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The Holy Evil  作者: 風羽洸海
後日談ほか番外
107/132

愛欲と媚態と薬草学について

※秋口、師弟の旅も後半に入り親密度も上がってきた頃。


 今日こんにち、人の住む世界は基本的に点と線である。町や村とそれを取り囲む農地までが『点』であり、街道の『線』によって結ばれている。大地の他の部分はほとんどが荒れ地や森林、魔の領域だ。

 そんな厳しい世界を旅してきた後で、大勢の人で賑わう町に着くと、ほっとするような、外と内との断絶に呆然とするような心地になる。旅慣れた浄化特使であっても、その感慨と無縁ではない。


「毎度のことながら、つい昨日までの道のりが夢であったような気分にさせられるものだな」


 石造りの立派な教会で伝令特使に報告書を託した後、グラジェフは苦笑気味につぶやいて祭壇奥の円環と聖御子像を振り仰ぐ。横に並んだ弟子と共に、身に馴染んだ習慣的な動作で短く祈ったが、道中を無事に過ごせたことへの感謝は忘れない。


 さて、と礼拝堂を見回したところで、一人の司祭がこちらを窺っていることに気付いた。この教会の者ではないようだ。若くひ弱げな風貌で、いかにも誰かを頼りたいという気配を全身に漂わせている。グラジェフが目礼すると、青年司祭はほっとした様子でいそいそと歩み寄ってきた。


「主の祝福を、特使殿」

「貴殿にも。何か我々にご用がおありのようですな。外道の報せは受けておりませんが、気がかりでも?」


 社交的な挨拶どころか自己紹介さえ省き、グラジェフは用件に切り込む。青年司祭はやや怯んだ面持ちになったが、調子を合わせて話を進めた。


「外道や悪魔ではありません。ですので本来、浄化特使たるあなた方を煩わせるべきではないと承知しておりますが、是非ともお力をお借りしたく……お時間を頂けますか」

 ふむ、とグラジェフはひとまず思案する。先を急ぐ用事もないし、これも弟子にとって良い経験になるだろう。

「伺いましょう。対処できるか否かは内容次第、また緊急の要請が入ればそちらを優先しますが、よろしいかな」

「もちろんです」

 青年は恐縮しながらも笑顔で感謝し、控え室のほうへ二人を案内した。


「お掛けください。……申し遅れました、この町の北側でささやかながら教区を担当しております、司祭ユリアンにございます」

 両手を合わせて頭を下げた青年司祭に、浄化特使の二人も名乗りと礼を返す。ユリアンは改めて再度、礼を述べた。

「貴重なお時間をありがとうございます。実はつい先日も、別の浄化特使の方が近くにおいでだったので、こちらに来てもらえないかとお願いしたのですが、外道でも悪魔でもないものにかまけていられる余裕はない、と一蹴されてしまいまして」

「そうでしょうな」


 グラジェフは微かに皮肉な笑みを浮かべて、隣の弟子を一瞥する。いかにもそなたが取りそうな対応だな、と視線で揶揄され、エリアスは無言でしかめっ面をした。ユリアンが慌てて言い繕う。


「お二方にも、無理をお願いするつもりはありません。ただその、ひとえにわたくしの未熟がゆえですので、自力で解決することは難しく……努力はしたのですが」

「いったい何をさほどにお困りですか」

「……ある男が、自己流の『悪魔祓い』を止めようとしないのです」


 ため息と共に告げられた内容に、浄化特使の師弟は表情を引き締めた。ユリアンは二人の視線を避けるように目を伏せ、うつむきがちに続ける。


「その男はひとりの女を囲い込み、魔女だ悪魔憑きだと罵り痛めつけている、と……わたくしに知らせてきた者がおりまして。様子を見に行けば、部屋には霊力の痕跡こそないものの、いかにも怪しげな儀式まじないの類が設えられておりました。看破の術で念入りに確かめましたが」

「実際に使われてはいなかった」

「はい、まったく。ですからわたくしは、はっきりと彼らに告げました。これは悪趣味な真似事にすぎない、何の効果もないし誰のことも呪っていない、見た目が不気味だということのほかには無害だ、と。信用されないので、部屋を片付けて清めてやりもしました。しかし結局また、繰り返しているというのです」


 ユリアンは無念そうに「わたくしの指導力不足です」と呻き、唇を噛んだ。口ぶりからして、恐らく別の司祭かいっそ司教にも相談したのだろうが、助けが得られず叱責されるだけに終わったのだろう。グラジェフは思案を巡らせつつ腕組みし、同情的に提案する。


「領主の兵か、自警団などの力を借りるほうが効き目があるのでは?」


 本職の司祭が違うと言っても聞き入れないのであれば、相手は教会の権威をなんとも思っていないということだ。となれば世俗権力で抑えつけるしかない。

 ユリアンはなぜか頬を染め、目を逸らして口ごもった。


「衛兵の詰所には助けを求めましたが、彼らも乗り気ではなくて……その、場所が場所なもので、手出ししたくないというか、放っておけというか」

「……?」

「毒蛾の沼です」


 恥じ入りながらユリアンが白状し、グラジェフが納得の表情になる。エリアスはひとり意味が分からず眉を寄せたが、隣から「売春宿だ」と小声で教えられた途端さらに顔をしかめた。ユリアンはすっかり赤面し、せわしく言い訳を始める。


「なんとかしてやりたくとも、再々足繁く通うわけにゆきません。宿には用心棒もいて、わたくしが近寄ると商売の邪魔だと脅されたりも……わたくし自身、ああした場所は、その、やはり」


 しまいに涙ぐんでうつむいてしまった青年を眺め、グラジェフは苦笑いせずにおれなかった。この純朴ぶりでは、娼婦や女衒のような人々には到底太刀打ちできまい。侮られ、いいようにあしらわれるだけだ。それを「指導力不足」と咎めるのは酷だろう。彼ひとりに解決を押しつけたなら、思い詰めて強硬手段に訴え、事態を悪化させかねない。


 グラジェフは引き受ける前に、一点だけ確認した。

「いかにも望ましくない状況ではあるが、念の為お訊きする。その厄介な男はただの客で、悪魔祓いとやらも“そういう趣向”というだけの話では?」

 横でエリアスが、とても聞いていられないとばかりぎゅっと目を瞑る。ユリアンのほうは耳まで赤くなり、身を乗り出して声を荒らげた。


「だとしても、金さえ払えば罪なき者を痛めつけて良い、とはならないでしょう!」

 一息に言い切ってから、グラジェフの宥める手つきで我に返り、浮かせた腰を落としてうなだれる。

「その……最初はそうだったのではないかとは、思います。ただの客と娼婦の、ちょっとしたお遊び、少し危うい雰囲気を出したいとか、そういう。しかしもう、明らかに度を越している。だからこそ、仲間の娼婦が止めてほしいと頼みに来たのです」

「なるほど。そこまでとあらば、何かしら手を打たざるを得まい。まず我々が乗り込み、素人の勝手な『悪魔祓い』などは許さぬとして、男と犠牲者の女とをいったん引き離す。そうして男が別な趣向を考え出して戻ってくるまでに、店と交渉して出入り禁止の措置を取らせる……といった辺りですかな」

「は、はい。……できるでしょうか?」


 不安げにユリアンが尋ねたのを、グラジェフは肩を竦めて「主がお助け下されば」といなしたのだった。




 旅の荷物は教会の宿坊に置いて、師弟は最低限の武装で身軽になった。念の為に聖水や傷薬など一揃えを詰めた鞄は、道案内するユリアンが持っている。


「男の名はイゴル、気の毒な娼婦はアリツェといいます。わたくしのところへ頼みに来た娼婦が言うには、アリツェは元々少し……ふわふわした、流されやすい性質だとか。イゴルに気に入られてしまい、毎回乱暴に扱われるのに、そういうものだ、と受け入れてしまっていたそうです」

 街路を歩きながら、ユリアンは訥々といきさつを説明する。

「アリツェ自身があの客は困るだとか、何も訴えないものだから、これ幸いと他の女たちも店側もイゴルを彼女に押しつけて、見て見ぬふりを続けていました」

「そうするうちにどんどん暴力が激しくなっていったわけか」グラジェフが沈鬱に頭を振った。「一人だけでも良心が残っていたのは幸いだ」


 話す内に、三人はいかがわしい界隈に入り込んでいた。グラジェフは警戒を強めつつ、弟子の様子を気遣う。常から口数の少ないエリアスだが、今はその沈黙が凍てつく怒気を孕んで痛いほどに感じられた。

 昼日中からお構いなしに、どころか日中に一休みする程度の感覚で女を買う男たちがうろつき、軒下に客引きが立っている。通りをやってくる三人の司祭に気付くと、住民も客も露骨な反応を示した。あるいはそそくさと隠れ、あるいは迷惑そうにしかめ面をし、もしくは逆に揶揄を込めた笑みを向けてくる。


 町並みのほとんどが売春宿、あるいは酒と軽食(ついでに女)を出す居酒屋の類。間にぽつぽつと、日用雑貨や薬を売る薬局だの、理髪店だのがあって、ここにも生活があることを示していた。安普請が多いため声も物音も筒抜けで、猥雑な賑わいに時々あられもない嬌声が挟まり、その度にユリアンがぎくりと竦んで縮こまった。


 どうにか無事に目指す宿が見え、ユリアンはほっと息をついて足を止め、指差した。

「あの店です。イゴルは多分……今、来ていますね。用心棒があそこにいるのは、邪魔が入らないようにするためです」

 指摘の通り、店の正面に厳つい大男がどっかり腰を下ろしている。その頭上にぶら下がる看板は、大釜から黒猫が顔を出しているという、愛嬌があるのか物騒なのかわからない代物だ。エリアスがますます不機嫌になる。グラジェフはこほんと咳払いして、自分たちの目的を弟子に思い出させた。それだけでエリアスは、師の言葉を待つ顔になってこちらを見つめてくる。グラジェフは口を開きかけ、いったん閉じた。


 そなたは外で待つべきではないか、と言いかけたのだが、すぐに思い直したのだ。外道が市街に出ることは滅多にないが、悪魔だ魔女だといった訴えのほうは、こうした界隈にも縁が深い。独り立ちした後で誰の援護もなく踏み込むことになるより、今のうちに見せておくべきだ。ゆえに改めて問いかけたのは、

「覚悟は良いか」

 という一言。エリアスが表情を引き締めて「はい」と答える。グラジェフもひとつうなずき、看板を見上げて続けた。

「剣は抜くな。神銀は魔を断つものだ、今回は必要あるまい。そもそも中は狭かろうし」

「はい。では男のほうはグラジェフ様にお任せします。私は援護と、女の保護を」

「良かろう」

 簡潔に打ち合わせ、師弟は売春宿へ向かった。


 二人に気付いた用心棒が立ち上がって威嚇の体勢になったが、グラジェフが険しい視線を返しながら腰の剣を見せつけてやると、分が悪いと悟ったらしく渋面で腕組みした。


「通してもらおう」グラジェフは端的に命じた。「我々は浄化特使だ。この店で教会法に反する『悪魔祓い』が行われているとの報せを受け、糺しに来た」

「そりゃあ勘違いだ、特使さん。奥で騒いでるのは、ちっとばかし激しいことが好きなだけの常連客だよ。清く正しい御方が見るもんじゃない。女も承知でやってるこった」

「だとしても、ことが悪魔祓いとあらば見過ごすわけにはゆかぬ。本物の悪魔はそうした欺瞞に付け入るのが得意であるからな。女か客か、どちらかが早晩、悪魔の餌食になるだろうよ。そうなれば何が起こるか、聞きたいかね」


 平静に丁寧に説明してやっているような言葉だが、声音と表情はもっと直截に語っている――四の五の言わずに退け。

 用心棒は肩を竦め、離れて待っているユリアンのほうへ苦々しい一瞥をくれてから、黙って脇へ避けた。教区の司祭一人ならどうとでもできるが、さすがに浄化特使と揉めれば、もっと大物が出てきて界隈全体を巻き込む騒動になりかねない。

「後で店主と話があると、伝えてくれ」

 グラジェフはそう言い置き、弟子を連れて戸口をくぐった。


 予想通り、店内は狭かった。中心市街にある高級娼館とは違い、酒食のもてなしや余興などはいっさい考えられていない、ただ行為のための場所と女をあてがうだけの店だ。廊下の左右に小部屋があって、扉が開け放たれているところでは客のいない娼婦が爪や髪の手入れをしている。イゴルは一番奥の突き当たりにいるようだ。まさに『悪魔祓い』の最中らしく、大声が響いてくる。


「悪い魔女め! おまえは悪い魔女だ!」

 繰り返される罵声、「ごめんなさい、わたしは悪い子です」という女の涙声、激しい打擲音。グラジェフは弟子を振り返り、「問答無用だな。下がっていろ」と指示した。エリアスは蒼白な顔をしながらも怒りを抑制してうなずき、二歩ほど空けて立ち止まる。


 グラジェフは軽く数回拳を握り開いて呼吸をはかり、警告なしに踏み込んだ。扉の勢いに煽られて異臭が廊下に溢れる。ベッドで女を組み敷いていた男がぎょっと顔を上げた次の瞬間には、その顎を固い拳が捉えていた。

 のけぞって転がり落ちる男の口から、何かが吹き飛ばされて壁につく。床に沈んだ男は一撃で昏倒しており、反撃はいっさい無かった。


「お見事」

 エリアスが端的に言い、中の様子を確かめて素早く女のそばへ行く。グラジェフは廊下を振り返り、外にまで聞こえる大声でユリアンを呼んだ。

 室内はひどいありさまだった。壁際に並べられた怪しげな魔術道具――彩色した木彫りの髑髏だの首吊り人形だの種々の石だの――など可愛いものだ。シーツも壁も床も、血飛沫に染まっている。引きちぎられた女の髪が散らばり、水責めに使われたらしき洗面器が床を濡らしている。


「アリツェ? 聞こえますか、息をして」

 エリアスの呼びかけに返事はない。突っ伏したまま気絶してしまった女の背は、鞭打たれた皮膚が裂けて生々しい肉が覗いている。髪は水と血でぐしょ濡れだ。エリアスは彼女が窒息しないよう体位を変えてやり、駆けつけたユリアンが手当てに取りかかった。


 一方でグラジェフは、男の傍らに屈んで様子を確かめていた。半開きの口から漏れる匂いを嗅ぎ、壁についた何かを睨んで、室内を見回して正体を見付ける。枕元に置かれていた植物の束だ。

 葉を一枚ちぎって口に含み、数回噛んで吐き出す。


「やはりこれか」

「何です?」

 エリアスが問いかけ、師の手元を覗き込む。グラジェフは「ジマだ」と答えた。

「ジマ? 確か軽い興奮作用のある蔓草ですよね。でもこれは……」

「いささか様相が異なるが、この匂いと味は間違いない。恐らく毒性の強い変異株だろう」

「本来はちょっとした眠気覚ましぐらいの効能のはずです。学院でも試験前に一部の学生が頼っていたような」

 エリアスが記憶を探りながら言う。そうだ、とグラジェフは首肯した。


 ジマの自生地はロサルカの限られた地域だけで、栽培は土地によって毒物扱いで禁じられていたり、領主がとんでもなく高い税金をかけたりしているため、あまり流通していない。口の中で長時間噛み続けなければ効果が得られないので、手軽に使えないせいもある。

 だがどうやらイゴルは、より早く強く効果の出る株をどこかで見付けたらしい。


 ちょうどそこへ、近くの部屋から様子を窺っていた娼婦が一人二人、こそこそと戸口のそばまで寄ってきた。

「アリツェは?」

 青ざめた顔で問いかけたのは、教会に助けを求めた女だった。ユリアンが振り向いて笑みを見せる。

「大丈夫、ひとまずの手当ては済んだ。傷に障るから眠らせているだけで、命に別状はないよ。だがひどい状態だ。しばらく施療院に入れてあげるべきだね」

「そうできるなら」


 おぼつかない返事なのは、自分には何も決められないと知っているからだろう。教会付属の施療院は寄付による運営であり、貧者は無料で助けてもらえるが、療養などと怠けるな、として許されない場合もある。

 グラジェフが「店主には私から話そう」と請け合うと、女は安堵に表情を緩め、頼もしい浄化特使を見上げてとろけるような視線を絡みつかせた。


「ああ、ありがとうございます……!」

「礼には及ばんよ。ひとつ尋ねるが、このジマの枝は店で提供しているものかね?」

 まるきり態度を変えずにグラジェフが質問したので、娼婦はやや鼻白んだ。しかしめげずに、よく確かめるふりを装ってわざとらしく身を寄せる。

「これ……イゴルがいつもくちゃくちゃ噛んでたやつ? いいえ、うちではこういうのは使わないわ」

 ねぇ、ともう一人の娼婦に確認し、見たことないわよね、とうなずき合う。

「そうか。ではどこで入手したのか突き止めるよう、領主に進言するとしよう。取り調べの間は、この男も店に来ることはできまい。ユリアン殿、そこから適当な紐を取ってくれ」

 グラジェフが顎で示したのは、乱雑に置かれた衣服の小山だ。ユリアンが腰紐を抜き取って渡すと、彼はイゴルの手を背中に回して縛った。


 そこで不意に娼婦たちが、堪りかねたように吐息をもらした。厄介な客がしばらくでも来なくなることに安堵した……というには、いささか気配が違う。当惑する司祭たちの前で、娼婦二人がうっとりした表情で艶めかしくしなを作って、予想外のことを言い出した。


「はぁ~、素敵……特使さまなんて初めてお会いしたけど、格好いいのねぇ」

「この辺に来る司祭っていったら、ねぇ。偉そうにしてるけど、しまりのないふやけた身体で、ちゃっかりやることやりに来るのばっかりで」

 エリアスが苦虫を噛み潰し、ユリアンが目を白黒させてうろたえ、グラジェフはやれやれと眉間を押さえる。

「それにひきかえ、特使さまは本当にお強くて」

「あぁ~ん、もう、お祈りするだけで妊娠しちゃいそう」


「なっ……!?」

 声を上げたのはユリアンである。露骨な言葉に動転し、あたふたと無意味に手を振り回して、

「こ、こらっ! なんて、ことを……!」

 たしなめることさえできず、まとまらない言葉をもごもご押し出す。エリアスは愕然として娼婦らを凝視しており、さしものグラジェフも複雑な顔で眉を上げた。問題発言の当人たちは、お構いなしに熱い視線を送るばかり。


 ややあってグラジェフは気を取り直し、苦笑で応じた。

「そのようなことを言われては、貞潔の誓いが意味を成さなくなる。勘弁してくれんか」

 予想外の返答に、あら、と娼婦が目をぱちくりさせる。一拍置いてぷっと吹き出し、笑みに毒をまじえて特使ににじり寄った。

「やぁだ、特使さまはあたしたちには指一本触れないでしょうに。穢れちゃう心配なんてないでしょ? それとも、あるの?」

 道に迷う者を底なし沼に誘い込む、毒蛾の鱗粉のごとき声音。さすがに引き離さねばとエリアスが動きかけたのを、グラジェフは手振りで制した。そして、娼婦の挑発を正面から受け止めたまま、穏やかに語りかける。

「穢れるから触れぬのではないよ。一般的にはそのように考えられているが、私は違う解釈をしているのでな」


 説諭の口調を受けて、エリアスとユリアンが共に落ち着きを取り戻す。グラジェフは彼らに聞かせるため、そして娼婦たちにも理解できるように、平易な言葉を選んで続ける。

「愛欲というもの……とりわけ肉体的なものは、暴力になり得る。隠すことも守ることもさせず、快楽や痛みによって相手を己に結びつけるのだ。しかも孕ませたとあらば、赤子を通じて女の身体と人生を支配できてしまうのだからな。どれほど愛の行為だと言い繕ったところで、暴力であることは否定できまい。なればこそ本来は、互いに相手を慈しみ思いやる者同士、誠実な婚姻のもとでなされるべきことだ――と、私はそう考えておる。だから、たとえ指一本触れなかろうと、そなたらを害する結果を生むのであれば、私の罪になってしまうのでな。褒め言葉のつもりで言っているのは解るが、容赦してくれ」

「……」


 二人の娼婦はぽかんとして聞いていたが、残念ながら共に理解はできなかったらしい。あるいは無意識に理解を拒んだのか。理性と知性が瞳にきらめいたと思った次の瞬間、二人は手を取り合って、

「あぁ~ん、やっぱり妊娠しちゃうー!」

 口を揃えて嬌声を上げ、腰が抜けたようにその場で座り込んだのだった。




 店主と話をつけてイゴルを領主の衛兵に引き渡し、ユリアンと共にアリツェを施療院に送り届けると、ひとまず一件落着、師弟も撤収の運びとなった。

 別れ際、ユリアンが感じ入った様子で礼を言った。

「この度は何から何まで、本当にありがとうございました。娼婦たちへの対応も……わたくしもあなたのように、動じずにいられるよう修練を積まなければなりませんね。いつまでも指導力不足ではいけない」

「なに、若手の貴殿とエリアスが見ている前で、動揺してぶざまを晒すわけにはいかんのでな。見栄を張ったまでだ」

 グラジェフは鷹揚に笑って、相手の自責を軽くしてやる。

「年齢と経験を重ねることでしか身につかんものもある。焦らぬことだ」

 そう言って主の加護を祈ると、彼は弟子を促して教会への帰途についた。あとは変異ジマを薬草園の担当司祭に渡すだけだ。


 二人だけになった道すがら、グラジェフは弟子を見やって失笑した。

「ずいぶん渋い顔で考え込んでおるな。一連の出来事を復習するか?」

「いえ、……はい、確かに学ぶところの多い一件でした。もし私一人であれば、あの用心棒を退かせる時点で、別なやり方を取らねばならないでしょう。大の男を殴って昏倒させるのも難しい。となれば、そもそも頼みを聞くべきなのかという問題に」


 眉間に皺を刻んだままエリアスが答える。ちょうど橋にさしかかったので、グラジェフは通行人の邪魔にならないよう足を止め、欄干にもたれた。エリアスも隣に並び、川面を眺めて言葉を紡ぐ。


「そうした、考えるべきことは多々ありますが……今はとにかく、娼婦たちのあのふるまいが」

 ぎゅっと唇を噛んで黙り込む。その横顔を見やり、グラジェフは推測を投げかけた。

「厭わしい、腹立たしいと?」


 エリアスの身の上を思えば、同じ女があのような媚態を見せることに、反感を抱きもするだろう。むろん男の中にも娼婦を穢らわしいと嫌う者はあるが、それとはまた違う感情で。

 そうグラジェフが慮ったのを察して、エリアスは首を振った。


「腹を立ててはいません。私とてニィバ様に救われなければ、あそこにいたかもしれない。怒る筋合いはありません。ただ、やるせなくて受け入れがたいのです。せっかくグラジェフ様があんなに噛み砕いて説いてくださったこともまるで理解せず、……その、……妊娠、などとは。彼女たちにとっても恐ろしい事態のはずです。それをなぜ、あんな風に」

 拳を握り、自制しきれず欄干を叩く。腹を立ててはいないと言いながら、明らかにエリアスは怒っていた。笑い事じゃない、自虐にもほどがある、と。


 グラジェフは瞑目し、小さくため息をついて答えた。

「ああ言って媚びれば喜ぶ男たちが、客だからだろう」

「――!」

 はっとしてエリアスが顔を上げ、振り返る。彼女たちだけの問題ではなく、そこに女を買う男の存在があることを、今更に思い出したように。


「私の話も、どの程度まで伝わったのかはわからん。だが仮にすべて理解できたのだとしても、そうした知性をあらわにすれば、客の機嫌を損ねる。イゴルほどではなくとも、金さえ払えば何をしても良いと勘違いして乱暴に扱う者は多かろう。愚かなふりをすることで客の優位と自尊心を守ってやり、できるだけ穏便に済ませたい、という……娼婦なりの、生き延びるための戦略だ。あまり手厳しく断じてやるな」

「……はい」


 エリアスは素直に答え、沈鬱な表情になった。思い至らなかった己の未熟を責めているのか、改めて娼婦の境遇を思いやり心を痛めているのか。

 グラジェフはひとつ咳払いし、ついでにもう少し、この弟子の何事につけ手厳しい性質を和らげておこうと切り出した。


「なぜ分かるかというと、だな。実のところ、ああした媚態は女のものばかりとも限らんからだ。私も身に覚えがある」

「……、――!?」


 エリアスは訝しげに瞬きし、次いで目を大きく見開いた。今何かとんでもない発言が聞こえたが幻聴だろうか、とあからさまに信じがたい顔をして、絶句したまま師を凝視する。

 グラジェフはそんな弟子の様子に失笑をこぼし、己の過去を語りだした。


「以前、学院時代は勉学のつらさに何度も逃げ出したくなった、と話したろう。とりわけ薬草学が苦手でな、一向に覚えられず苦労した。どれだけ図版を睨んでも、自分の手で描き写してみても、先輩方が受け継いできた語呂合わせに頼っても、どういうわけかさっぱり頭に入ってこんのだ」

 懐かしそうに苦笑し、手にしたジマの枝をもてあそぶ。まだ弟子は唖然としたままだ。

「しかしそなたも知っての通り、浄化特使になるには薬草学が必修。それで私は、教師に媚びを売ることにしたのだよ。うまく気に入られたなら、私の事情を鑑みて採点を甘くしてくれるだろう、それしか望みはない、と思い詰めてな」

「ああ」


 そういうことか、とエリアスがほっとしたような納得をこぼす。グラジェフは軽く眉を上げたが、何を想像したのか、などとからかって墓穴を掘ることはせず、話を続けた。


「ご用はございませんかとうろちょろし、講義の前に教材を運んだり、当番でもないのに薬草園の世話に精を出した。当時の薬草学の教師は実に博識かつ厳格な方であったから、下手に賄賂も贈れぬし阿諛追従も逆効果とあって難題だったが、それでも、まともに勉学するよりは効果があると信じて励んだとも。だがなぁ」

 そこで言葉を切り、彼は珍しく恥ずかしそうな表情を浮かべ、顎を掻いた。

「さすがに見透かされておったよ。しまいに呼び出されて、こう言われた。『愚かな子供がなけなしの自尊心を売って評点を買おうとするさまは、痛ましくて見るに堪えない。特別に補習をしてやるから来なさい』」


「なんて、容赦ない……!」

 エリアスが我がことのように呻き、青ざめる。グラジェフは瞑目して重々しくうなずいた。

「あの時は羞恥のあまり死ねると思ったな。これが憤死というやつか、などと。ともあれ、愚かな子供も補習のおかげでなんとか浄化特使になれたわけだ。記憶の助けとして匂いや味で覚えられるように、安全にはからってもくださった」

「だからジマの見た目が違っていても、すぐにおわかりになったのですね」

「そういうことだ。不思議なもので、懸命に頭に詰め込もうとしている間はまるで駄目だったものが、学院を卒業してしばらくして、ある日ふとすべてが整然と記憶の棚に収まっていると気付いた。かき集めるだけかき集めて雑然と放置されていたものが、関連付けられ分類されて、知識として役に立つ状態になっていたのだよ。努力は無駄ではなかったと感動をお伝えする前に、師は亡くなられていたが」

 口調が湿っぽくなりかけたのをごまかすように、咳払いひとつ。グラジェフはおどけて、ジマの枝を軽く振って見せた。

「今では昔ほど緊張せずに、薬草園を訪ねることができる。ありがたいことだ。そろそろ行こうか」


 言いながら欄干を離れ、歩き出す。エリアスも「はい」と応じて従った。いくらも行かぬうちに、弟子の口から笑いを押し隠している愉しげな声が漏れた。


「話して下さって、ありがとうございます」

「うむ。己の生殺与奪を握る相手に対して浅ましく媚びることは、誰しもあり得る。そう伝わったのなら、……できればこの話はもう、墓に埋めておいてくれ」


 自分から聞かせておいて、今更そんなことを頼んだ師に、堪えきれず弟子が吹き出す。グラジェフは縋るように天を仰いだが、隣で赤毛の頭がいつまでもくすくす揺れているので、結局つられて笑ってしまったのだった。



2024.3.7



ジマは主にイエメンで消費されているニシキギ科の麻薬性植物カートの異称。

とはいえ異世界なので実在のものとは異なります。あくまでモデルということで。

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