4-3 不器用な司祭
「無垢な魂が楽園で幸福ならんことを」
グラジェフはそっとささやいて聖印を切り、屋内の気配を窺ってから問うた。
「今、ここに住んでいるのは母娘二人だけなのかね?」
「ええ。あたしの夫は三年前に亡くなりました。ちょうどダンカのお腹が大きかった頃で、初孫のために新しい揺り籠を作るんだとか、あれもそれもって張り切って森に入って。良い人だったのに……根っこの腐った木が倒れて、下敷きになっちまいましたよ。ねえ司祭様、あたしらはそんなに罰を受けるほど悪いことをしたんですかね? それとも、悪魔があたしらを呪ってるんでしょうか」
ため息まじりの愚痴は、答えを求めているわけではないようだった。返事を待たず、ベルタは忌々しげな表情になってぶつぶつ言い添える。
「ろくでなしのジェレゾには蓄えを持ち逃げされるし、散々だったら……」
「ジェレゾ、というと、ダンカの夫だったか。逃げたのかね。離婚したわけではなく」
「あの卑怯者!」
はっ、とベルタは嘲笑をこぼして首を振った。
「そりゃね、はじめは辛抱してくれましたよ。泣いてばかりのダンカを慰めたり、励まそうとしたり。でも言わせてもらえば、何を言っても的外れで、余計にあの子を苦しめるばっかりだった。しまいに愛想が尽きたのか、夜の間にうちのわずかなお金を懐に入れて逃げちまいましたよ」
悪口を言い始めた途端、ベルタの顔は血色が良くなってくる。怒りで紅潮しているだけにせよ、ついさっきまでの疲れきって生気のない様子に比べたら随分元気そうだ。グラジェフは複雑な苦笑を噛み殺して促した。
「逃げると言ってもどこへだね。街に実家があるとか?」
「ええ、パン屋をやってますよ。もちろんあたしはすぐに、捕まえに行きましたとも。だけど来てないって言うんですよ。何も知らない、うちには関係ない、って。薄情なのは血筋ってわけですね、呆れたもんだ!」
ふん、と鼻息荒く締めくくる。話が一区切りついて沈黙が下りたところへ、遠くから歌声が届いた。歌詞は聞き取れないが、明るく澄んだ楽しげな旋律だ。グラジェフはじっと耳を澄ませて微笑む。
「良い声だ。聞いたことのない歌だが」
「でたらめですよ。でも、楽しそうだから何だってかまやしません。聖霊様が教えてくれるんだとかって」
「聖霊様?」
鋭く切り込むようにつぶやいたのは、エリアスだった。初めてその嗄れ声を聞いたベルタは、ぎょっとなって若者を見る。今の今まで存在を忘れていたところへもって、鴉が人語を発したがごとき声なのだから無理もないが、それにしても露骨な目つきだ。グラジェフはえへんと咳払いした。
「ああ、驚かせてしまったな。なに、昔に患った病のせいでこんな声になったが、悪魔のしもべというのではない。そう警戒しないでやってくれんか」
苦笑でたしなめられ、ベルタがもぐもぐ詫びを言う。エリアスは恐縮そうに肩をすぼめてうつむいた。その様子がいかにも繊細な心を傷つけられた風情なもので、ベルタは急いで言い繕った。
「知らなかったとは言え、ごめんなさいねぇ。ほら、見た目はとっても……整った男前の顔立ちだから、びっくりしちゃって」
不意打ちだ。グラジェフは咄嗟に唇を引き結んだが、堪えきれずぐふっと変な声を漏らしてしまった。エリアスのほうも、どう応じて良いものやら困惑して瞬きする。
二人の反応に、ベルタはまた失言したかと赤面した。グラジェフは自制心を総動員して穏便な態度を装う。
「いやこれは勿体ない、光栄至極。この通り愛想のない若者でね、なかなかご婦人からお褒めの言葉を頂戴する機会もないもので、驚いてしまった。良かったな、エリアス」
言葉尻でからかってやると、覚えてろよと言わんばかりの険悪な視線を返された。それはそれとして礼儀正しい若者は、ベルタに向けて丁寧に頭を下げ、ありがとうございます、と小さな声で感謝する。あとは邪魔すまいと、口を閉ざして姿勢を正した。
内気な若者だとでも思ったか、ベルタのエリアスを見る目が優しくなる。グラジェフは気を取り直し、話を戻した。
「それで……先ほどの、聖霊様についてだが。ダンカがそう言ったのかね?」
「ええ。ジェレゾが出てった後ぐらいですかねぇ。その少し前ぐらいから、だんだん落ち着いてきてはいたんですけども、それでもいつふらっと出てって首をくくるんじゃないかって気の休まる暇がありませんでした。それが、ようやっと笑顔を見せてくれて……本当にあの時はどれだけ嬉しかったか」
つらい毎日を思い出し、ベルタはまた目を潤ませた。そこではたと彼女は顔を上げ、そわそわと立って家の陰になっているほうの畑を見に行く。娘の姿を遠くに見付けて安堵し、あら、とつぶやいた。
「いけない、もうこんなに日が傾いちまって」
言われてグラジェフとエリアスも、陽射しが色づいていることに気付いた。ゆっくり昼食をとった後で山道を登ってきたから、早くも空は全体に薄紅色がかっている。ベルタが早口に言った。
「今から山を下りてたら、街に着くまでに暗くなりますし、良ければうちにお泊りください。なんにもおもてなしできませんけど、スープぐらいは用意しますよ。あたしはちょっと、ダンカを連れ戻してきます。お客様が泊まられることも言い聞かせますから」
「これは申し訳ない。ありがたくお言葉に甘えて、屋根を借りるとしよう」
グラジェフは一応恐縮しながらも、すんなり申し出を受けた。悪魔憑きかどうか、正体を見極めるには好都合だ。辺りを見回し、薪小屋に目を留めると、宿の代償にささやかな奉仕を申し出る。
「では、我々は少し薪割りでもさせてもらおうか。それとも、ほかに手伝える仕事があるかね?」
「あらまぁ、そんな勿体ない! 司祭様を働かせるなんて! ああでも、少し薪を作っといてもらえると助かります、ええ、ちょっとでいいんですけど。山の上のほうに嫁いだ妹がいて、時々いろいろ届けに来るついでに、男手を連れてきて力仕事を手伝ってくれるんですけどね。ここしばらく来てなくて」
言い訳のようにまくし立て、それじゃあお願いします、と頭を下げて、ベルタは小走りに娘のところへ向かった。
二人だけになると、エリアスはいきなり深いため息をついた。グラジェフは薪割り台のところへ行って鉈を取りつつ、悪気なく冗談を飛ばす。
「どうした、暗い顔で。男前が台無しだぞ」
軽口に対してエリアスはじろりと陰気な目つきをし、追加でもうひとつため息を寄越してくれた。
「悪魔祓いになった途端に、難しくなると痛感したのです。私には説教をおこなう資格がないのに、悪魔憑きの疑いを調べるにはどう話せば良いのかと」
「うむ、その点は難題だな」
グラジェフは思案しつつ、最初の獲物を物色した。幸い、一番大変な丸太からの切り出し作業は親切な親戚が済ませてくれている。太い薪をひとつ取って鉈を当て、切り株にコンコンと打ち付けた。刃が食い込んだところでやや動作を大きくして力を込め、まずは半分割り。
「外道退治ならばこれまでこなしたように、込み入った話をする必要もなく簡単だが。悪魔を相手取るなら、どうしても信仰にかかわる事柄に触れるだろう。独り立ちした後は、必ず現地司祭の協力を仰がねばなるまい」
カッ、カッ、カラン。軽快な音を立てて、四つ割りになった木片が転がる。エリアスはのろのろとそれを拾い、既に積まれた山に重ねた。
「……もっと単純かと思っていました。我々が近付けば悪魔は本性を現し、すぐにも攻撃してくるものだと」
「記録文書はかなり省略されているからな。ああ、そなたはあっちの枝を切ってくれ」
グラジェフは苦笑し、大振りの枝が置かれているほうを顎で示した。意気消沈した若者は鋸を取ったものの、うなだれたきりだ。グラジェフは次の薪を台に立て、ふむ、と提案した。
「聖都に戻ったら、典礼の司宰は無理でも個人的な説教ぐらいはできるように学び直してはどうかね」
「教えを説くだけなら今でもできます。聖典は全編暗誦できるほど読み込みましたし、説教集も学院にあるものは読破しました。ですが、それでは役に立たない」
エリアスは苦々しげに言い、歯を食いしばって鋸を引く。
「上っ面の、試験に答えるだけのようなものです。そもそも私は魔を滅することしか望んでいない。主の救いを信じていないのだから、何を言っても空しいだけでしょう。あなたのように、人の思いに寄り添い、心を開かせて話を聞き出すなんて……」
そこで彼は小さく舌打ちし、人差し指をくわえた。枝と一緒に指まで引いたか、棘でも刺さったか。グラジェフはおやおやと眉を上げた。
「学院では、ひたすら勉学に打ち込んでいたのだな」
感心したのと、呆れたのが半々の声音。どういう意味か、とエリアスが不審げな顔をしたのに対し、彼は皮肉な微苦笑を見せた。
「そなたと違って正式な司祭ならば皆、常に神を信じ、誰に対しても真心を込めて寄り添い説諭することができると、そう思っているのかね?」
「それは……、現にあなたは」
「私とて、いまだに日々信仰を試されている。なるほど、そなたを導いた師は立派な方々であったのだろう。だがそなた、共に机を並べて励む同学の士がどのような人間か、語らうどころか観察する余裕もなかったのかね。どんな人間が司祭になろうというのか、知ろうともせなんだか」
エリアスは衝撃を受けた様子で立ち尽くした。灰色の瞳が動揺に震える。グラジェフは顔を背けて手元に集中した。またひとつ割ってから、話を続ける。
「街の教会を見てどう思った。ジアラス殿については」
「えっ……」
「正直に言って良いのだぞ」
おどけて促してやると、エリアスは渋面でちょっと考え、ふたたび危なっかしく鋸を引きながら答えた。
「あまり……頼りにならない、と感じました。礼拝堂はあちこち傷んだまま手入れされていないし、清掃もいい加減で。腰掛けにぐちゃぐちゃに積まれた物をどかせた時、未開封の年報が挟まっているのが見えました。あの封蝋は間違いありません。人柄まではどうこうと断じられないにせよ、勤勉でないのは確かですね。ダンカが『おまじない』を広めるより前に、山の素朴な女が知るはずのないことを知っていると、気付いても良かったはずです」
「ほう、よく観察しているな。そうか、年報も読んでいない様子か」
「ええ。イスクリほどの町に司祭が一人だけでは、実際、手が回らないことも多いでしょうが……あつっ」
また失敗したらしい。今度は左手親指の関節に口をつける。
「エリアス。そなた、もしかして不器用なのか?」
何ともいえない声音でグラジェフが問うと、若者はむっとして負傷した手を振った。
「こういう作業は初めてだからです。じき慣れます」
「いやしかし、そもそも鋸の使い方を知っておるのかね」
「知っています」
歯を剥いて唸り、エリアスはまた難敵と格闘する。グラジェフは肩を竦めて自分の仕事に取り組んだ。交代しようかとも思ったが、鉈で指を落とされでもしたら大惨事だ。
「ともあれ、司祭といえども人間だ。聖務を完璧にこなせるとは限らぬし、怠けることも、信徒への対応に失敗することもある。そなたは己が形ばかりの司祭だと思っているようだが、そうではない。主に仕え人の世を守るに方法は異なれども、そなたも間違いなく司祭なのだと自覚せねばならんぞ」
あまり堅苦しくならぬよう、雑談のような調子で語りかける。返事は聞こえるか聞こえないか、「努力します」との一言だった。
しばし黙々と励んだ後、エリアスがふと顔を上げて母娘がまだ遠いことを確認し、やや声を低めて切り出した。
「それよりグラジェフ様、あの話をどう思われましたか。ダンカが聖霊様と言ったのは悪魔で間違いないでしょうね」
「うむ。恐らくな」
グラジェフは気を引き締めて応じた。
聖霊、という言葉は確かに聖典に登場するが、それはあくまで主の御力のはたらきを霊にたとえる文脈においてのみだ。この円環の世を形づくり、生きとし生けるものすべてに生命を与える偉大な流れ。それが聖霊であり、主と聖御子のほかに人格を持った神的存在があるわけではない。
もっとも巷には、先祖の霊だとか聖人の魂だとかが人々に語りかけたり奇蹟を起こしたり、といった俗信がはびこっているから、無学な田舎の女でも、自分にささやきかけてきた正体不明の声を、都合良く“聖霊様”だと言えるのだ。
「子を失って悲嘆に暮れているところへ、悪魔が慰めにきたのでしょう。母親や夫が何を言っても無駄な時でも、姿の見えない聖霊様が優しくしてくれたら簡単に騙される」
卑劣な、とエリアスは怒りを込めて吐き捨てた。グラジェフは、母に手を引かれて家に帰ってくる子供のような娘を見やり、小さくため息をついた。
「既に『まじない』を施したということだから、契約してしまっているだろうな。今夜は罠にかからぬよう、備えを施しておかなければ」