終章
終章 ヴラニ暦一一五九年
まだインクの匂いがしてきそうな、筆写されて間もない羊皮紙が何枚も机上に広がっている。多数の証言を中心とした裁判記録、契約書や日記の写し。それらを手に取って眺めながら、修道院長はしみじみと言った。
「もう二十年になるのですか……早いものですねぇ」
「随分昔のことにもかかわらず、お話し下さって感謝します」
礼を述べたのは、向かいに座る若い人物だった。炎のように赤い髪を短く切って、胸には司祭の銀環を掛けている。だが声も体つきも、間違いなく女だ。エリシュカ、と彼女は名乗った。我が師の伝記を著すために各地の足跡を辿っている、ついては裁判記録の内容についてお話を伺いたい、と訪ねて来たのだ。
ちょうど当時の自分と同じ年頃だろうか。ユアナはまぶしい気持ちで目を細めた。
「あれから、世界も教会も大きく変わりました。まさか私が修道院長になって、そこへ女の司祭が訪ねてくるなんて、夢にも思いませんでしたけれど。でも、グラジェフ様の弟子だとおっしゃるのなら、納得だわね」
ふふ、とユアナは笑う。聖職者の条件から男に限るという規定が削除され、初めて女司祭が叙任された、と教会の巡回特使から知らされたのは数年前のことだ。
「グラジェフ様とは結局、あれきりお会いすることはありませんでしたが、よく覚えていますよ。己の間違いを認められる稀有な方でした」
「師はいつも、傲慢にならないよう厳しく自戒しておられました。私のことも熱心に指導される一方で、決して師の立場を利用し権威によって支配したりせぬよう、注意深く接して下さって。きっと、ユアナ様に指摘された経験が忘れられなかったのでしょう」
敬慕のこもった口調で女司祭が言い、ユアナは「あらまあ」とおどけた声を上げた。
「そんなに痛烈な、魔女の一撃をくらわせた憶えはないのだけれど。思ったよりきつかったのかしらね」
ぎっくり腰をあらわす慣用句にひっかけた冗談に、エリシュカもちょっと笑い、それから真面目な顔つきになって言った。
「一撃、というよりも……あなたにはご不快かもしれませんが、やはり『毒』だったのだと思います。その時その場で結果が明らかに出るものでなく、長い年月をかけて少しずつ浸透するような」
「その『毒』というのはつまり、現状で何も問題なく過ごせている人にとっては余計なこと、面倒なこと、気にくわないこと、なのでしょうね。あの後も散々言われたから、わかるわ」
修道女、という存在が当然に認められるようになるまでの道程を思い返し、ユアナは肩を竦める。さすがにもう魔女呼ばわりされることはなくなったが、それでもいまだに、若い女に要らぬ考えを吹き込んで拐かしている、などと非難されることがあるのだ。
「でもね、エリシュカ司祭。私が思うに、世の中には『当たり前』という毒が満ちているのよ。昔の私はそれを、何も知らずに吸い込んでいた」
「そうですね。だからこそ私達のような『魔女』は、それを打ち消すために新たな毒を使うのでしょう。……今日は貴重なお話をありがとうございました。そろそろお暇いたします」
資料を丁寧にまとめ、女司祭は頭を下げて席を立つ。ユアナも外まで見送りに出た。
旅をするにはありがたい晴天だ。明るい陽射しを受けた畑の緑が瑞々しい。かつての粗末な小屋は今、質素ながらも石造りの建物になり、畑で働く人影も四人五人と増えた。
エリシュカは過去の景色を想像するように辺りを見回し、思い出して言った。
「魔女といえば、ヘルミーナさんにお会い出来なかったのは残念ですね。彼女は最後までこの修道院には入らなかったのですか」
「ええ。女ばかりだろうと、教会だろうと修道院だろうと、とにかく皆で集まって暮らすというのが嫌なんだ、独りが気楽でいい、って。そう言いつつも毎日のように通って、薬草のことやあれこれ何でも教えてくれましたよ」
「癇癪玉の作り方も?」
「もちろん。道中のお守りにひとつ差し上げましょうか」
「興味はありますが、使いどころが難しそうなので遠慮しておきます。剣を振るうほうが手っ取り早いですね」
浄化特使の弟子は師匠譲りの技を修めているらしい。腰の剣を軽く叩いて見せ、エリシュカは頼もしい足取りで歩き出した。
すっきりと背筋の伸びた後ろ姿に向けて、ユアナは道中の無事を祈る。二十年前に同じ場所でグラジェフを見送った記憶が重なり、感慨深くなった。
あの日ユアナの注いだ毒が、歳月を経て師を通じ弟子に受け継がれたわけだ。そしてまた女司祭の存在を通して、世界に広まってゆくのだろう。そんな未来を想像すると、口の端に笑みがのぼった。
(神様、魔女の願いでもお聞き届け下さいますか?)
空を仰いで問いかける。いらえは期待しない。神はなんでも受け止めてくれるし、願いが叶うか否かはそれとは別だと知っている。だからユアナは手を組み、祈った。
――よく効きますように、と。
(了)
初稿2021.9
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