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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
第一部 主の御手が届かないなら
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4-4 眠りを護るわざ


 家には数年前まで四人が暮らしていたから、椅子も食器も数は足りた。居間は食堂兼作業場であり、古いテーブルのそばに糸車が置かれている。毛織布で仕切られた向こうは寝室だろう。

 壁際には織機があったが無残に壊れており、母娘は揃って完全にその存在を無視していたので、客人たちも目に入らないふりをした。


 ベルタは久しぶりにまとまった量のスープを作れると張り切って、内容は質素だが量はたっぷり振る舞ってくれた。

 和やかな雰囲気が一瞬緊張したのは、食前の祈りを捧げた時だった。グラジェフがお決まりの、主のお恵みに感謝します、と述べた後、ほかの全員が繰り返すべきところを、ダンカ一人が「聖霊さまに感謝します」と言ったのだ。

 ベルタがぎくりとし、慌てて娘をたしなめようとするのを、グラジェフはわずかな仕草で穏やかに止めた。


 その後も彼は、あくまで“手助けに来た者”としての態度を貫いた。ダンカの支離滅裂な発言にもまったく動じず、決して否定も非難もせず、さも共感しているかのように聞き入って、断片的な情報を引き出していく。


「そなたの聖霊様はお優しいのだね」

「ええ、とっても! 物知りで優しくて、あたしを助けてくれるのよ。ヤナも可愛がってくれてるの。ヤナはいい子、ツメクサの冠のお姫さま」

「さぞ似合うだろうとも」

「あたしあの子に花冠を編んであげる。聖霊さまはお花の名前もなんでも知ってるの」

 夢見るように体を揺らしながら、ダンカは常に抑揚をつけてしゃべる。グラジェフは笑みを絶やさないまま、慎重に質問を挟んだ。


「聖霊様は、我々を歓迎してくれるだろうかね」


 ふっ、とダンカの笑みが消えた。えも言われぬ緊張が場に漂う。グラジェフは銀環を握りしめたい衝動をぐっと抑え込み、息を詰めて反応を待つ。悪魔憑きとの対面で幾度も味わい、すっかり肌に馴染んだ気配だ。

(いる。確かにこの娘には、悪魔が憑いている)

 銀光に変化はなく、うすぼんやりとダンカの身を取り巻いているだけだが、にもかかわらず彼は確かに、悪魔がこちらを意識したと感じた。

 隣でエリアスが身じろぎした。テーブルの下で剣の柄を握ったのだ。直後、ダンカはまた無垢な笑顔に戻った。


「どうしてかしら、お返事してくれないわ。でも、いつでも聖霊さまはあたしの味方。善いお客さまはおもてなし、悪い人なら谷へ落とすのよ」

「これっ!」

 さすがにベルタが血相を変えて叱る。ダンカは途端に泣きそうな顔をして縮こまり、慌ててグラジェフがとりなすはめになった。


 そうこうしてなんとか夕食を乗り切り、後片付けも済んだ頃には、日はとっぷり暮れていた。

 ベルタはちびた蝋燭に火を灯し、司祭二人を階上、というか屋根裏部屋に案内した。細くて急な階段梯子は客人を怯ませたが、ベルタは慣れたものだ。


「こっちは以前、ダンカとジェレゾが使ってた部屋です。今は娘も下であたしと一緒に寝てますから……こっちの藁のほうがたぶん、ましだと思いますし」

 寝台は農家の常で、家族が一緒に寝られる大きさだ。グラジェフが礼を言うと、ベルタは蝋燭を置いて、暗い中をすいすい降りていった。


「さてと、久々にそなたもまともな寝床にありつけるというわけだ」

 グラジェフは武器を外しながら、さりげなく言った。蝋燭の弱い明かりでも、エリアスがぎょっとしたのがわかる。

「なんだ、まさか床で寝るつもりではあるまいな? 充分三人は入れる寝床があるというのに」

「……私は、その」

「エリアス。いい加減に意地を張るのはやめろ。誰に向かって何を証明しようとしているのか知らぬが、身体を酷使してばかりでは一年ももたぬぞ。そもそも、今夜は特に、離れて眠るべきではない。そんな初歩的なことも忘れたか」


 厳しく難じ、グラジェフは腕組みして睨みつける。若者はうろたえて目を泳がせたが、じきに理解の表情になった。困惑が消え、冷えた理性と警戒が取って代わる。


「夢を見ている魂は無防備である――そうでしたね」

「思い出したか。そなたは悪魔が人間を介さず力をふるうことはないのかと問うたが、夢のことは忘れていたらしいな」


 悪魔が魔術をおこなったり現実の事象に関与するには、基本的に人間を介さねばならない。だが夢の中は別だ。夢は世界の境界が曖昧になる場であるから、悪魔の侵入を許してしまう。

 しかるべき措置を取っておかなければ、現実の肉体は損なわれずとも様々な害を被る。精神を喰い荒らされ正気を失ったり、性質の悪い罠を仕掛けられて覚醒時の行動を支配されてしまったり、最悪の場合は魂を呑まれて廃人になったり。


「清めと防御の印を。むろん出来るだろうな?」


 グラジェフが挑発すると、エリアスは軽く眉を寄せたが、余計なことは言わず取りかかった。

 床に置いた鞄を開け、蝋燭の弱い明かりのもとで、間違えないよう注意して小さな瓶を選ぶ。中身は特別な塩だ。麻袋に入れた月桂樹の小枝、場を清浄に保つ銀鈴樹の精油も。それから小指ほどの白墨。諸々の道具は浄化のつとめに重要なものばかりで、厳選しても荷物を減らすのが難しい。


 白い正方形の麻布を床に置き、小瓶ふたつと月桂樹の葉を四枚、白墨を載せる。エリアスはその前に立ち、銀環に両手を添えて、静かに長く息を吐く。白銀の光が身体を満たし、床に置かれた聖なるものと共振するのがグラジェフにも視えた。

 呼吸に合わせて、エリアスが微かに唇を動かす。《力のことば》による清めの手順だ。声高らかに唱えずとも、言葉にしっかり力を載せて振動させたら効果はあらわれる。


 アータール……ヴァーユ……


 一言、また一言。銀の光がエリアスを中心にゆっくり渦を巻き、拡がってゆく。充分に光を巡らせてから、彼はしゃがんでまず塩の瓶を取った。手のひらに取り、部屋の隅から隅へとゆっくり歩きながら少量ずつ床に撒く。

 続いて月桂樹の葉を取り、指に落とした精油を擦りつけてから、寝台の周囲に配置した。一枚置くごとに、通常の言葉で聖句を唱えるのも忘れない。北の門を守るは誠実なツェリヤ、西の門には勇猛なるアイテァ……守護者の名を授けられた月桂樹が仄かに光る。


 こうした司祭のおこなうわざは、悪魔の用いる魔術とは明確に区別して、秘術と呼ばれる。いにしえの知識に基づくものであるから、一般人に対しては禁忌とされ、原則として見られてはならない。司教や大司教がおこなう癒しの秘蹟などは公開されるが、秘術において使用される言葉を暗記されたり、背後の理論を類推されたりしないよう、注意深く隠されている。

 外道や悪魔を退けるためには神秘のわざを知らねばならない。だがそれは同時に、魔の誘惑に自ら近付く危険な行為でもある。ゆえに、終生神に仕えると誓った信仰堅き司祭でなくば、触れてはならない知識なのだ。

(そのせいで人手不足でもあるのだがな)

 聖職者、わけても浄化特使は、質の劣る人員を増やしても余計に被害や危険が増す。その理屈はわかるし、長年つとめを続けた実感としても、半端な能力しかない者に出しゃばられては迷惑だと思う。しかし。


 グラジェフの考えが横道に逸れている間にも、エリアスは魔のものの侵入を阻む作業を続けていた。白墨で床に《力のことば》を記してゆく。寝台は壁に接しているので完全に取り囲むことはできないが、床と壁に護りの言葉と象徴を配置して結界をつくってゆく。

 あとは中に入って閉じるだけ、となった段階で、エリアスは手を止め、評価を待つようにこちらを見た。


「上出来だ」

 うむ、とグラジェフはうなずき、しるしを消さないよう注意してまたぎ越すと、寝台に腰掛けた。張り巡らされた銀の糸を、ちらちらと微かな光が辿っていく。お手本通りの出来映えと言うべきだろう。彼は手を組んで就寝前の祈りを捧げた。

「主よ、実り多き一日をつつがなく過ごせましたこと、感謝いたします。満ち足りた眠りを賜り、明日もまた主の栄光を称え、つとめを果たせるようお守りください。……さて、これで安眠できれば良いが」

 言いながら、ごく当然に長衣を脱いで麻の肌着一枚になる。毛織りの長衣を着たままでは寝心地も悪いし、何より布が傷む。丁寧に畳んで枕元に置き、外した銀環をそこに載せた。


「いびきがうるさいからといって、結界の外に蹴り出さんでくれよ」


 おどけた一瞥を若者に投げかけ、さっさと寝台の片側に潜り込む。干し草や藁を積んだ上にぺらぺらの羊毛敷布を載せてシーツをかけた寝床は、いささかチクチクするものの、床で寝るより断然楽だ。上掛けは麻のカバーをかけた薄い羊毛布団一枚だが、真冬ではないし、共寝の相手がいるのだから凍え死にはすまい。


 エリアスが仕上げの聖句を唱えて結界をつなぐ。その後しばらく、ためらいの生み出すぎこちない静寂が続いた。

(やれやれ、眠ったふりをしてやれば安心するのか?)

 性別がばれることを警戒しているだけならまだ良いが、女と知っていて共寝を強いているのでは、だとか不名誉な疑いをかけられているとしたら耐えがたい。ベルタの褒め言葉に笑ってしまったのは失敗だった。ああくそ、枢機卿め。グラジェフは軽く瞼を閉じたまま憮然とする。


 やがてエリアスも思い切ったらしく、ごそごそと音がしてからふっと蝋燭が消えた。慎重に横たわって枕に頭をつけた途端、意図せずしてだろう、深い安堵の息が漏れる。背中でそれを聞いていたグラジェフはにやりとした。


「そらみろ、まともな寝床は良いものだろうが」

「ええ、認めます。悪魔の心配をしなくていいなら、申し分ないのですがね」

 負け惜しみを付け足されたので、皮肉を返してやった。

「己の腕前に自信がないのなら、眠る前に主と聖御子にお縋りしておくことだ」

「…………」


 返事はない。だが、若者のむすっとした顔が目に見えるようで、グラジェフは声を殺して低く笑った。

 どうやら真面目に祈っていたらしい。沈黙の後、エリアスがそっと小さく「おやすみなさい」とささやいた。その声が不意に頼りなく聞こえて、グラジェフはとっさに答えられなかった。動揺を隠し、もう半ば眠っているように装って「ああ、おやすみ」と曖昧に答える。


(もし娘がいたら)


 考えてはいけない。わかっているのに、想いが勝手に芽生え育って葉を広げる。

 もし自分があのまま村で育ち、早々と結婚して家庭を持って、娘をもうけていたら。幼い時分は毎晩こんなふうに、おやすみの挨拶を交わしたのだろか。やがて大きくなった娘に、もうお父さんとは一緒に寝ない、と言われてしょんぼり落ち込みながらも成長を喜んだりしたのだろうか。


(無益な妄想はやめて、さっさと眠れ)

 ぎゅっと目を瞑り、平和な田舎村の夢想を消し去る。あり得たかもしれない人生を頭の中で幾度辿ったところで、それが現実になることは決してない。今ここにいる、剣を携え主の御為に戦い続ける独りの男、それだけが確かな事実。選択の余地は狭かったが、それでも自身で決めて歩んできた道だ。

(主よ、守りたまえ)

 雑念を払うまじないのように祈る。繰り返し、繰り返し。じきに彼の意識は、暗く深い海の底へと沈んでいった。


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