を垂れた。参列者の間から女が進み出て、司祭と若者のかたわらに膝をつく。

「司祭様、わたくしも共にお連れください」

「わしも参ります」

 一人、また一人。誰の顔にも、もうここには住み続けられない、との決断があらわれている。

 司祭はそれぞれに向けて力強いまなざしを返し、励ますように笑みを見せた。


 そうして一人の『復活者』が改めて死者となり埋葬された後、十人あまりの小さな集団がひっそりと町を去った。




  1


「カスヴァ殿、急なことで申し訳ないが、ちょっと来てくれないか」

 そう言って赤毛の女司祭が呼びに来た時、彼は元領主らしく聖都の事務局で財務省の面々と共に帳簿を広げて、世俗的な仕事をしている最中だった。

 申し訳ないと言いつつも、目つきと声音は有無を言わせぬ強さだ。カスヴァは重要な用件であると察し、その場の面々に詫びて中座する。エリシュカは形ばかり頭を下げたものの、こっちだ、とすぐに歩き出した。置き去りにされた者たちは困惑を隠さなかったが、誰も抗議はしなかった。何しろ彼女は『光焔の聖女』と共に世界を救った立役者だ。その象徴かのごとき炎色の髪と、史上初の女司祭という名声もあいまって、信徒のみならず一部聖職者の間でも人気は天井知らず。位階こそただの司祭で上級役職に就いてもいないが、表立って対立したい相手ではない。たとえ内心どれほど面白くなかろうとも。

 もっとも当人は、そんな周囲の思惑や政治的配慮など、以前と同じくまるで気にかけていない様子だった。先導して歩きながら、声を潜めてささやく。

「北から急使が着いた。貴殿の故郷に関する報せだ」

「――っ、何があった?!」

 カスヴァは息を飲み、前のめりになって問い質す。エリシュカは端的に「面倒事だ」とだけ答えると、聖務省長官室の扉を叩いた。

「ムラク様。連れてきました」

「ああ、入りたまえ」

 応じた声は穏やかで、切迫した気配はない。カスヴァは困惑しながら、エリシュカが開けた扉をくぐった。

 かつて老獪なハラヴァ枢機卿が君臨していた聖務省は、今、慎ましく控えめなムラク司教によって解体を待つだけの部署になっていた。『復活の日』に円環が修復され、もはやこれより後の世に悪魔外道の脅威はあるまい、という判断が下されたのだ。今もまだ浄化特使は各地を巡り、本当に安全になったのか否かを確かめているが、脅威に関する報告の少なさからして、そう長くは必要あるまいとみなされている。

 だが、もしかしたら今後は、別な脅威に対処することになるかもしれなかった。

「ご無沙汰ですな、カスヴァ殿」

 ムラクは胸の銀環に手を添えて一礼し、執務机の対面に置かれた椅子を手で示した。カスヴァは落ち着かなげに浅く腰掛け、挨拶もそこそこに「チェルニュクに関する報せがあったとか」と問いかけた。

「さようです。貴殿の叔父上オレク殿から、ノヴァルクの教会を介して訴えが届きました。異端者の一団が教会を占拠し、通常の礼拝が執り行えず、住民たちが困っていると」

「異端者?」

「我々の側からはまだ、異端と認定してはおりません。復活者たちの集団です。なんでも、チェルニュクの教会を『光焔の聖女』の聖地とみなし、自分たちの拠点にしたいと言っているそうで」

 聞いたカスヴァは思わず傍らの女司祭に目をやった。案の定、あからさまに忌々しげな渋面である。二人の反応に、ムラクが小さく失笑した。

「エリシュカ、君の気持ちはよく承知しているが、くれぐれも外では『光焔の聖女』への悪態をつかないように頼むよ」

「わきまえています。しかしつくづく、あの悪魔は面倒を残してくれた。占拠、ということは、本来の司祭は追い出されたわけですか」

「うん。詳しくはわからないが、復活者たちと揉めた際にいささか負傷し、早々に村を見捨てて去ったらしい。元々あの村の司祭は、聖都からではなくノヴァルクから司教の裁量で派遣されていたものだからね。ともあれ司祭を追い出した後は、よそ者たちも村人に乱暴狼藉をはたらくことなく、それなりに穏便に居座っているそうだ。であるから、オレク殿としては、事を荒立てて武力で彼らを追い払いたくはない、だが正しい司祭が不在のままでは困る、どうにかして欲しい……ということらしい」

 そこまで説明し、ムラクは眼鏡を指でくいと押し上げながら、カスヴァに難問を振ってくれた。

「さて、元領主殿としてはどう解決するのが望ましいか、ご意見をお聞かせ願えますかな」

 と言われても、むろんカスヴァは即答できない。彼がすぐに解決法を思いつく程度のことなら、とっくに叔父が何とかしているだろう。唸って考え込んだ彼に代わり、エリシュカが確認した。

「上のほうではどう言っていますか。それとも、ここだけの話として処理を?」

「一応、教皇聖下にも報告は上げておいたが、ひとまず我々に対処を任されたよ。彼らを排除すべき異端と断ずるかどうかは今後の状況如何による、とね。教会を占拠したと言っても、せいぜい十数人らしいし、すんなり解散するなりよそに移るなりすれば、オレク殿の希望通り大事にせず片付くだろう。だがもし、仲間を呼び集めて活動を大きくし、正統の教義に公然と背くようであれば……」

 ムラクが曖昧に濁した内容を察し、カスヴァは眉間を揉んだ。

「チェルニュク村だけの話ではすまなくなる。ムラク殿、オレク叔父は私のことを何か言っていましたか。一度、無事を知らせる手紙を特使に託したのですが、返事がないままで……元領主が口出しして余計に事態をこじらせはしないか、それも問題です」

「おや、それは慮外でしたな。そういえば、貴殿のことには全く触れられていなかった」

 ムラクは犬のような目をぱちぱちしばたたき、小首を傾げる。エリシュカも眉を上げた。

「貴殿が村に帰ると言い出さないのは、ここでの仕事だけが理由ではなかったのか」

「ああ、まあ……当てにされているのを振り切ってまで故郷に帰って、おまえは死んだはずだと言われるのは、さすがにな。息子オドヴァの様子を知らせてほしいと頼んだんだが、それさえ無視されたままだ」

 息子の身に何かあったのでは、あるいは不当な扱いを受けているのでは――そんな嫌な想像をしてしまい、すぐにも村へ帰りたいと、一度ならず焦燥に駆られた。しかし北方からちらほらと入る情報には、それを後押しするほどの緊急性はなく、対して聖都での役割は常に最優先を求められて……そうして一年あまり。

「オレク叔父のことは信頼していたんだが」

 ぽつりと独り言のようにつぶやく。そう、今もまだ信じたいと願ってはいる。彼ならオドヴァに酷いことはすまいし、村を治めるのも上手くやってくれているはずだ、返事がないのはどこかで手違いがあっただけで悪意のゆえではない、と。だが、それでも。

「やはり、帰るべきだな」

 カスヴァが決意すると、それを予期していたようにエリシュカが続けた。

「ムラク様、私が特使として彼に同行します。状況を見定め、復活者たちの一団を説得するか排除するか、あるいは新たに正式な司祭を任命してその監督下に置くか……一時的な権限を預けて頂いたうえで処断し、事後報告で承認を頂くという形にすれば、裁可を仰ぐ時間が省けて事態の悪化を防げるでしょう」

「それが良いだろうな」ムラクも同意し、カスヴァに頷きかけた。「どうするこうすると議論に時間をかけていても、彼らが勝手に解散してくれる見込みは薄い。『光焔の聖女』に対する信仰はこの一年高まる一方ですからな。ここ聖都では『復活の日』以来、教義を擦り合わせる努力が続けられておりますが、その成果を待たず、各地で独自の聖女信仰が育ちつつある。チェルニュクのような――失礼――僻地の小村だろうと、たかだか十数人だろうと、ひとつの独立した教会が成立してしまうことは望ましくない。解散させるか、まっとうな教会の下に組み入れることが必要です」

「おっしゃることは解ります。ただ、私が領主としてそうした方針を取れるかどうかは、叔父次第ですが……ともあれ、故郷に戻って話し合うしかない。財務省の方々には迷惑をかけますが、よろしくお計らいください」

「むろんです。では各々、出立の支度を。私は教皇聖下に拝謁願って、諸々のお許しを頂いて来ましょう」

 ムラクが言って立ち上がり、祝福のしるしに聖印を切る。二人は畏まってそれを受けると、それぞれ久しぶりの旅に向けて動き始めた。



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― 新着の感想 ―
「ヴラニ暦」って目にした一行目から、テンションが爆上がりになりました! この世界の物語がまた読める!嬉しい!! 続きも楽しみにしております(が、ご無理はなさらずー!)
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