断崖に立つ
※一部と二部の間、エリアスが一人で行動していた頃の話。悪魔祓いも何回か経験済み。
※自死にまつわる話です。閲覧注意。
都市や村を離れるとすぐに荒れ地や森林が迫り、獣や盗賊、果ては魔のものが蠢く世界にあって、“一人になれる安全な場所”は貴重なものだ。
エリク少年は小高い丘の中腹で、太陽に温められた岩に座って遠くの山並みを眺めていた。村からそれほど遠くはなく、十二歳にしては小柄で体力のないエリクでも苦労せずたどり着ける、ぽかりと開けた岩場だ。薪を集める村人や猟師の影がごくたまに周辺の木立をよぎるぐらいの、静穏な避難所。
彼はしばしばここに逃げ込んでいた。
初めてここを見付けたのは、野苺や鳥の巣を探している時だった。眺めが良く、座りやすそうな岩にちょうど日が差していて、ようこそと歓迎されているような心地よさ。嬉しくなったエリクはいそいそと腰を下ろし、楽しい夢想にふけった。
それからは、嫌なことがあるとここへ来た。親に怒られたり叩かれたり、村の子供らにいじめられたり。だが近頃は、何もなくとも暇さえあれば入り浸りになっている。
その理由は――
「今日もまた来たのね」
木立の奥から草を踏み分けて現れた、エリクより少し年上の少女だった。エリクは「やあ」と微笑んだが、その表情は会えて嬉しいというよりも悲しみの翳りが濃い。少女は隣に座り、少年の頬にそっと手を添えていたわった。
「本当につらいわ。あんたみたいに優しい子が、毎日こんなに苦しめられるなんて」
「ラウラのほうがよっぽど優しいし、苦しいじゃんか」
エリクは少女の手を取り、ぎゅっと握りしめた。
彼女は村の住人ではない。裏道を通って隣村から来るのだと言う。ひと月ほど前、エリクが岩の上で膝を抱えて泣いているところへ来合わせたのだ。あたしも嫌なことがあった時はここに来るの、と少女は言って、エリクと一緒に悲しみを分かち合ってくれた。
エリクが血と泥のこびりついた肘を見せ、父さんに殴られて転んだんだ、と言えば、ラウラはスカートをつまんで持ち上げ、痩せた腿についた青痣を見せて、継父につねられた、もっとひどいこともされた、と打ち明けた。
エリクが今日はまだ何も食べてないんだと言えば、ラウラはあたしも昨夜から水さえ飲んでないの、と言った。
そうして二人は互いの身の上を語り合い、相手の苦しみをも自分の苦しみに重ねていったのだ。
「おれのこと優しいなんて言ってくれるの、ラウラだけだよ。みんな、おれが嫌いなんだ。父さんも母さんも、おれがいるといつも不機嫌でため息ばっかり」
「あたしは邪魔だって言われた。おまえなんかいなくなればいいのに、って」
ラウラは唇を噛んで瞼を閉じる。頬に涙がひとすじ伝った。エリクは少女の肩を抱き、身を寄せ合った。
「おれたちがいなくなったって、あいつら何ともないんだろうな」
「きっとそうね。あたしたちだけが我慢して我慢して、苦しみ続けているだけ……ほんと、いなくなりたい」
つぶやくように同意して、少女はふと目を開く。潤んだ瞳にうっすらと熱を湛え、微笑んで言ったことは。
「ねえ、一緒に……死んじゃおっか? あたしが使う道の途中に崖があるの。通る度にいつも、ここで足を滑らせたら死ねないかな、って思うのよ。鳥に脅かされて、とか、足元がちょっと崩れて、とか。それなら自分で死んだことにはならないもんね?」
あくまで冗談よ、とでも言うように装った口調は、思い詰めた昂りを隠せていない。さすがに怯んだエリクも、じきに引き込まれて泣き笑いになった。
「そうなったらいいよなぁ」
「もうつらいことは沢山。あたしたち、充分我慢したわ。……連れてってあげる」
ラウラが立ち上がり、手を差し伸べる。それを取ったエリクに、少女はわざとらしい笑顔を見せた。
「せーの、で飛び降りたいけど、それじゃあ駄目よね。手を繋いで崖のふちぎりぎりを歩こう。そしたら絶対、どっちかは足を滑らすわ」
「飛び降りたっていいよ、そのほうが気持ち良さそう。地獄に落ちるなんて嘘だよ。だって神様がいるならなんで、ラウラやおれがこんな目に遭ってるのに放ったらかしなのさ」
エリクは強がり、それから改めて少女に正面から向き合った。
「もし本当に地獄に落ちたって平気だ。今の毎日が続くよりよっぽどマシだし、第一、こんなに優しくてきれいな女の子と一緒なんだから」
まるで求婚のように真剣に言った少年に、少女は頬を染めてうつむく。だが束の間の甘い空気は、異様な嗄れ声によってかき乱された。
「よく見ろ、そいつは男だぞ」
二人だけの世界にどっぷり浸っていたエリクはぎょっとなり、悲鳴未満のかすれた喘ぎを漏らして身体ごと振り返った。いつの間にやって来たのか、ほんの十歩ばかりのところに、厳しい目をした赤毛の青年が立っていた。
「なん……、だ、だれ」
エリクは動転して口ごもった。何から問いただせば良いのか、ごまかすか言い訳するべきなのか。明らかにこの青年は、自分たちを咎め罰しに来た態度だ。しかも腰には剣まで帯びて。エリクは青ざめてラウラに助けを求めようとしたが、少女はこわばった顔で青年を凝視したままぴくりともしない。
青年がエリクを無視して、少女の姿をした者に呼びかけた。
「レオ」
ぴく、と自称ラウラの肩が揺れる。エリクは困惑し、大事な友達と得体の知れない青年とを交互に見たが、どちらも彼に説明しようとはしなかった。
エリクの目が、青年の胸に揺れる銀環のきらめきを捉える。同時に彼が言った。
「私は浄化特使だ。悪魔憑きの報せを受けておまえを捜していた」
「――!?」
ぎょっとなったエリクの前で、ラウラ――否、レオ少年が後ずさって身構えた。
「待ってよ、女の格好をしたら悪魔憑きなの? だから殺すの!? そんなのあんまりだよ!」
噛みつくように抗議した声は確かに聞き慣れた少女のものだったが、なぜか今のエリクには、それが無理に作った甲高いだけの声だとわかってしまった。今まで気付かなかったことがおかしいのだ、と我に返ってしまうほどにはっきりと。
愕然となったエリクに、ほんの今し方まで『ラウラ』だった少年が涙声で訴えた。
「エリク! お願いそんな顔しないで、隠していてごめんなさい。でも苦しいのもつらいのもみんな本当よ、あんたと話せたおかげであたし――」
「小芝居はやめろ」
青年が無慈悲に断ち切る。レオが激しい怒りを込めて睨みつけたが、むろん相手は動じなかった。感情のない視線を返し、ゆっくりと剣の柄に手をかける。
「……どうやら手遅れのようだな。家族から『身代わり』を預かって来たが、無駄だったか」
手遅れってどういう意味、とエリクは疑問に思ったが、それを問える雰囲気ではなかった。レオの気配がいきなり変わり、激怒して罵声を吐きだしたのだ。
「家族!? 家族だって? あいつら俺の家族だって言ったのかよ、冗談じゃねえぞ! あいつらこそ、俺を家族だなんて認めず、爪弾きにして追い出して石を投げてきたくせに! くたばりやがれ!」
髪を振り乱し地団駄を踏んで、口汚く呪いを吐き散らす。
「いつもいつも! 俺がいくらもう動けないと言っても、つらいとか出来ないとか許してくれとか言っても、一回だって聞き入れられなかった。甘えるな、そんなだからいつまでも弱っちいんだ、めそめそするな、それでも男か、って! くそったれどもが、死にたくなるほど俺を追い詰めておいて、『息子がおかしくなっちまった、悪魔に憑かれたんだ、助けてください』だとかお願いしやがったのか、え? 浄化特使様よ、あいつらの言い分を真に受けたのかよ!」
煮えたぎる憤怒の激しさに、もはや『傷つけられた優しい少女』の面影はない。エリクは自分が何を見ているのか信じられなくて、震えながら後ずさり、うずくまって小さく身を縮めた。怒鳴り散らす父親から隠れる時と同じように。
一方で、相対する浄化特使は氷のように表情ひとつ変えなかった。
「死に誘われた魂を騙して喰らっただけの分際で、よく吠えるものだな。弱者の代弁者を気取れば見逃してもらえるとでも思ったか」
冷ややかに突き放し、スラリと剣を抜く。悪魔は汚らしい嘲笑を浴びせた。
「思い上がるな、馬鹿が! 貴様らが薄っぺらい戯言をぬかすばかりで、子供ひとり救えない偽善者だと教えてやっている! 俺はこいつの望みを叶えてやった、満足させてやったんだ。……弱っちくてもめそめそしてても、女だったら何も言われないのに。女なら馬鹿でも無能でも、股を開けば養ってもらえるのに。ああ女になりたい女だったら良かった、そうじゃないなら死にたい、ってな」
はっ、と憫笑をこぼし、スカートをつまんでことさら女っぽい仕草で、皮肉たっぷりにお辞儀する。
「実際面白いぐらい変わったさ。殴られたのも罵られたのも犯されたのも、男の時には誰も同情しないどころか面白がって笑いやがったくせに、可哀想な女の身の上話になった途端にころっと同情して、男どもは鼻の下を伸ばして親切面して寄ってきやがる。そういう下衆を転がしてやったさ。たっぷりと、心ゆくまで――望みが叶うまで、な。ああ、だけどエリク」
不意に呼びかけられた少年は、びくっと震え、丸まった姿勢のまま恐る恐る顔だけを上げる。彼のよく知る『ラウラ』が、いつもの悲しそうな微笑でこちらを見ていた。
「あんたには本当に同情したんだよ。おんなじ仲間だ、つらいよね、って。だから助けてあげたかったんだ。あんたのことも、同じように救ってあげたいって」
「……」
エリクは声を詰まらせ、ラウラ、と唇だけで呼びかける。同時に浄化特使が「違うな」と否定した。
「おまえはただ獲物を喰らいたいだけだ。そのためなら、いくらでも優しさを装って相手を騙す。それとも本気で自分が善いおこないをしたと思っているのか?」
一歩、二歩。前へ進み出ながら神銀の剣をかざす。陽光の反射を浴びせられ、悪魔は不快げに顔をしかめて唸った。
「少なくとも、金を巻き上げるだけで何も助けない貴様らよりは、遙かにな!」
「なるほど。悪魔なりに善行を積んだというわけか。ならば褒美に――貴様も楽にしてやろう」
言うや否や、青年は剣を振りかぶって悪魔に肉薄する。予期していた悪魔は、人間離れした脚力で太陽を隠すほどの高さまで跳び上がった。しかし直後、
「翔けよ隼!」
鋭い二言と共に銀光の矢がその顔をまともに撃つ。もとより斬撃ではなくこちらが本命だったのだ。距離を稼いで逃げるつもりだった悪魔は空中で姿勢を崩し、あえなく墜落して岩に激突する。骨が折れる嫌な音が響き、エリクは咄嗟に顔を伏せて両手で耳を覆った。
無残にひしゃげた身体で、なおも悪魔は立ち上がる。せめて一矢報いようというのか、それともせめて悪罵のひとつも投げつけようとしてか。だがどちらも叶わなかった。
神銀の刃が一閃し、命と霊魂を共に断ち切る。ぼろぼろになった身体がくずおれ、悪魔はむせび声を残して白煙と共に消えた。
浄化特使が清めの祈りを唱えているのが、指の隙間から聞こえる。エリクは自分もその場から煙になって消えたいと願い、震えながらいっそう身を縮こまらせた。
ややあって足音が近づき、
「終わったぞ」
端的な一言が告げたが、エリクは顔を上げられなかった。絶対に怒られると思ったからだ。村の司祭が説教だけでは不十分と思った時によくやるように、耳をひねり上げられるかもしれない。あるいは平手打ちをくらわされるか。
「……災難だったな。悪魔に目をつけられるほど、何を苦しんでいるのかは知らないが、とにかく今後は『一緒に死のう』だとか言ってくるやつは信用するな」
淡々と言う声音は、慰めようという優しさはまるで感じられなかったが、叱ったり責めたりするものでもなかった。エリクは恐る恐る腕をほどき、固く縮めていた身体を慎重に緩めて様子を窺う。赤毛の青年はかたわらに膝をつき、意外に穏やかなまなざしを向けていた。
途端にエリクの双眸から涙がどっと溢れた。あまりに色々ありすぎて追いつかなかった感情が、一度に襲いかかってきたのだ。
「……っ、ご、ごめ……なさ、ごめんなさい、ごめん、なさ」
しゃくりあげながらひたすら謝罪を繰り返す。止めようのない発作のような嗚咽を、青年はしばらく黙って見守った後、そっと手を伸ばして頭に置いた。
「もう充分だ、謝らなくていい。……《聖き道》に立ち返りたる者よ、主は汝の罪を赦したもう。汝に主の守りがあらんことを」
青年が祝福の聖句を唱えると、エリクは少しだけ気分が落ち着くのを感じた。頭の芯が焼けたように痺れて何も考えられなかったのが、すうっと熱が引いて楽になる。村の司祭の祝福では得たことのない感覚だ。少年は涙の残る目をしばたたき、おずおずと青年に向き合った。
何はともあれ礼を言わねば、という気がしてエリクは口を開きかけたが、果たしてそれが正しいのかわからなくなった。自分はあの恐ろしい悪魔に魂を喰われるところだったのを助けられたのだろう、それはわかる。だが『あれ』が『ラウラ』であったとは、変貌ぶりを直に見た後でもまだ信じられなかった。
一緒に苦しみを語り合い、互いを思いやって涙を流した友達。あのまま連れて行かれていたとしても、実際そんなに悪くはなかった、という気持ちが胸にわだかまっている。
エリクは迷った末に、曖昧な口調で問いかけた。
「……自殺したら地獄に落ちるっていうのは、本当?」
赤毛の青年は即答せず、眉を上げて問い返す。
「なんだ、やっぱりまだ死にたいのか」
「ち、違う、今は」
エリクは慌てて首を振った。嘘ではなく、ラウラに手を引かれるまま崖っぷちへ歩を進めようとしていた時とは、まるで心持ちが違う。しかし、いなくなりたい、という願いがすっかり消えたわけでもない。
そんな内心をあまり正直に言ってしまえば、さすがに今度こそ怒られるだろう。なんといっても相手は司祭、しかも浄化特使なのだから。
だが青年は見透かすように少年を見つめた後、何かに祈るように天を仰いで聖印を切り、おもむろに答えた。
「実のところ私は模範的な司祭ではないんだ。だから私の答えを聞いても、他人には言いふらすなよ。……自ら命を絶った者の魂は、容易に旅立てない。つまり楽園に入れないというのは本当だが、そもそも地獄にさえ行けないんだ。そうした魂は、悪魔や外道の格好の餌になる。喰われてしまえば奴らに同化し、飢えと憎しみに駆られて新たな餌食を求め、いつまでも地上をさまようことになるから、それを地獄と言うこともできるだろうな」
「そうなんだ……」
「だからどうしても死にたくなったら、こんな風に人知れずひっそり、というのはやめろ。なるべく早く見つかって、司祭の清めを受けられるようなやり方を選べ」
「えっ」
まさかの発言を受け、エリクは思わず頓狂な声を上げる。だが青年はかまわず淡々と続けた。
「そうすれば地獄には落ちない。もちろん楽園にも行けないが」
「……止めないの? 死にたいなんて言うな、とか」
エリクは困惑しながら訊いた。今までラウラのほかには、そんな気持ちを吐露したことはなかったが、それは絶対に馬鹿にされるか頭ごなしに否定されるのが目に見えていたからだ。エリクをさんざん罵り邪魔者扱いする両親でも、彼が死にたいなどと言えば激怒するだろう。甘えるな、親を悪者にするつもりか、地獄に落ちるぞ、などと。
青年はちらりと背後を振り返って、小さくため息をついた。
「子供を死にたくさせる家族もいる。そこから助け出さないまま絶望だけを禁じても無駄だ」
悪魔に憑かれて死んだレオ少年を思いやっての言葉だろう。エリクもつられてそちらを見ようと首を伸ばしたが、青年が素早く視界を遮った。正面からエリクの目を見つめ、青年はゆっくりと一言一言に力を込めて言い聞かせる。
「いいか、エリク。おまえの命も苦しみも、おまえだけのものだ。苦しくて弱っている時に優しい顔で助けてやると言われたら、すべてを預けてしまいたくなるだろうが、決して忘れるな。誰もおまえの苦しみを肩代わりはできないし、おまえの命や人生を勝手に決めるやつは悪魔か詐欺師、盗人だ。……どうしてもこれ以上は苦しみに立ち向かえない、この地上が耐えられないと言うのなら、私はおまえを引き留めない。だがその決断を、他人に利用されるな」
今まで夢にも思わなかったことを聞かされて、エリクは呆然とした。すぐには飲み込めず、しばらく頭の中で繰り返して咀嚼する。それでもすっきりと理解するところまではいかなかったが、ともかく力づけられたことは感じられて、自然と口元がほころんだ。
「難しそうだけど、なんかそれって格好いいね」
なんとも素朴な感想に、青年は初めて小さく笑いをこぼした。それから彼はエリクの肩をぽんと叩き、よし、と雰囲気を変える。
「それじゃあエリク、村に帰って手の空いている大人を何人か呼んできてくれ。遺体を埋葬するから道具を持ってきてほしい、と」
「わかった。……お墓、つくってくれるんだね。ありがとう」
すっと自然に感謝が口をつく。『ラウラ』は偽物だったのかもしれないが、それでもやはり、エリクにとっては憎むべき悪魔ではなく大事な友達だったのだ。
ああ、と青年はうなずき、手振りで行けと促す。エリクは軽い足取りで走り出した。いつもは憂鬱な帰り道が、今日は景色まで違って見えるようだった。
※
少年の後ろ姿が小道を下って見えなくなると、エリアスは大きく息をついて顔を覆った。師の渋面が目に浮かぶようで、しゃがみ込みたくなる。
(うう……グラジェフ様に知られたら銀環を没収されるかもしれないぞ……まったくとんでもない)
呻きを漏らして一人反省会をすることしばし。もう一度深いため息をついてから顔を上げ、天を仰いだ。
(あなたなら、まっとうで温かい説教をされたでしょうね。悪魔に魅入られた不運な境遇を憐れみ、救えない教会の力不足を恥じながら、それでも自ら命を絶つことはならないと、もっと前向きに生きられるように力づけ励まして……ああでも)
どうすればそんなことが出来るのか。どんなにお手本にしたくとも、師は師、弟子は弟子で別人だ。
(私には出来ませんでした。不肖の弟子ですみません)
悪魔憑きの報せを受けて赴いた村で、レオという少年の素性とその周囲の人々を知った後では、どんなにつらい境遇でもとにかく耐えて生きろだとか、悪魔に唆されるのは心が弱いのだとか、そんな酷いことはとても言えなかった。
彼は既に心身ともぼろぼろになるまで、いわば断崖の縁で生きていた。あるいは転落しあるいは突き落とされても何度となく這い上がり、底までは落ちまいと血の滲む手で崖の縁を掴んで耐えていたのだ。
そこに付け入った悪魔に対してはいっそう憎悪が募ったが、同じぐらい、悪魔の侵入を許す下地を作った人々にも怒りを感じていた。
エリアスは顔を下ろし、もう一度、エリク少年の去った小道を見やる。埋葬が済んだらあちらの村にも寄って、司祭と話をしなければ。エリクが実際どれほどの境遇であるのか、単に悪魔に惑わされて死ぬほどつらいと思い込まされただけなのか、確かめた上で何らかの手を打っておく必要がある。彼までもが断崖から落ちないように、せめて立っていられるように。
(気が重いな)
もう大分慣れたとはいえ、やはり他人との会話は気疲れする。グラジェフがいてくれて、自分は剣を振るうだけで良かった頃が懐かしい。
(……が、そうも言っていられまい)
ぴしゃりと両手で自分の頬を叩き、気を引き締める。これもまた、悪魔との戦いのひとつだ。
――と、そこまで考えてはたと気づき、彼はとびきり苦い顔になった。
「くそ……また名前を確かめ損ねた」
貴様はツェファムではないな、と。
実際に悪魔と対峙すると、そんな余裕は消え去ってしまう。最初から何か手がかりがあって、悪魔自身の口からではなく別の方法で名を掴めたら楽になるのだが、これまで一度もそんな幸運に恵まれなかった。
「まぁ、あんな小物なわけはないか」
つぶやいて頭を振り、改めて周囲を見回す。村の墓地に入れるのは無理だろうから、このあたりで適当な場所を見繕わなければ。
見晴らしが良くて安らげて、……時々はエリクが花を手向けに来られるような、そんな場所に。今度こそ、悪魔に邪魔されないように。
死者の安息を願う祈りをつぶやきながら、エリアスはゆっくりと歩き出した。
2022.7.20