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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
後日談ほか番外
110/132

『感謝のしるし』没バージョン

バレンタイン小咄の『感謝のしるし』の前に書いていた別案。

ド直球で恥ずかしい上に、エリアスがここまで言うようになるのはもっと後だよな、ということで没にした話。



 弟子が妙に深刻な顔で、何やら手にしてやって来たのは、山間の村に到着したその日のことだった。

 小さな教会の礼拝堂、ほかに人がいないのを確かめて、それでもなおこっそりと差し出したのは、薄く焼いた固い黒パン。


「グラジェフ様。これを召し上がりませんか」

「うん? どうした突然」


 会衆席に仕事道具を並べて点検していたグラジェフは、弟子の妙な態度に眉を上げた。

 エリアスは近くに腰を下ろすと、視線を合わせずそわそわした様子で、いつにもまして声を抑えて言う。


「なんでも今日は、この村の風習で……常日頃の感謝をこうした形であらわすのだそうです」

「ほう」

 また殊勝なことを、と面白そうな顔をしたグラジェフは、続く一言、

「という建前で、未婚女性が意中の相手に想いを告げるのだとか」

 を聞いてのけぞった。


 さすがにどう反応して良いやら即断できず、驚きと困惑に固まってしまう。これでエリアスが恥じらいでも表していたら大慌てするところだが、相手はどこか上の空だ。ごほん、とグラジェフは咳払いした。


「何があったのか、報告は整理してから順序立てて話してくれんかね」

「ああ、すみません。そうですね」

 エリアスは頭を振って詫び、手に持ったままのパンに目を落とした。

「実は先ほど、泣いている少女を見かけまして……」




 農家の裏手で壁際に座り込んで、膝を抱えた腕に顔を埋める少女が一人。最初は疲れてうたた寝しているのかと思ったが、細い肩が小刻みに震え、押し殺したすすり泣きが漏れるのに気付いたら、放ってはおけなかった。エリアスは彼女の前に膝をついてささやいた。

「私で何かお力になれますか」

 どうしたのか、と尋ねるかわりにそう申し出た彼に、少女はびくりと震えて涙に濡れた顔を上げた。そして相手が旅の司祭だと認めると、膝に抱えていたパンを突き出して言ったのだ。

「食べちゃって。誰にも見られないように」




「……泣いている子にあれこれ尋ねるのも酷ですので、それとなく他の方々から事情を聞き集めたのですが。この村では一昨日がパン焼き日で、その時にいつもと違うこういったパンも作り、乾かして今日、贈り物にする習わしなのだそうです。元々ほとんど結婚が決まっている間柄での確認というか、儀礼的なものだったようですが、いつ頃からか家の取り決め外のところで、こう……抜け道と言うか、自力で相手を奪取する機会、のような性質を」


「それはまた、いささか酷な変化だな」

 察したグラジェフは同情的に、使命を果たせなかったパンを眺めた。

 木の実入りの黒パン生地を薄い丸形にして、カリッと焼き上げてある。表面の十文字は円環と聖御子の簡略化したしるしだ。

 こうしたパンはだいたい決まった形と大きさなのだが、不思議と作った当人たちは、焼きあがったパンが誰の手によるものか区別がつくらしい。だからあの少女も、自分が渡せなかったことを知られないため、誰にも見られないようにと頼んだのだ。


「というわけなので、グラジェフ様。すみやかに無念の残骸を処理すべきかと」

 真面目くさってエリアスが言ったもので、グラジェフは失笑してしまった。

「なるほど。浄化特使の仕事というわけだな」

 はい、とエリアスはパンを半分に割り、片方を手渡す。しばし二人は黙ってカリカリポリポリと乙女心の供養にいそしんだ。


 無事に怨念の浄化だか証拠隠滅だかを終えると、エリアスはこほっと咳払いして、奥の司祭部屋から二人分の水を取ってきた。喉を潤して一息つき、改めて思案げに師の顔を見つめる。


「どうした、まだ何かあるのか」

 落ち着かなくなったグラジェフが訊くと、エリアスは眉を寄せて難しそうに答えた。

「その……風習というのはところによって実に異なるものですね。婚姻のように重大で多くの利害が絡む事柄を、このような……個人の意志と贈り物で左右しようというのは、言ってはなんですが軽々しく残酷でもある。そんな習わしが、この村では廃れもせず続いているのが不思議です。まだ建前としての『日頃の感謝』ならば安全でしょうに」


「両家の利害と釣り合いが最優先、という世界ばかりでもないということだ」グラジェフは苦笑した。「親類縁者の思惑があろうと、財産云々の計算があろうと、失敗した時の深刻な危険があろうと……それでも情熱を貫く者はいる。そういう人間にも機会と抜け道が認められているというのは、ある意味では自由で尊いことではないかな」

「……なるほど」


 エリアスは一応うなずいたが、眉間に皺が寄っている。感情的に納得いかないのだろうか、とグラジェフは推測したが、そういうわけでもなかった。彼は渋面で首を振って、

「いえ、こんな話をしたかったわけではなく」

 唸るようにつぶやくなり居住まいを正し、きっ、と正面から師を見据えた。その頬がほんのり赤い。


「グラジェフ様」

「なんだね」

 思わずたじろいだグラジェフに、エリアスは深々と頭を下げた。

「この機会に改めて感謝を。旅の空とて、何も……形にしてお渡しできるものがないのですが。あなたが下さる言葉、示される行い、すべてが」

「待て。待ちなさい」


 今度こそ本当に慌てて、グラジェフは弟子の熱弁を遮った。瞬く間に顔が熱くなり、額に当てた手が火傷しそうな気さえする。


「いや……そんな大仰にされるとだな、面映ゆいを通り越して、うむ、そうだ、慢心を招く。いかん。実に危うい」

 もごもごと歯切れ悪く言い、言葉を探しながら取り繕おうと苦心する。

「感謝の心を持つのは良いことだが、過大にしてはならん。そのように一挙手一投足すべてを手本にされては、身動き取れんではないか。私とて監督官の任は初めてで、師としてはまったく経験不足だ。私自身がかつて受けた教えをそなたに伝えるのがせいぜいで」


 と、そこでエリアスがふきだした。上げた顔に浮かぶのは、温かな敬愛の笑み。

「あなたが完璧な存在であるとは考えていません。それは生身の人間に向けるべき崇敬ではありませんから。それでも、あなたは私にとってこの上なく尊い師です」


 逃げ道を塞がれたグラジェフは天を仰いだ。吐息ひとつ、どうにか師匠らしい落ち着きを呼び戻して身にまとう。


「ではせいぜい幻滅されぬよう引き締めねばなるまいな。しかしそこまで言うのならば、エリアス、そなたもまた師に恥じぬ弟子となるよう励むのだぞ」


 思わぬ切り返しだったらしい。あっ、とエリアスは灰色の目を丸くし、次いで一本取られたというように苦笑しながら「はい」と畏まって一礼したのだった。



(終)

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