七章(前)
七章
あれは何の騒ぎだ。まさか魔女を処刑するというのでは? 間に合わなかったのか。
「嘘だろ神様」
ヘルミーナは思わず天を仰いで喘いだ。その場にへたり込みそうな失望に抗い、重くなった足を叱咤して人垣に近付く。
村人達はてんでに噂や憶測を――赤ん坊が死んだからおかしくなって魔術に手を染めたんだとさ、いやそもそも自分で殺したって話だぞ――ささやき合っていたが、産婆に気付くとぎょっとして退いた。噂の『魔女』の教師となったのが彼女だというのは、既に皆が認めてしまった事実であるらしい。空いた場所を前へ進むヘルミーナを遠巻きにして、殿様はなんで大魔女のほうを捕まえないのかね、などとさらなる悪意を撚り合わせていく。そうして綯った縄で罪人を吊したいのだろう。
(こうなるってわからない殿様じゃないだろうに、なんでヤンクの味方なんか)
舌打ちし、無責任な村人達をじろりとねめつけて、ヘルミーナは人垣を抜けた。布告や演説のための小さな壇が設えられているが、まだ誰も立っていない。だがその手前に、しかつめらしさを保っている司祭と、相変わらず酷い面相のウルスが並んでいる。五歩ばかり離れて、すっかり青ざめたユアナも。
ことここに至ってはどうしたら良いのか、ヘルミーナにはもうわからなかった。裁判そのものを止めさせるために奔走したが、叶わなかった。領主がどんな裁きを下すのか、黙って拝聴するしかないのだろうか。絶望に囚われたユアナに、励ましも慰めも希望も、何も与えてやれないまま。
茫然としている間に、領主がやってきて壇に登った。ごほんと咳払いし、威儀を正しておもむろに口を開く。
「さて皆、先頃より既に証言の聞き取りを行っていたから、おおよそは既に承知だろう。これなる女、ユアナが、魔女の毒を使って小作人ウルスに見ての通りの傷を負わせた事件だ。司祭ヤンクの証言、ならびにあの小屋で集まっていた女達の証言を吟味した結果、確かにユアナは悪魔のわざによる穢れた毒を用いたと明らかになった」
ざわめきが起きる。領主は手を挙げてそれを鎮め、一段と声を張り上げた。
「ただし! あくまでもそれは偶然によるもの、一度きりのものであろうというのが、儂と司祭の見解だ。ユアナは主への祈りも欠かさず、取り調べの間も今もこの通り、いたって正気のふるまいにとどまっておる。悪魔と契約して《聖き道》を踏み外し、本物の魔女となったわけではなく、ただ一時、たまたま、憎しみや怒りに囚われたその隙に、悪魔に付け入られて毒を用いたのだ」
いささか苦しいこじつけではあるが、領主の説明にヘルミーナはほっと息をついた。やはり彼は無理にも着地点を用意する才に長けている。これならあるいは、と望みを抱いたのはユアナも同じで、縋るような目を領主に向けた。しかしペトレはそれを無視して冷徹に続けた。
「従って、ふたたび危険を招かぬよう、悪魔に目を付けられた小屋は当分、立ち入りを禁止する。ユアナに限らず、誰もだ。そしてユアナは償いをせねばならない。まず裁判にかかった費用ならびに傷害罪の罰金、あわせて銀貨五百枚」
ユアナが息を飲み、瞠目する。コロジュの嫁ぎ先のように町で中堅の商家なら、ちょっと掻き集めたら工面できる金額だが、この小さな村では大金だ。実家はそれなりに裕福な農家であるとはいえ、ユアナ個人の財産など無に等しいのに。とても払えない。
むろん領主は承知の上で、冷ややかにユアナを見下ろして言った。
「支払えないというなら、別な条件がある。見ろ、おまえのせいでウルスはこのざまだ。醜くなっただけでなく、目をやられて見えづらくなり、日々のことにも難儀しているという。よっておまえがその償いに、この男の妻となり生涯その身辺の世話をするならば、銀貨二百枚にまで減額しよう」
「そんな!」
思わずユアナは悲鳴を上げて身を竦ませた。ウルスがにちゃりと醜悪な笑みを広げ、ヘルミーナは「酷すぎる!」と抗議の叫びを上げる。だがむろん領主はお構いなしだ。
「その場合は支払いに五年かかろうと十年かかろうと構わん。ああそれから、教会にも奉仕を通じて罪の清めを乞わねばならんぞ。あの畑で引き続き……」
無慈悲な宣告に身を震わせていたヘルミーナは、遠くから響くトトッ、トトッ、という規則正しい音が聞こえていなかった。否、怒りに滾る己の拍動かと思っていたのだが、背後が急に騒がしくなって、そうではなかったと気付いたのだ。
ユアナに判決を聞かせていた領主が何事かと顔を上げ、ぎょっとする。人垣の向こうに騎乗した人物が駆けつけたところだった。
「火炙りよりは穏当な判決のようだが、その裁きは撤回してもらわねばならん」
はっきりと力強く告げたのは、若い男だった。恐らく三十歳ほどだろう。ひらりと鞍から降りる身ごなしは戦慣れした戦士のようで、実際その腰には立派な剣を帯びている。だが胸には司祭の銀環が光っていた。
「サモシュ村領主、ヴァイダ家のペトレ殿とお見受けする。私は浄化特使グラジェフ。この村で魔女の告発を受けた無実の者が処刑されようとしている、と聞いて来た」
男の名乗りに村人達がどよめく。悪魔祓いと外道退治を専門とする浄化特使は、聖職者の中でも特異な存在だ。選りすぐりの精鋭だけが神銀の剣を授けられ、普通の司祭では知り得ない秘術を駆使して邪悪と戦う。ひとつ所に留まらず、要請に応じて世界中を旅する彼らに出会うことは滅多にない。
驚きと興奮に沸き立つ村人らとは対照的に、ヤンク司祭は土気色の顔で棒立ちになっていた。領主は明らかに面倒なことになったという顔をしたが、用心深く態度を取り繕っている。ユアナはまだ戸惑っていたが、ヘルミーナは天を仰いで「助かった」と嘆息した。
グラジェフは馬の手綱を引いて、ゆっくりと前に進み出た。灰色と黒のまじった髪を短く刈っているため、狼のような印象を与える。彼はその鋭い目でじっとユアナを見つめ、それからより厳しいまなざしをウルスとヤンクに注ぎ、最後に領主に向き直った。
「後で改めて精査するが、今この場で断言しよう。この女は『魔女』ではない。それに、この男の顔がこのように爛れている原因も、何ら魔のものは関係ない。よって訴えは不当であり、裁きは無効である」
村人のざわめきが大きくなる。領主は取り急ぎ撤退して仕切り直そうとした。
「特使殿が仰せなら間違いはあるまいが、ならばとすぐには決めかねる。ここはひとまず解散させるから、続きは屋敷で話そうじゃないかね」
だがそんな姑息を、若い浄化特使は切って捨てた。
「むろん正式な手続きは後でよろしかろう。だが今こうして皆が集まっているこの場で無実を明らかにせねば、疑いをかけられた者の名誉が回復されない。領主殿が先ほどの判決を下すにいたった根拠としては、司祭ヤンク、貴殿の証言が要となったのであろう」
容赦なく名指しされ、ヤンクが震えだした。返事も出来ずに立ち尽くしたまま、逃げ場を探すように視線をうろつかせる。村の司祭としての貫禄や権威が、ぱらぱらと剥げ落ちていく音まで聞こえそうなざまだ。
「どのような理由があってかは知らぬが、かほど悪辣に人を貶める偽りを証言するなど、許されまじき行いだ。司祭ならば間違いなく、霊力を用いてなんらかのわざが行われたのか否か、その目で見定められるはず。そのための銀環であろう。にもかかわらず魔女であると主張したのであれば、己の嘘を承知の上での偽りであるか、さもなくば嘘か真かも判じられぬほど愚かであるか、いずれかだ。貴殿が司祭として不適格であると、聖都に報告せざるを得まい」
ヤンクが何か言おうとして、しかし言葉にならず、喉の奥で奇妙な呻きを立てる。村人達は互いに顔を見合わせ、なんだこの流れは、つまりどういうことなんだ、とささやき合う。その機を逃さず、ヘルミーナが声を上げた。
「そうさ、その男は大嘘つきだよ! 自分がしくじったって認めたくないから、悪いのは全部ユアナだって言い張ったのさ!」
特使が振り返り、彼女の目を見て納得したようにうなずいた。
「そなたがコロジュに来たという産婆か」
「ああそうだよ。ウルスをあのご面相にした癇癪玉を作ったのも、あたしだ。だから中身も手当てもよく知ってる。どう間違えたからこんな酷くなったのか、ってこともね! あたしに任せろ治してやる、って言ったのに、ヤンクは悪魔の毒だって言い張って聞き入れなかった。我が身が可愛くてユアナを生贄にしたのさ!」
皆も聞くがいい、とヘルミーナは声を張り上げて経緯をぶちまけた。普段ならば産婆の言うことに懐疑的な人々も、浄化特使の糾弾を聞いた後ではそれを信じた。次第に皆の顔つきが、司祭に向ける目が、険しくなっていく。
危険を感じた領主が焦りを隠せない声で怒鳴った。
「もう充分だ! ユアナは無実、魔女ではない。以上でこの裁判は終わりだ。さあ皆、家に帰れ、仕事に戻れ!」
散れ散れ、と手振りで命じ、屋敷の男衆がいささか乱暴に見物人を追い出しにかかる。不満の声があちこちで上がる中、領主は壇を降りて特使に詰め寄った。
「ここまでしなくとも良かろう! ヤンク司祭にも名誉と人生があるのだぞ、それを衆人環視のただなかで踏みにじるなど……貴殿には人の心が無いのか」
難詰されて、グラジェフは不快げに眉を上げた。
「被告人の名誉と人生はどうでも良いと?」
「女にそんなもの!」
領主は反射的に呆れ声で応じ、次いで失言したかと渋面になる。
「いや、どうでも良いとまでは言わん。だが司祭のほうがいろいろと重大事だろうが。違うかね? ともかく、悪魔のわざだという訴えそのものが誤りであったなら、儂が処断することはもう無い。後のことは教会の領分だ。ヤンク司祭を罰するのか、罷免して代わりを寄越すのか、何にせよそちらの判断でやってくれ」
火の粉を払うように手を振り、彼は忌々しげに舌打ちして問題司祭を一瞥した。長い付き合いの司祭ではあるが、不正が明らかである以上、それでも庇い立てするほどの義理や情は無いらしい。あるいは、ここで切り捨てたほうが損失が少ないと判断したか。
そこへ、群衆をかき分けて領主の家人がやって来た。
「殿様、ウルスはどうします? 俺のことは見捨てるのか、とごねておりますが」
「ええい面倒な奴だな。魔女……いや、産婆を頼れば良かろう、本人が治せると豪語しておるのだから。そう言って追い払え。まったく、手間のかかる。自業自得だろうに」
ぶつくさぼやいてから、領主はえへんと咳払いして取り繕った。
「さてと、儂も帰るとするか。特使殿も、呼ばれて遠路を駆けつけてみればけちな嘘つきが一人だけ、悪魔も外道もおらんときては、さぞがっかりだろう。早々に始末をつけて本来のつとめに戻られるが良い」
もてなしはせんぞ、と言外に突っぱねて背を向ける。グラジェフは冷ややかにそれを見送ったのち、ヤンク司祭に歩み寄った。
「……悪魔も外道もおらぬ、か。確かに今はまだその気配はない。だがそれはこの村が清く保たれていることを意味しない」
声は静かだったが、ヤンクは厳しく鞭打たれたかのように竦んだ。グラジェフはまったく同情も手心も加えないまま続ける。
「貴殿にまだ司祭の良心があるならば、すぐに教会へ戻り、己が罪を主に懺悔した上で、怠ってきたつとめを果たされよ。村の外はおろか内にまで、魔の澱みが見られるぞ。警戒を要する濃さではないとはいえ、放置しておれば外道の発生を招きかねん」
「わ……私の力不足で、まことに……」
ヤンクはなんとかそこまで絞り出したが、ついに堪えきれなくなり、両手に顔を埋めてくずおれた。おお、と絶望の呻きを漏らして地面に突っ伏し、愚痴なのか祈りなのか不明瞭な嘆きを繰り返す。みじめに震える背中を、グラジェフは無言で見下ろすだけだ。
近寄りがたい厳しさを纏った浄化特使に、怯まず話しかけたのはヘルミーナだった。
「ちょいと失礼、特使様。何やら今、聞き捨てならないことが聞こえちまったんだけど。つまりヤンク司祭は、あたしらには霊力だのなんだの見えやしないのをいいことに、仕事をさぼってたわけかい」
「違う!」
うずくまったままヤンクが叫んだ。ヘルミーナは剣呑な目つきでそれを睨みつける。
「あたしにはそう聞こえたよ。四年前に外道が出てアガタの両親が死んだのも、あんたが怠けたせいだ、って」
「あれは私のせいではない! 何も知らんくせに侮辱するな!」
がばっ、と顔を上げてヤンクが吠えた。しかしもうその言葉には、かつて彼に備わっていた権威や信用の一欠片たりとも残っていない。
グラジェフはやりとりが他の村人にまで広まらないよう、産婆の追及を遮った。
「聖務を怠っていないと主張するのなら、すぐに先ほど言ったことを実行に移されるが良かろう。私も後から見回って、気になる場所は清めておく。さあ行け」
特使の意を汲んで、ヤンクが力なく立ち上がり、足を引きずるようにして去って行く。ヘルミーナは容赦なく鼻を鳴らした。とことん追い詰めたくはないので本人に聞こえないほどの声で、しかし言わずにおれない悪態をつく。
「さぼりでなきゃ何だってんだい。本当につくづく最低の司祭だね」
「一概にそうとも言い切れん」
横からグラジェフが淡々と指摘した。一般信徒にどこまで話して良いものか、言葉を選びながら説明する。
「偽りの証言についてはまさに最低だが。清めについては司祭にも力量の差がある。銀環を握って聖句を唱えれば、誰でも同じようにゆくものではないのだ。秘術の精確さや堅牢さ――つまり取りこぼしなく清められるか、それが長持ちするかは、その者の能力によるのでな。真面目に努力しているつもりでも、十全につとめを果たせるとは限らん」
そんなことを話しているところへ、ユアナがおずおずと遠慮がちにやって来た。気付いた特使が目を向けると、彼女は恭しく、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。あなたのおかげで救われました」
「礼ならば私よりも、コロジュの教会で粘り強く助けを求めた、そなたの友人に言いなさい」
応じた声に初めて少し温もりが宿る。ユアナはヘルミーナと顔を見合わせた。途端に産婆は照れ隠しなのか苦笑いし、要らない要らない、と手振りで示す。それから白々しく、空を仰いで太陽の位置を確かめるふりをした。
「ああ、すっかり日も高くなっちまってる。急いで帰らなきゃ。何日も留守番させて、待ちくたびれたアガタに山ほど文句を言われちまうよ。それじゃユアナ、今日はこれで。お裁きが取り消しってことは、あの小屋もまだ使えるんだろ? また様子を見に行くよ」
「ええ、たぶん大丈夫だと思うわ。本当に色々ありがとう、ヘルミーナ」
いいんだってば、とごまかして産婆がそそくさ退散する。ユアナは笑顔で手を振った。訴えが起こされて以来、数週間ぶりに得た安心が、すっかり気持ちを緩めていた。
一方で浄化特使にはまだ仕事が残っていた。どこかへ草を探しに行きたそうな馬をなだめつつ、広場を見回して問題なしと確認してから、彼はおもむろに切り出した。
「ユアナ、そなたの小屋へ案内を頼む。今回の件について詳細な経緯を報告せねばならぬゆえ、そこで話を聞かせてもらいたい。コロジュでは大雑把な事情しかわからなかったのでな」
「あ……はい、こちらへ」
ユアナはやや気後れしたものの、先に立って歩き出した。立派な特使様に、粗末な小屋とままごとのような祭壇を見られると思うと恥ずかしくて消え入りたくなるが、断るわけにもいかない。それに、無罪になりはしたものの、このまま彼女の小さな避難所を維持できるかどうかは、この特使が上の人間にどんな報告を送るかにかかっている。
道すがら、ユアナは慎重に質問を投げかけた。
「ヤンク司祭は、どうなるのでしょうか」
「コロジュの司教がどう判断されるかによるが、司祭の位を剥奪されるのは確実だろう。暫定的にあちらの司祭を誰かこちらへ移らせ、後日、聖都で正式に任命された新しい司祭が着任することになる」
「それまでは、ここの教会に残るんですね」
「本人が逃げ出さない限りは。……あれがその小屋か。ふむ、教会のすぐ近くなのだな」
「ええ。だからヤンク司祭もてっきり教会の土地だと思っていたそうです。実際は領主様から借りている形なのだそうで……今後も使わせてもらえるかどうか。新しく来られる司祭様にも助けて頂けたら、本当にありがたいのですけど」
「その点についても詳しく聞かねばなるまい。そなたの目的やこれまでの活動について具体的に。長くかかりそうだから、馬は教会のほうへ預けておこう」
「それが良いと思います。小屋のまわりには、繋いでおける場所がないので」
言ってユアナは笑いをこぼした。駒留めなど最初から無いし、近くの低木や柵に繋がれたら確実に畑の野菜を食べられてしまう。グラジェフも辺りの景色を眺めて納得したらしく、うむ、と微かに笑いを含んだ相槌を打った。