五章
五章
夏の盛りになる頃には、ユアナの小屋はちょっとした集会所のようになっていた。
はじめは訪問者といえばヘルミーナとアガタだけだったのが、一人、二人と礼拝の後で小屋を覗きに来るようになったのだ。礼拝堂に残っておしゃべりしていたのが、こちらになったわけである。
それは単に場所を移した以上の変化を意味した。司祭の領分である教会から、女だけの小屋へ。パン焼き窯での共同作業とも違って、簡素ながら祈りのための祭壇がある場所を確保したことは、そこに集う女達に不思議な精神の高揚を与えた。
むろん女ならば皆、喜んで集まったわけではない。ユアナの母や兄嫁は相変わらず冷淡で、「あたしらが追い出したみたいじゃないか、嫌らしい当てつけだよ」としかめ面で愚痴り合ったし、年配の女の中には「まだ若いんだから再婚しなさい」と説教しにくる者もいた。
一方でそうした声からユアナを庇い、「まあいいじゃないの、もう義理は果たしたんだから好きに生きれば」と支持してくれる者もいて、ユアナは随分と慰められた。
そんな雰囲気なもので、司祭ヤンクも次第に口出ししにくくなっていった。
毎日通って、祭壇の整え方や祈りの文言、神に奉仕するのに相応しい生活態度などあれこれと指導していたのが、いちいち言われなくてもユアナが先回りしてやってしまうようになると、女ばかりで盛り上がっている場に男一人ではいたたまれない。会話の内容が子供のことや、女の身体特有の問題についてとなれば、なおさらだ。
司祭が抱いたうっすらとした隔意は、村人達にもじわりと伝わっていく。悪意を持つ者にとっては「やはりあれは魔女集会なのだ」という確信の種として。
当のユアナ自身はこの暮らしから喜びを得て、八年の結婚生活で負った傷を癒やされていたが、外から眺める人々にとって彼女の存在はまだ危うい均衡の上にあったのだ。
――そこへ、一撃が加えられた。
夏の長い黄昏は、昼間の熱の名残でとろりとした空気に満ちている。時間までが動きを邪魔されて、いつまでもこの曖昧な薄明かりが続きそうに錯覚する。
畑仕事を終えたユアナは、夕べの祈りを捧げるため小屋に急いでいた。戸外でも構わないのだが、できるかぎりきちんとしていたかったのだ。神に仕える敬虔な信徒であると、自他に証するように。
使った籠やあれこれの道具を片付けて、前掛けで手を拭いながら戸口をくぐる。直後、何かが腕を掴んだ。
「ひっ……!」
咄嗟に声が出ず、うわずった悲鳴未満の息だけが喉をこする。反射的に大きく飛びすさって逃れたが、戸口の際に立てかけてあった突っ支い棒や箒を倒してしまった。騒々しいばかりでなく、薄暗い屋内で床に長いものが転がり、危うく足を取られそうになる。
(逃げなきゃ)
外へ、と視線を向けたが、身体が言うことを聞かない。ほんの一歩二歩だというのに、さっきは動いた足が凍り付いている。暗がりに潜んでいる人影の、ふーっ、ふーっ、と荒い息遣いが耳に届いて、ユアナはぞっと震えた。
「ウルス」
正体がわかったぞ、と名を呼ぶのが精一杯だった。ここで何をしているの、出て行って――そう怒鳴ってやりたいのに、やるべきなのに。
熱く昂った息を吐きながら、ウルスがじわりと距離を詰めた。その動きに押されたように、ユアナは奥へと逃げ込んでしまう。
(違う、こっちじゃないのに)
住み慣れた小屋の中、どこに何があるかは把握しているが、こちら側に追い込まれたら裏口にたどり着けない。後悔と逡巡で次の動きを決められずにいる隙に、ウルスが襲ってきた。
無理やり引き寄せられ抱きすくめられ、べちゃりと濡れた唇が顔に押し当てられる。ユアナは歯を食いしばって抵抗したが、敵わない。服の上から尻を鷲掴みにされ、屈辱に涙が溢れる。湿った声が耳元で、支離滅裂なたわごとをささやいた。
「可哀想になぁ、誰にも相手されなくてよ。来るのは女ばっかり、男は一人もいねえ」
ウルスは荒々しく身体を擦りつけながら、このまま押し倒してことに及ぼうと、都合の良い場所を探すように動き回る。その結果ユアナにとって幸いにも、祭壇に近付いた。
ぶつかった拍子に祭具が金音を立て、思わず「神様」と祈りが口をつく。さすがにウルスも一瞬怯んだ。次の瞬間にはいっそう興奮して欲情を滾らせたが、わずかな隙がユアナに奇跡的な反撃を許した。
「このっ……!」
手探りで祭壇上の燭台を掴み、固いそれでもって男のこめかみを殴りつける。ウルスが獣のように叫び、のけぞった。ユアナは渾身の力で彼を突き飛ばし、逃れて棚のところへ走る。定位置から何も動かしていないのに、目当ての物を探すのに手間取った。ぎりぎりで例の癇癪玉を掴み、向き直った時には怒り狂ったウルスの顔が眼前に迫っていた。
警告する余裕など無い。
ユアナは息を止めて目を瞑り、無我夢中で球を叩きつけた。吸い込まなくてもわかる刺激臭がパッと拡がり、直後にウルスがすさまじい悲鳴を上げる。
「ギャアァァ! なんっ、何しやがっ……ヒィー、いてえぇ!」
苦悶に喚きよろめき、右へ左へ、あちこちにぶつかりながら戸口へ急ぐ。ユアナは目がチクチク痛むのを瞬きして堪え、自分もこっそり逃げ出した。
(どこへ行こう)
小屋に留まっていたら、じきにウルスが顔を洗って逆襲に戻るかもしれない。少なくとも明日の朝まではよそに避難しなければ。一番近いのは教会だが、恐らくウルスもそこを目指すだろう。井戸があるし、魔女に何かされたのなら司祭の手当てを受けるのが一番だから。
(そうだわ、ヘルミーナ)
産婆のところへ行こう。彼女は間違いなく味方だし、あの球の中身が何なのか知っているのだから、この目の痛みも治してくれるはず。
歩き出そうとして、膝がガクガク震えていることに気が付いた。へたり込みそうになったのを強引に奮い立たせる。宵闇の迫る中、ユアナは独り、おぼつかない足取りで道を辿って行った。涙がいつまでも止まらないのは、痛みのためだけではなかった。
「やっぱりかい、あのろくでなしめ」
話を聞いたヘルミーナは舌打ちし、すぐに処置をしてくれた。油を染ませた布でそっと丁寧に瞼や頬を拭い、それから水で洗顔させて、仕上げに氷雨草の軟膏を薄く塗る。それが終わると痛みと恐怖が薄らぎ、ユアナは深く安堵の息をついた。
「ありがとう、おかげで助かったわ。あの球、中身は何なの? あなたの手当てを受けなくても、酷いことにならないかしら」
「まさかケダモノの心配かい? ふん、どうなろうと知るもんかね」
「私だってそう思うけど、酷くなったら逆恨みされるわ。せっかく皆が集まるようになって居心地も良くなってきたのに、ぶち壊されたら……」
ユアナが懸念をつぶやき、ヘルミーナも渋面になる。
「普通に考えりゃ、顔を洗うだろうさ。本当は油で先に拭き取らないと、ヒリヒリ痛いのが広がっちまうけど、何もしないよりはマシだろうよ。それに多分、教会に向かったんだろ? だったら司祭は何が原因かわからなくても、癒やしの秘術と一緒に傷薬を塗るか、銀鈴樹の精油で清めようとするはずだ。どっちでも悪くないさね」
大丈夫だよ、と大雑把に請け合ってから、ふと嫌なことを思い出して小さく唸る。
「馬鹿の一つ覚えで金翅草を使ったりしなけりゃいいけど」
「駄目なの? あれは風邪でも腹痛でも、何でも効くと思ってたわ」
「ああそりゃ、金翅草はいい薬だよ。身体の中の具合が悪いのは、大概あれで治る。けど外側からのは駄目だね。擦り傷や切り傷、虫刺されとか火傷とか。あの球の中身は唐辛子を主にしたあれこれでね、かぶれと火傷をいっぺんに負わせるようなもんだ。そういうところに金翅草を使ったら、余計に腫れ上がっちまう。普通は煎じて飲ませるもんだから、顔に塗ったりはしないと思うけど……なんせヤンクだからねぇ」
困ったもんだ、とばかりに頭を振ったヘルミーナは、ユアナの不安げな視線に気付いて表情を取り繕った。
「まあ、そうなったらしょうがないから、あたしが治してやるさ。女を襲った奴なんか、当分の間、腫れ上がった顔で泣き暮らすのが順当な報いだけどね。せいぜい高く恩を売りつけてやろうじゃないか。……さあ、あんたはもうお休み。明日、小屋に帰る時はあたしも付き添ってあげるよ」
「ありがとう。本当に、こんなに助けてもらって」
「気にしなさんな、お互い様だよ。そっちの畑がうまいこといったら、全部教会に納めちまわずに、あたしのほうにも融通しとくれ」
取れるところから返してもらうからね、と冗談めかしてヘルミーナが笑う。ユアナもようやく気分が明るくなって、ふふ、と微笑んだ。
ユアナは翌日の昼になってから恐る恐る小屋に戻ったが、誰も待ち受けておらず、何の騒ぎにもなっていなかった。拍子抜けした気分でひとまず安堵した彼女に、ヘルミーナは「気を抜くんじゃないよ」と釘を刺す。
「ああいう男は執念深いからね。撃退されたからって諦めたり、おとなしく良い子になるなんて期待しちゃいけない。絶対に何かやり返しに来るよ」
「でも、どうしたらいいのかしら」
やはり実家に帰るしかないのだろうか。ユアナが落胆する横で、ヘルミーナは難しそうに思案しつつ唸った。
「……腹立たしいけど、しばらく領主様んとこの男手を借りるしかないかもねぇ。ずっとじゃなくていいから、番犬代わりにって言ってさ」
ヴァイダ家は兵士と呼べるような者は抱えていないが、使用人の数はそれなりに多い。そして中には、鎧や剣こそ持たないものの力仕事や荒事を担う男達もおり、何かあれば彼らが駆り出されるのだ。
「あたしがこっちに居座ってもいいけど、女ばっかり何人いたって効きゃしない。このままここでの暮らしを続けようと思うなら、それこそ本物の修道院みたいに、丈夫な塀で取り囲むしかないかもね」
そう言って産婆は辺りを見回した。緑の畝の向こうに教会が見える。そこまで遮る物は何も無い。ユアナは戸惑い気味に、曖昧な声音でつぶやいた。
「何もそんな、すごいことをしたいんじゃないのよ。ただ女だけで祈って、話し合って、ちょっと心を休めたい。安全な場所が欲しい。それだけなのに」
やれ子守をしろ、服を繕い食事を作れ野良仕事をしろ、舅姑の世話をし、夫の求めに応えて満足させろ――ひっきりなしに要求される毎日から逃れたい。たとえ束の間であっても。ただそれだけの願いを叶えるために、要塞のような建物が必要なのだろうか。そもそもそれを用意するだけの金も土地も権利もないのに。
遠くを眺めて茫然としたユアナの肩を、ヘルミーナが励ますようにそっと叩いた。
「ともあれ、今は今やれることをするしかないさね。ウルスのせいで小屋の中がひっくり返ってるんだろ、片付けよう」
「そうね。ああ、何も壊れていませんように」
二人は連れだって小屋に入り、倒れたり転がり落ちたりした物を、元通りに片付けていった。ユアナは狼藉者の頭に一撃くらわした燭台を見付けて拾い上げ、丁寧に拭いて祭壇に安置すると手を合わせた。咄嗟のこととはいえごめんなさい、でもおかげで身を守れました、と非礼を詫びつつ神に感謝する。そんな彼女を見てヘルミーナは面白そうな微苦笑を浮かべたが、からかいはしなかった。むしろ不吉な可能性に思い至り、眉を曇らせる。
「大事にするんだよ。あんたが祈れる場所だ」
つぶやくような声だったので、よく聞き取れなかったユアナは怪訝な顔で振り返る。ヘルミーナは繰り返して説明はせず、黙って片付けを続けた。
産婆が何を言ったのか、ユアナが理解したのは二日後だった。
日曜日の朝、礼拝に出ようと教会に向かった彼女は、中に入れてもらえなかったのだ。いつもは出入り自由な礼拝堂の前に、領主の家人が立って睨みをきかせていた。誰もが何だろうと訝りながらも、関わり合いにならないよう避けて中へ入っていく。ユアナも同じくすり抜けようとしたところ、ずいと前を遮られた。
「おまえは駄目だ」
「えっ? どうして」
困惑するユアナに、彼は卑しいものを見下す目つきで傲然と告げた。
「おまえは魔女で、穢れた毒を使ったと訴えられている。調べについては今、殿様が準備をしているところだが、裁きがつくまでおまえを教会に入れるなと、司祭のお達しだ」
「――」
口を開けたものの言葉が出なかった。ユアナは衝撃のあまり、何をどうすべきかまったくわからなくなって立ち尽くす。近くに居合わせて話を耳に挟んだ村人達が、ひそひそと不穏なささやきを交わした。足を止めた数人のまわりに、あとから来た者も何かあったのかとたむろしだす。男は面倒くさそうに舌打ちし、ユアナの肩を押しやった。
「そら、魔女の小屋に帰れ。行った行った」
「待って。毒だなんて、あれはただの」
「俺に言われても知らん。近いうちにおまえも、証言を取るために屋敷へ呼ばれるだろうから、その時に話せ。今は大人しく引っ込んでろ」
とりつく島もない。ユアナは一歩、二歩と後ずさった。信じられない気持ちで教会を仰ぎ見る。不正義を行うはずがないと思い込んでいた相手から、いきなり崖っぷちへ突き飛ばされたような。
よろけながら背を向けかけ、はたと気付いて振り返る。
「……あの、訴えは誰が? ウルスではなく、司祭様が出されたの?」
「知らん。両方じゃないのか」
素っ気ない返事を投げつけられ、ユアナは今度こそ諦めて、ふらふらと小屋へ戻って行った。
※覚書 一一三九年八月付 ヴァイダ家当主ペトレの日記より抜粋
……司祭が怪物を連れてきたと思った。顔中が真っ赤に爛れて腫れ上がり、瞼は目を隠すほどに垂れ下がって、ウルスだと言われてもすぐには信じられなかった。
だが口を開けば確かにウルスだった。魔女にやられた、と訴え、ユアナを口汚く罵って合間にめそめそ泣きもした。
司祭に確認したところ、教会に助けを求めてきた時は、これよりはましだったという。清めの聖水と秘術を施したらこうなった、というのだ。(注*この点についてウルスの証言はあてにならない。もとよりいい加減な男だがそれを差し引いても、痛みと腫れがひどくて、司祭が何をしたかまったく見えていなかったのは明らかだ)
聖き力に対抗して毒を増す邪悪な魔術に違いない、すぐにあの小屋から追い出し、償いをさせねばならない、と彼は訴えた。
もし本当に魔術であるなら教会の領分ではないのかと訊いたが、あの土地は当家のものであり裁判権は領主にあると言って譲らない。自分の担当する村で魔女が出たと、聖都に知らせが行っては困るのだろう。面倒事は領主に丸投げしたい魂胆が見え透いている。
どうせ山漆にかぶれたか何かで、十日もすればすっかり治るだろう。それまで適当に形ばかり調査しておくことにする。